Haven / 清川 湊
#65 Beehive
清川湊という男は、この日、本当の意味で大人になるということを知った。
俺はそれまで自分が歩いてきた道を振り返ったことがなかった。振り返ることの意義や、振り返ることの存在を俺は知らなかった。だが面影のなくなった同級生の顔を見て、俺は初めて自分の歩いてきた道を振り返ることができた。
驚くほど中身のないスカスカの道のりだった。脆く、崩れやすい、気泡を含んだ、そんな道のり。その昔、ダチと度胸試しを兼ねて家の軒先に出来た大きなハチの巣を棒っ切れで叩き割ってやったことがあった。一人一回ずつ、叩いては逃げ、叩いては逃げ、猿みたいにキャッキャッとはしゃいでいた。そのうち何人かが異変に気づいた。ハチの巣は既にもぬけの殻だったのだ。中にいた幼虫はとうに死に絶え、成虫はみな去った後だった。欠片を拾い上げると、それは見た目以上に軽く、握りつぶすと手の中で簡単に
それはまさに俺が歩いてきた道だった。俺が歩いてきた道の、俺が生きてきたこの三城という町の姿そのものだった。この町で過ごす何気ない毎日が楽しかった。家に帰れば、飯がある。外に出れば、ダチがいる。親に面倒を見てもらい、当たり前の日常を浪費して、その大きな大きな巣の存在に気づいていなかった。
小学校を卒業した頃、ダチの何人かがお受験をした。聞けば、市内の公立中学ではなく、隣町の私立中学に通いたいのだという。母親は「あのウチの子は頭がいいのねえ」とまだ他人事のように、また嫌味のように言っていた。
中学校を卒業した頃、ダチの大半が都内の高校に通い始めた。どいつこいつも学習塾に通い詰めるお
俺は学生の本分を忘れて夜遊びに
ダチの中には女もいた。硬派を気取る奴の中には、女とチャラチャラ遊ぶのがダサいという風潮があった。だが俺には別の考えがあった。女一人口説けない弱腰の男など、男であって男ではない。女を何人も手玉にとり、侍らせている方がカッコいい。メスを何匹も囲わせる、勇ましいオスライオンみたいでカッコいい。そんな風に考えていた。だから、俺の周りにはいつも女がいたし、周囲も俺の考えに迎合していた。固定概念をぶっ潰して、新しいムーブメントを起こせるのは自分しかいないという自負があった。誰も俺に逆らうはずがない。そう考えていたし、実際にそうだった。
遊びの延長だった。少なくとも俺はそう記憶している。女は泣きながら言った。子を身籠った。俺の子、だと。その女と枕を交わした記憶がある。女は普段大人しいくせに、二人きりになると大胆になった。他の女に目を付けられるのが嫌で普段は大人しく振る舞っているのだと赤目を腫らして言った。俺はそいつをそのままにしておくわけにはいくまいと思った。偽善ではない。何より心の弱った女を抱いてやるのも悪くないと思ったからだ。純然たる悪が性根を支配していた。
俺は親に女との関係を打ち明けた。隠すことも、恐れることもない。なぜなら、俺に女を養う経済力がないことは誰の目にも明らかだったからだ。人はそれを開き直りというだろう。しかし、何と言われても俺にはどうすることもできないのだから、こうして大っぴろげにするほかなかった。それに、そんな暴論を振りかざしても、尊い子の命のために大人たちはあくせく働いてくれた。
俺はせめてもの誠意を見せようと、女と結婚をした。役所に書類を提出するだけの簡素な手続きだったが、俺に見捨てられると踏んでいた女は泣いて喜んだ。地球の周りを付かず離れず回り続ける月のように、遠巻きに女に近寄っていた俺の心は、その泣き顔を見たことで、軌道線上を外れ、遠く宇宙の彼方に消えていき、二度と戻ってくることはなかった。
十九の年、女が唐突に別れを切り出してきた。俺はそれまで
女は自分から離婚を切り出したにも関わらず、俺にある条件を提示してきた。それは、子が二十歳になるまでの間、女に養育費を払い続けるという条件だった。俺には難しい話が分からない。両家の親が出てきて、あれやこれやと話し合いを進めてようやく話がまとまった。互いに折り合いがついたのだろう。女の顔は晴れ晴れしいとまではいかないでも、十分、その表情は清々しかった。その時に聞いた話だが、どうやら女は他に男を見つけてきたらしかった。相手の男は俺と同じ職なしだが、俳優を目指して劇団に所属している夢追い人だった。どうせ無職の男なら、夢を追いかける男の方が良いに決まっている。その片方の天秤に俺が掛けられていたことは癪だが、その気持ちは分かる。どうせ手放してもよいと思っていたモノだ。しばらくは親が支払ってくれる養育費、俺にとって損はひとつもなかった。
「お、清川じゃん。久しぶり。今何してんの?」
折り目正しいスーツ姿をした同級生が俺に近寄ってくる。その顔には少しだけ見覚えがあった。いつも教室の隅にいながら、何人かで固まって遊んでいたうちの一人だ。あの頃は鉛筆一本、消しゴム一つあればどこでも遊べた。だが、クラスの中心に立つような奴はやはり外でドッジボールをする活発な奴らばかりだ。コイツのような日陰虫はみなパッとしない、地味な奴の集まりだった。
「何って―――――」
言葉が出て来なかった。俺は高校を中退し、それから毎日その辺をほっつき歩いてるダチと遊んでるだけだ。だがそれはコイツの求めている答えじゃない。一人の男として、社会に生きる人間として、何をしてるのかと訊いたのだ。
「まあ、ボチボチやってるよ」
「そっか。清川あの頃と全然変わってないから、すぐに分かったよ」
「そういうお前は……、随分と変わったな。髪もそんな染めてなかったろ」
「高校まで染髪禁止だったからね。大学でちょっと羽目外してる」
ソイツは根元まで明るくなった髪を掻き上げて笑った。
「でも……、そろそろ黒くしようかな」
「なんでだよ、別に似合ってねえわけじゃねえ」
「いや、もうすぐ始まるんだよ」
「何が」
「就活」
その言葉は知っていた。親が親戚の寄り合いでよく話に出すからだ。誰それん家の子は今年就活なのね、と。俺はその意味を深く理解している訳じゃなかった。せいぜい大学から社会人に上がるための受験程度に考えていた。
「早くねぇか?」
就活の正しい時期はよく知らない。それでも大学に入って二年経たずですぐにやってくるものではないだろうということは分かった。
「そうでもないよ。業種研究とか、OBに接触したりとか。リクルーターの青田買いも始まるしさ、気は抜けないよ」
「そう、なのか」
「俺さ、いま国際経済の勉強してんだけど、この国はやっぱり世界から取り残されてると思うんだよね」
「はあ」
「海外には俺らが活用できるアイディアと資源がまだまだ眠ってる。いつまでも先進国を気取ってブランドを守ってる場合じゃない。そんなことを続けてたら本当にいつかこの国は終わる。だから、俺、総合商社に入って海外から色んな資源とか資本をこの国に取り込みたい。国益のために出来ることを考えていきたい―――――って、いまは何となく考えてる。ああ、これでも就活センターの指導員に考えがまとまってないって怒られんだけどさ」
何を言ってるのかさっぱり分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。コイツは俺にそんなことを嫌味で言っている訳じゃないということだ。本当に、本心で、自分の夢を語っている。そしてそれを実現できる力を自身の中に信じている。
俺はいったい何をやってんだ。
このまま
いつかボロボロの巣から死骸となって見つかるくらいなら、俺は―――――。
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