第8章 二人の少年‐15

 獣が巨体を打ち付ける音が響き、衝撃波でロッテの体がビクリと揺れる。その第一波の後、続けざまに鈍い衝撃音は、鬱蒼とした森の中に何度も響き渡った。


 しかしいつまで経っても、ロッテ自身に何も起きない。困惑しながら、恐る恐る目を見開く。

「……え?」

 ロッテは一瞬、視界に映った現実を認識出来なかった。そこには目一杯両手を広げたピップ・パーカーが目の前に浮いていたからだ。小さな体でロッテを守るかの様に、獣を見据えたまま微動だにしない。

 獣の執拗な攻撃を受け止めているのは、薄いベールの膜だった。

「……ピップ……」

「何故、私を呼ばれないのですか? 私共はロッテ様と命で繋がれております。必要だと少しでも念じて頂ければ、どんなに離れていても直ぐお傍に参ります。……ご存じでしょう?」

 無感情な声と言葉に、思わず口を噤んだ。ずっと傍に連れ添ってきた能力が今は本当に遠く感じてしまう。更に「呼ばなかった」後ろめたさがロッテを苛むのだ。

「何だよ。もうマスターじゃないんだろ? あ、そうか。僕が死んだら、お前も死ぬんだもんな。だから……」

 しかしそれ以上、言葉は続かなかった。ピップ・パーカーの無感情な背中に、迸る想いを垣間見た。打ち付ける獣の攻撃にかき消されそうな程、言葉は小さく紡がれていく。

「……ご自身の命が尽きれば、我々も消える事を承知の上で? 全てを放り投げて、この世界から消えるおつもりでしたか」

「え……」

『そ、そっか。そうだよな。僕が死んだら、四十八もの召喚獣も』

 周知の事実に、ロッテは小さな衝撃を受けた。死ぬ、自身だけではなく使い魔を死なせていたかもしれない……途端に心臓が大きく高鳴り痛みを帯びる。ロッテは、動揺を払うように何度も頭を振った。

「何だよ。また僕を責めるの? そもそも僕を最初に拒絶したのはお前達だろ? ぼ、僕を仲間として認めていない奴らなんか、呼ぶ訳ないじゃないか!」

 ピップ・パーカーが音もなく振り返り、静かにロッテを見据えた。その背後には、今まさにベールを引き千切らんと、獣が一心不乱に打ち付けいる。

「我々が拒絶している訳ではありません。ロッテ様が罪悪感から我々を拒まれているだけです」

「ざ、罪悪感……?」

「はい。ブックマスターの能力は、他のエンダと比較すると特異です。それは能力に我々という意識が備わっているからに他なりません。ブックマスターが、この世界で生き難いと言われているのも、類いまれなこの能力が故。マスターと共に生き、マスターが辿った道が、そのまま我々の人格と能力を形成してしまうからです。そう……ロッテ様は、我々の力が及ばない事を自分のせいだと責めておいでなのです」

 そう淡々と言葉にする姿を、ロッテはポカンと口を開けて見入っていた。よもやピップ・パーカーの口から自分を気遣う言葉が出るとは思わなかったからだ。

「は、違うよ。僕がお前達を呼び出さなくなったのはジョッシュと出会ったからさ。面白可笑しく生きたかったんだ。この世界はさ、僕にとっては窮屈なんだよ。獣、獣って、民は僕らの事なんて、これっぽっちも心に留めていないのにさ。何が救世主だ。何がエンダだよ」

 これ以上、言葉にすればエンダとして生きていけなくなる。混沌と溢れる感情を必死で抑えつつ、今まで誰にも言えなかった心情を吐露した。この地に降り立ってから、ずっと心に燻り続けた感情だ。かつての影など一切消え失せた容貌で、ハルのオーラを身に纏いピップ・パーカーは佇んでいる。

『昔のピップ・パーカーの方が好きだったな……』

 ふと浮かんだ感情に驚いた。内情で巻き起こる感情の渦に、困惑するロッテを目の前にして、感情の無い声は更に綴られる。

「では何故丸腰で、この獣の前に飛び出されたのでしょうか。民の救いを求める声を聞かれたから、体が動いたのでしょう?」

「そ、それは……仕方ないだろ? エンダの能力にそう刻まれているんだ。意志に反して勝手に体が動くんだ。民を助けたい訳じゃない。そう仕方なくだ。僕がこの世界で生きているのは……」


 その時、獣が大きく腕を振り上げた。全身が弛む脂肪にも係わらず、獣特有の鋭い爪が鈍く輝いている。

「ピッ……」

 スローモーションの様だ……この空間だけ別の時間が流れているように、鮮明に目に映る爪を見ながら、ロッテはそんな事を考えていた。

 獣の体重をかけた一振りが、攻撃で緩みきっていたベールを真っ二つに引き裂く。振り落とされた爪の動きと同じように、ピップ・パーカーの体が地面に叩きつけられた。

「ピップ!」

 仰向けに倒れたピップ・パーカーの白いスーツは大きく引き裂かれ、内部に深い漆黒の世界が見える。そのただただ深い闇に、視線が釘付けとなって動けない。手足を真っ直ぐに伸ばした姿勢で、ピップ・パーカーはポツリと呟いた。

「……Another Worldの扉を開けたのも仕方がなく? ……我々を求めたのも? そこにロッテ様の意思は一欠片も無かったと仰られるのですか」

 暫しの沈黙後、仮面の下から静かに一筋の涙が零れ落ちた。


「ロッテ――――――――!!」

 森に蔓延(はびこ)る蔓草を押し上げて、ジョッシュが木々の間から飛び出してきた。

「……ジョッシュ……」

「お前、バカか! いや、お前ら、本当に大バカ野郎だ!」

 後に続いた元が、怒号を上げた。ジョッシュが傍らに立ち、苦しそうな表情を浮かべている。

「お前一人で死なせられないからって、お前の苦悩が分かるからって、一緒に死んでやるのが一番だって、パーティ全員で間違いやがって。でも一番の大バカ野郎は、そんな間違った優しさにドップリ浸かって、這い出せなくなったお前だ! もっとちゃんと周りを見ろよ。お前を形成する全ての物に意識を向けろ!」

「……元」

 呆けたまま視線を向けるロッテを睨みつけながら、元はジョッシュの言葉を苦々しく思い返していた。



「あ? ロッテが海を越えたかったって?」

 ジョッシュは目線を反らし、「うん」とだけ小さく応える。仲間の反対を押し切り、ロッテは強引にハーデスラ海(二つ目の海)を超えたのだ。

「ブックマスターが……ハーデスラ海を渡った事例はないから、どうしてもこの地に来たかったんだ。ロッテは」

 名を語り継がれるエンダ達が存在するのは事実だ。力が正義のようなこの世界では、元もそれを誇りに思う時もある。しかしエンダにとって、それは狩りの成功についてくる単なる賞賛に過ぎない。名を残す……その事だけを意識して海を越えるパーティの存在に、元は驚きを隠せなかった。

「あぁ? 何それ?」

 困惑する表情を見て、ジョッシュは小さな失笑を浮かべる。あたかも、自分さえそう思っていると言わんばかりだ。

「ロッテはさ、何とかブックマスターとして、名を残したかったんだ。この世界に来た意義みたいなものを、あいつはずっと探してた」

「名前を残してなんになるよ?」

 頭を捻る元に、ジョッシュは口元にだけ笑みを受かべ、感情が欠落したみたいに言葉を続けた。

「希少価値が故の苦悩って奴さ。知っているだろう? ブックマスターはその希少性から、能力の殆どが未知数だ。ていうか、皆早死にするからね。そんな希少性から、案内役(ピップ)を最終形態まで導けたら、最強のエンダになれるとも一部では言われている位だ。

 ブックマスターとして、誰も越えられなかった海をロッテはどうしても越えたかったんだ」

 確かに巷で流れている噂は、元も聞いた事があった。しかし「最強」の判断基準が定かではない上、全ての職業に言われていることだ。戦士であれば「勇者」、ヒーシャであれば「賢者」に成る……そんな伽噺と同義である。ハルに言えば、どこのゲームの話だ? と一掃される事だろう。


「あれだけの力を隠して、ロッテに付き合うなんて滅茶苦茶だ。他の二人だって相当な使い手だったんじゃねぇの? こう言っちゃ何だけど、あいつの力は無視して、三人で戦えば何とかなったんじゃ」

 エンダの存在価値を否定する言葉だ。モゴモゴと言葉にする元に向かって、ジョッシュは肩をすぼめた。

「何だか途端に面倒くさくなったんだ。他の二人もそうさ。どこに行っても希少価値が付いて廻る。その求められる能力との差に、ロッテは常に苦しんでいた。ずっとそれを見続ける僕らも辛くて。僕達の差は広がるばかりで、これから先一緒に戦っていけなくなるのが怖くなった。……僕達は互いに依存しすぎたんだ。あの二人だって、僕達を何とか生かしたくて、盗みなんか……。馬鹿だよ、僕達だけ生き長らえても仕方がないのに……いつも大丈夫だって笑って。死ぬ時は一緒だって、何度もそう言ったのに……!」

 ジョッシュは目線を落とすと、地面を拳で打ちつけながら、「あんなの望んでいなかった」そう何度も呟いていた。そんな姿を元は見入りながら、協会に連行された男の叫びを思い出していた。

【そいつら不器用な奴なんだ! 何とか生きていけるように】

 何一つ上手く噛み合っていない。目の前で項垂れるジョッシュに目を向けて、小さく溜息を吐く。

「理解出来ねぇ……一体なんなんだ。何でこうなる?」

「元には分からないよ。誰よりも戦いに秀でてて、一緒に旅する人間だって人間離れしててさ。あり得ないでしょ、エンダの能力を奪えるなんてさ」

 吐き捨てられた言葉に、元は深い息を吸い込み空を仰いだ。太陽の陽が大きく西に傾き、辺りをオレンジ色に染め始めている。

『俺だって一緒だ。何時死ぬか分からないこの世界でビクビクしながら生きてるっていうのに……』

 しかし何とかその言葉をグッと呑み込んだ。言葉にすると、いつかこの思念に飲み込まれそうで怖くなる。獣の進化に追い付かなくなった時点で、この世界から排除されるのは自分自身だ。

「……俺だって自分の身を守るだけで精一杯なんだって。確かにハルは強いけど、それでもあいつだって何かに抗って生きてんだ。俺にとっちゃぁ、ハルは自分の次位に大事な奴だ。でもどんなに仲間でも、どんなに大切でも、一緒に死んでやるなんて、相手にも自分にも許されねぇ。お前ら、間違っちまったんだ。どっかで」

 ジョッシュは淡くオレンジ色に彩られた空を、木々の切れ間から見上げた。世界は普遍の様に、いつも変わらずあり続ける。自分達が朽ち果てようとも世界が変わることはない。そう想いながら、何度空を見上げただろうか。



 獣が怒号を上げた。

「ロッテ!」

 一歩前に踏み出すジョッシュを、元の腕が制止する。

「元!?」

「あれを見ろ」

 そう言いながら指さす先に、身を悶えさせる獣の姿があった。抗えない力で四肢を拘束されている様な、変な動きをしている。その証拠にロッテを前にして、一歩も動かない。

「あいつ、どっかで高見の見物してやがるな。たく、ちった~相談をしろってんだ。俺達には、手出しさせないつもり、か」

 そう元は言葉にすると、目前で拳を小さく振った。その拳から鈍い小さい音が響くと、ジョッシュは恐る恐る手を翳(かざ)した。

「え……これ」

 見えない壁が、この岩場をグルリと取り囲んで、侵入者を拒んでいる。ポカンと己の手の甲に見入る少年に、元は正面を見据え、独り言のように呟いた。

「転ばないようにってさ、事前に手を差し伸べんのも、場合によるぜ」

 ジョッシュは、ロッテと自分を隔てる見えない壁を一度だけ強く叩きつけると、そのまま手の甲に顔を埋めて、唇を噛みしめる。

『一緒に居る事が楽しかった。それなのに、いつからか関係性が義務めいてきて、辛くなって……それでも離れられなくて』


【大丈夫! ロッテはこれからもっと強くなるよ。それまで僕が守ってあげる】


 呑気に笑っていた頃が過っては消える。ジョッシュは、ピップ・パーカーに視線を落としたまま立ち竦むロッテに視線を向けた。

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