#24 Batting Cage
コージを早々に家から追い出し、僕は『とある場所』に向かっていた。以前は足繁く通っていた場所だったが、このところ就活や卒論で忙しく、なかなか足を運べずにいたのだ。コージに乱された、落ち着かない気持ちを鎮めるにはちょうどいいだろう。
「はい、お一人ね。五百円」
愛想のないお爺さんの乾いた手のひらに、僕は五百円を差し出す。
「三番ボックス。バットはそこのカゴから好きなの持ってって」
お決まりのセリフで、僕を横目に流す。
いい加減顔くらい覚えたろうに、この店の店主はそんな素振りを一つも見せない。きっと常連に愛想振りまくのが億劫で、通り一辺倒に案内しているんだと思う。もう少し愛想よくすれば客足も伸びるだろうに。
ビルとビルの隙間の小さな窓口の脇を抜けると、少し開けた場所に出る。上空を見上げると空が四角く象られていて、斜めに陽の差す緑色の人工芝がそこだけ眩しく見える。所狭しと並ぶバッターボックスと、ボックス目掛けて白球を発射するバッティングマシーン。
愛想のないお爺さんが経営する、立地だけで持っているような、この古いバッティングセンターが、僕の居場所だ。野球など体育の授業でしか経験がないが、無性に体を動かしたい時、僕はここに来る。初めは特に何も考えず闇雲にバットを振るだけだったが、持ち方やフォームを変えるだけで面白いほど球が良く飛ぶようになった。自分の体がどういう動きをすれば、球を打ち返せるか、毎回それを研究するのが楽しみになっていた。気づけば、台によって癖が違うことに気づき、それを攻略していくうちにすっかりハマってしまったというわけだ。
「よしっ……、目指せホームランっと」
僕は軽く素振りをしてから、脇に設置してあるバッティングマシーンの起動フックに指を掛けた。
ボックス奥の電光板に、オレンジ色のドットで描かれたピッチャーが現れる。足を上げて投球モーションに入ると、振り切った右手から―――左上の四角い穴から―――ボールが飛び出してくる。バッターバックス目掛けて放たれたそのボールを、僕は首尾よく打ち返した。しかし、ボールは手前で強くバウンドすると、隣のボックスを隔てる緑色のバッティングネットに当たって力なくその場に転がった。
詰まったな……、久しぶりだとこんなもんか。
それから三十分ほど続けて少しずつ勘を取り戻した僕の打球は、快音を響かせるようになっていた。古いマシーンなので制球精度は落ちているが、発射のタイミングが常に一定なので、スイング時のインパクトの位置さえ掴めれば、面白いほどボールがよく飛んでいく。これが少しくらい肩の力を抜いた方が、よく飛ぶのだ。こうなったらもう癖になってしまう。最小限の力で生み出す想像以上の結果が、癖になるのだ。
「やったー!ホームラーン!いえーい!」
遠くのボックスから、嬉々とした女性の声が聞こえる。
僕はふと周りの様子を確認する。ビジネス街の真中に佇むこのバッティングセンターに、野球少年のような、本気でバッティングの練習をしに来る客はいない。どちらかと言えば、仕事の合間やその帰りに軽く打ちに来るようなサラリーマンが多く、スーツ姿の客は珍しくない。
その女性も、
ボックスの外に目を遣ると、そんな彼女の様子を見守る人間がひとり―――彼氏かな? いや女性だ。それにしてもあの二人、どこかで見たような……。
「どこがホームランなのよ。ボテボテのゴロじゃない」
飛び跳ねて喜ぶOLを制して、彼女は溜息をついた。
「私の目には確かに見えたの。ショートの股を抜けて左中間を貫く、超高速弾丸ライナーがね」
「アタシの目には、ピッチャーゴロ、ファーストに送球、危なげなくアウト……まで見えたけど」
「杏子は想像力が欠如してるなあ」
「美佳が豊か過ぎるんでしょ」
あれはバイト先の先輩、桜見杏子さんだ。ボックスの中にいるのは、あれは誰だったっけ?どこかで見たことがあるんだけど……、大学の先生だったかな?
杏子さんとは軽い口喧嘩をしたあの日以来、一言も話していない。元々、常勤していたシフトの時間帯が違うので、顔を合わせることもないのだが、それでもあれから半年近くの間、同じバイト先にいながら一つの会話もないと言うのは不自然と言えば不自然だ。お互いに避けようと意識しなければ、決して作り得ない状況である。
こんな所で会って話すこともないので、僕は彼女らを意識の外に放りやって、黙々とバットを振り続けた。
「そろそろ帰ろっか」
「気は済んだ?」
「うん、済んだ。もう気分はメジャーリーガーよ、メジャーリーガー」
「それは良かったわ」
視界の端で、杏子さんと連れの女性がボックスから出てくるのが見えた。同時に二人が、出口のある僕のボックスの方に向かって歩いてくるのも分かった。
「―――ね、でさ―――」
「ああ―――の?」
彼女たちの声が段々とこちらにやってくるのが聞こえて、僕の体は少し強張る。
打球はいつだって正直だ。硬直した体のまま打った球が、角を削って、後方に流れる。
「うわぉ!……びっくりしたあ」
打球は凄まじい勢いで二人の側方のネットに掛かり、連れの女性が驚いて声を上げた。
「あ、あの、すいません!」
「しまった」と思った時にはもう遅かった。反射的に出た一言を後悔している間に、杏子さんとバッチリ目が合ってしまった。
「あ」
「あ、どうも」
僕が軽く会釈をすると、杏子さんはとっさに僕から目を反らした。
「え、何?ふたり知り合い?」
連れの女性が僕たちを交互に指差す。
「知り合いというか、バイトの子」
杏子さんはにべもなく答えた。
「どうもお世話になってます。別府です」
「へえ、別府君か。なんか温泉みたいな名前だね」
「ハハハよく言われます」
僕は久しぶりに聞いた『別府=温泉』という連想ゲームに戸惑いを覚えつつも、空笑いをして愛想を振りまいた。
「いま何?大学生?」
「はい。来年から社会人です」
「おお、そっか。じゃあもう内定は貰ったのかな」
「はい、田舎の信金から」
「へえ……、行員さんか。銀行は厳しいぞお、でもせっかく採用されたんだから、頑張って日本の経済回してよ!未来の頭取さん!」
その女性は、僕の肩を気前よく叩いた。僕は所在なげに、はにかんだ。
「ちょっと美佳」
杏子さんが呆れた顔で、服の裾を引っ張る。
「もういいでしょ」と呟く口の形が見える。
「ええ?この子、杏子のバイト先の同僚なんでしょ?」
「だから、何よ」
「ちょっと冷たくない?」
「別にいいでしょ。色々事情があんのよ」
『色々』の大部分はアンタのせいなのよ、と言いたい気持ちを押さえて彼女ににじり寄る。
「え、もしかして……、この子、元カレ?」
「なわけあるか」
彼女の頭をはたく。
「てて……、だってそれくらいの距離感じゃん」
「アタシ年下には興味ないの」
「あっそ、でも私ちょっとイイこと思いついちゃった」
「イイこと?」
にやりと笑みを浮かべる彼女に、何となく嫌な予感がした。
「ねえ、別府君」
そこで連れの女性が僕に向き直る。
「別府君、旅行に興味ある?」
「旅行……ですか。友達とはよく行きますけど」
「ちょっと美佳」
杏子さんが、『ミカ』という連れの女性の肩を引く。彼女は黙って、その手をゆっくりと払いのけた。
「ちょうど彼くらいの年齢のモニターを探してたの」
「だからって、別府君じゃなくてもいいでしょ」
「やると決めたら即行動、アラサーの女に、若い男は早々引っかかってくれないんだから」
再びミカさんが僕の方に向き直る。
「実は私こういう者なんだけど」
そう言って彼女は名刺入れから名刺を取り出し、僕に差し出した。
「イー・トラベル、企画部……、白居美佳……」
「私は、杏子の高校の同級生。白居美佳って言うんだけどって、あ、白いミカンって呼ばないでよ?」
「はあ」
「って言っても分かんないか」
美佳さんは大きく溜息をついた。
「その、杏子さんのお友達が僕に何の用なんですか?」
「いやそれがね、実は今とある旅行を企画してるんだけど、その旅行に参加してくれないかなと思って」
「あの、申し訳ないんですけど、僕、一人暮らしでバイトをして生活するのがやっとなので、その、正直、旅行に充てるお金は……」
「代金は結構よ」
美佳さんは腰に手を当て、鼻を鳴らす。
「代金は結構って……、どういうことですか?」
「この企画はまだ試作段階で、市場には販売されていないの。つまり、その、実験台って言うとすごく言い方悪いけど、要はモニターとして参加してほしいってこと」
胡散臭い旅行商品の勧誘かと思ったが、どうやら違うらしい。本当に勧誘したいなら、『実験台』なんて言わないはずだ。少しくらい話を聞いてみるか。
「それって僕一人ですか?」
「もちろん他の参加者もいるよ?あ、そうだ。20代カップルの枠が空いてるんだけど、そこに鞍替えしてもいいよ」
「そう、ですか」
「別府君、彼女は?」
僕は無意識のうちに杏子さんを一瞥した。
「いません」
「そっかあ、じゃあ、もし気になる子とかがいたら、当日誘って来てもいいよ?そういうカップルとかネットで募ってもいいんだけど、できれば素性が知れてる方がいいじゃない?それに杏子の知り合いなら安心できるし」
「杏子さんは、参加されるんですか?」
僕がそう問いかけると、杏子さんが顔を上げた。
「杏子?杏子はね、なんと企画側に回ってくれるのよ」
杏子さんが「観念した」と額に手を当てる。
なるほど、何やら話が見えてきたぞ……。
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