海辺のチガ子

飯島意匠 飯島 正樹

第1話 願いのトビウオ

 高校に進学した僕は、中学と変わらず一人ぼっち。誰とも喋らない。

 僕は無趣味で、面白い芸など出来ない。テレビを見る暇がないので、テレビの話題についていけない。運動神経は鈍い。勉強が凄く出来る訳でもない。僕にはクラスメイトと話すべき共通の話題など何も無いのだ。そんな僕に関わろうとするなら、それは物好きか暇人の類いだろう。

 僕の日常には、家庭の事情があちこちに影を落としている。例えばスマホを持っていない。スマホがないからLINEが使えない。LINEを通じて友達とメッセージをやり取りすることが出来ない。うちの経済事情がゆえに、それはどうしようもないことの一つだ。

 高校は、家から近い公立校というだけの理由で県立湯河原南高校を選んだ。授業料無料。歩いて行けるから定期代もかからない。名門校というほどではないけれど、一応、進学校。勉強は頑張った。

 湯河原南高でも僕は、積極的に友達を作ろうとしなかった。相変わらずLINE断絶地帯だし、友達との話題づくりのための努力なんかするくらいなら、父ちゃんの仕事の手伝いをした方が儲かって嬉しい。

 湯河原南高は相模灘に面している。それは知っていた。地元だから。湯河原南高の教室からは広く大きく海が見える。この風景は新鮮だ。教室からの風景なんて入学しないと実際に見ることは出来ない。

 授業に飽きると僕は海を眺めた。真昼の相模灘は南天の太陽を受けて銀色に輝く。学校の裏手は階段状になったコンクリート造りの堤防になっている。その階段堤防も知っていたが、あまり暇でない僕は、そこに行ったことは少ない。第一線を引退したおじさん達が、平日でも昼間から釣り糸を垂れていた。

 その日、いつものように海を眺めていると、階段堤防に猫がいることに気づいた。白い猫。釣り人から何かを貰っていた。

 猫に興味を引かれて僕は、昼休み、階段堤防に出てみた。釣り人は、狙いの獲物が釣れるとバケツに入れ、狙いでない小魚が釣れると猫に与えていた。その猫は、そんな小魚でも、うしゃうしゃと嬉しそうに食べていた。猫は真っ白だった。「にゃあ」と呼ぶと寄ってきた。人慣れしている。背中を撫でるとごつごつとしていた。野良生活の厳しさが体つきに現れている。尻尾は長くクランク状に折れている。お尻を見ると玉はない。雌だ。野良でこんなに人なつこい猫は珍しい。釣り人達と交流があるからだろう。


「ごめんよ。僕は食べ物を持っていないんだ」


 その猫は瞳の色が変わっていた。右がブルー、左が茶色のオッド・アイ。瞳の色が左右で違うので、僕はその猫を「チガ子」と呼ぶことにした。


 ……


 翌日の昼休み、僕は弁当からマグロの角煮を食べ残しておいて、階段堤防に向かった。

 いつものようにそこには、静かに波の寄せる相模灘が広がっていた。高齢の釣り人が時折、沖に向けて仕掛けを投げていた。


「チガ子」


 呼んでみると、どこからともなくチガ子がやって来た。僕の声を覚えてくれたようだ。

 僕は階段堤防に腰を下ろし弁当箱を開いた。


「今日は角煮があるぞ、マグロは好きかな?」


 階段堤防に弁当箱の蓋を置いて、角煮をチガ子に差し出す。チガ子は一瞬、不思議そうな顔をしたが、やがてそれが何であるか察したらしく、目付きを変え、角煮に食い付いた。


「うちは貧乏だから、肉はあまり食べられない。でも角煮が君の好みに合って良かったよ」


 時々首を振り、チガ子は角煮を捌くようにして食べた。角煮を食べ終えるとチガ子は僕の膝に乗ってきた。よほど嬉しかったらしい。

 チガ子は僕の太ももを、ゆっくりと押し始めた。僕は驚いた。これが「ミルキング」か。リラックスすると猫は、前足で足踏みするような動作をする。母猫から母乳を貰っていた頃を思い出しているのだ。Youtubeで見たことはあったけれど、体験するのは初めて。


「チガ子、明日も来るよ。何か欲しいものはある?」

「ミルク」

「そうかミルクか」


 はい?


 チガ子が喋った?


「チガ子喋れるのか?だったらもっと話がしたい、何か言ってくれないか?」

「……」


 学校の帰りにスーパーに寄って、特売になっていた小アジをまとめ買いする。それと牛乳。いつもの一リットル入りではなく、常温保存可能の小さいやつ。明日チガ子に持って行こう。しかし猫って本当にミルクなんて欲しがるものなのか?チガ子、飲んでくれるかな?

 うちは両親が病気で思うように体が動かないため、たいていは僕が買い物に行く。稀に母ちゃんの体調が良い時には、母ちゃんも単独で買い物に行く。そうすると期せずして牛乳が二パック冷蔵庫を占拠してしまったりするが、翌日の買い物で僕が調節すれば済むこと。大した問題じゃない。母ちゃんが買い物に行くと、チョコレートやおせんべいを買って来てくれる。


 僕の両親は二人とも二級の精神障害者。精神病というのは、一言で言うと、脳という臓器の故障。膵臓が故障してインスリンが出なくなれば糖尿病に、腎臓が故障して血液の濾過ができなくなれば腎臓病に、心臓が故障して血液がうまく循環させられなくなれば心臓病になる。それらと理屈は同じだ。脳という臓器が故障すると、脳内の神経伝達物質という奴が、過剰になったり不足したりして、精神病になる。そして、その精神病が原因で日常生活に支障が出る状態、それが精神障害。

 精神障害というのは、身体障害や知的障害と違って、あきらかに見た目で分かるということがない。そのため、なかなかその苦しさが理解されない。父ちゃんが言うには「三晩徹夜明けプラスおっかない上司から罵声を浴びせられた後、大声で『申し訳ございませんでした』と叫びながら土下座一〇回」、それが、精神障害の二級の「割と具合のよい時の気分」だそうだ。

 両親から僕に病気が遺伝しなかったのは運が良かった。でもそれはそんなに珍しいことではない。そうはいっても日常生活への影響は大きい。暮らしのあちこちに両親の病気が顔を出す。二人とも自分の体の切り盛りで精一杯なので、掃除、洗濯、炊事など、僕が行うことが多い。高校進学にあたっても僕は、学校に提出する書類の、そのほとんどを自分で書いた。


 父ちゃんは鬱病の、治りにくくて特に重いやつ。父ちゃんは湯河原出身の小田原育ち。平塚の大学に四年通って、卒業と同時に国家公務員になり、霞ヶ関某省に入った。学生時代の父ちゃんは、未来予想図を、こう描いた。「国家公務員=堅い職業=倒産しない=五時になったら帰宅」。真っ先に否定されたのは最後の一つだ。五時に帰るというのは霞ヶ関では有り得ない。霞が関は不夜城。終電を逃すことも珍しくない。堅い職業というのは、両手両足、一挙手一投足に至るまで、法律や通達という、ある種の重いおもりを背負いながら働くということを意味する。おもりはそれだけではない。省庁間の合意事項という、細かく込み入った取り決めもある。プロジェクトを進めれば、あっという間に合意書類が山をなす。確かに倒産はしないだろう。けれど激務。エリート達の出世競争が激しくて、失敗をすると(出世をしたくてしょうがない)上司からもの凄いプレッシャーを受ける。まだパワーハラスメントという言葉が一般的になる前のことだ。


 そんな霞ヶ関で父ちゃんが任された仕事は、当時まだ黎明期だった省庁ホームページの、担当課ページの制作および更新。複雑なルールが定められ、かつ、実務的にはWindowsのメモ帳でHTMLタグを手入力しなければならなかった。もともと文系だった父ちゃんは、苦労してHTMLタグを習得し、毎日遅くまでホームページと格闘していた。しばしば父ちゃんは更新に失敗したり、誤字脱字などのミスをしでかした。そしてその都度、直属の上司から酷く叱責された。そんな毎日を過ごしているうちに、父ちゃんは鬱病を患うようになった。父ちゃんは毎日抗鬱剤を飲みながら、精一杯頑張って霞ヶ関に通った。

 ある夜、残業中にふらりとトイレに向かった父ちゃんは、無意識のうちに手首を切っていた。四階男子トイレが血の海。発見があと一分遅ければ父ちゃんは死んでいた(=僕も生まれていない)。救急搬送。遺書はなく、自殺の原因は不明とされた。後で分かったことだが、直接的な自殺の原因があったというより、鬱病の希死念慮というものだったらしい。父ちゃんは一命を取り留めた後、救急センターから精神病院に転院した。


 一方、湯河原出身湯河原育ちの母ちゃんの病気は、統合失調症。現代美術家や有名シンガーソングライターなど、この病気は、しばしば芸術系の才能に恵まれた人を悩ませている。母ちゃんも若い頃は美大生だった。今でもメモ帳に落書きなどすると、幻惑的な抽象画になっているのだが、「こんなの遊び」と言って、母ちゃんはそれをポイポイと捨ててしまう。


 美大受験というのはとても厳しく、母ちゃんは高校二年生から平塚のアトリエに通っていた。そして、トレーニングのための絵を数えきれないほど描いた。それは楽しい作業ではなかった。苦しい作業だった。だが美大合格の為に母ちゃんは頑張った。アトリエに通っていた頃から何か違和感のようなものは感じていたらしいのだが、その違和感の正体は多分、ストレスによる疲労だろうと、母ちゃんは思っていた。

 母ちゃんは「美大に入れば好きな絵が自由に描けるようになる、それまでの辛抱だ」と、歯を食いしばって毎日、描きたくもない「トレーニングのための絵」を描きに描きまくった。

 そして母ちゃんは晴れて美大に現役合格した。湯河原からの通学は無理と言うことで、下宿を埼玉の所沢に決めた。東京の人は笑うかもしれないけれど、湯河原から見たら、所沢は「大都会」「都心」、もう「東京の一部」なのだ。憧れの都市生活。心躍らせて母ちゃんは、美大の門をくぐった。そこには無限の自由がある、と、母ちゃんは夢を広げた。たが美大の授業が始まってみると、そうではなかった。自由どころか毎日が課題の嵐。自由に絵を描く時間も余裕も全く無くなってしまった。母ちゃんは、絶望しながらも課題をこなした。

 ある日、下宿先のマンションで、三角錐とりんごをデッサンしていると、りんごから虫が這い出して来るのが見えた。そして背後から首を絞める誰かが居た……それらは統合失調症の幻覚だったのだが……マンションのベランダから助けを求め、通行人が警察に通報。警察から精神科へ直行。入院。


 父ちゃんと母ちゃんは、それぞれ別の理由で静岡県沼津市の病院に入院した。父ちゃんは小田原の近辺の病院に空きがないという建前で。近所の精神科に入院したくない、という本音もあったようだ。母ちゃんは最初に診察を受けたクリニックの先生が、沼津の病院に勤務している先生だった。

 ある日、母ちゃんは、談話室で「病院友達」と昔話をしていた。精神科は入院期間が長いので友達が出来やすい。

 友達は高校生の時に統合失調症を発症していた。全日制の学校を辞めて通信制の高校に転学した話。母ちゃんの高校時代の話は、毎日平塚のアトリエに通って、遅くまで絵を描いていたことなど。


 「でも帰りが遅いと、時々、特急にタダで乗れたんだよ。湘南ライナーっていう」


 その話を、横でテレビを見ていた父ちゃんが聞いていた。いや、この時点ではまだ、母ちゃんでも父ちゃんでもなく、他人だったのだけれど。


 「湘南ライナー、俺も乗ってた。てゆーか平塚通ってた」。


 夜になると東海道線には「湘南ライナー」という不思議な特急が現れる。東京や品川から乗る時には特急料金が必要だが、大船から先の駅で乗る時には料金が不要。特急というより快速の一種だろうか?

 湘南ライナー、平塚、湯河原。運命のいたずら。交わるはずのない線が、沼津の病院で交わった。

 二人は平塚の美術館や喫茶店の話なども話すようにになった。それと湯河原の地元話、「味の大西」のラーメンは美味しい、いや「国味(こくみ)」の方がボリュームがある、など。沼津の病院に湯河原から来ているのは、父ちゃんと母ちゃんだけだった。

 思い出話だけでなく、父ちゃんと母ちゃんには、病気は違えど共通点が多かった。ともに「億劫」で「体が重い」「だるい」「風呂に入りたくない」など。やがて二人は一緒に作業療法に参加するようになった。二人はどんどん仲良くなって、そのまま勝手に籍を入れてしまった。そして生まれてきたのが僕だ。


 父ちゃんはその時既に霞ヶ関の仕事は辞めていた。療養休暇や休職という選択肢もあったのだが、父ちゃんはもう二度と霞ヶ関に行きたくないと考えた。そして結婚してから父ちゃんは、生活費を稼ぐために、霞が関時代に覚えたHTMLタグの知識を活かしてウェブ管理の仕事を始めた。最初は仕事がなかなか取れなかったが、僕が生まれる頃には常連のお客さんが一件二件と少しずつ付いてきた。

 単純に湯河原で稼ぐことだけを考えれば、温泉旅館の正社員になった方が儲かる。ただ、父ちゃんは病気と薬の副作用のために、日中、不規則に眠気がやってくる。そんな体調であるから、雇われ仕事は難しい。父ちゃんは、居眠りをしながら仕事場でぽちぽちと、小規模なウェブサイトの更新や、メールマガジンの執筆代行などを行っている。そんな仕事が儲かるかというと、そうではない。絶望的に儲からない。だから僕らは、いつも貧しくつつましく暮らしている。


 父ちゃんが自宅で仕事をしていることによるメリットは、実は僕も享受している。貧乏暮らしながら父ちゃんの仕事上必要なので、家に1Gbpsの光ファイバーが引いてある。パソコンも自由に使える。父ちゃんの制作用パソコンのほか、僕が手伝いをするときに使うノートパソコンがある。OSはWindows。Macでないのは、父ちゃんがデザイナー出身でなく霞ヶ関出身だった名残だ。

 小学三年生くらいから既に、僕は光ファイバーとパソコンを使って、インターネットの海を自由に巡り歩いていた。僕が興味を惹かれたのはプログラミングだ。プログラミングによって、パソコンが自分の指示したとおりに動作する。それが面白かった。プログラミングは父ちゃんの仕事の手伝いにも大いに貢献する。仕事で必要なスクリプト言語をマスターしたのが中学一年。分からないことはGoogle調べた。今では、その分野では父ちゃんより僕の方が詳しい。というより、そもそも父ちゃんの技術は2000年くらいで止まっている。


 ともあれ、そんな両親であるがゆえ僕は、子供ながら身の回りの色々なことから仕事の手伝いまで、自ら色々と行う必要があった。何も出来ない小さい頃は悲惨だった。夕ご飯が「今日はお休み」という日がしばしばあった。経済的にというより体調的な問題で、両親とも体が動かなくて料理が出来ないのだ。そういう日には、水を飲みながらポテトチップスを食べてしのいだ。

 小学三年生頃から、そういう時には僕はコンビニにおにぎりを買いに行くようになった。

 小学五年生頃から料理を始めた。初めて作ったメニューは、キャベツ入りのインスタントラーメンだった。中学に上がる頃には、ささやかながらも何とか夕食が作れるようになっていた。

 中学で既に、僕は学校関係の提出書類の作成なんかも、ほとんど自力で済ませた。例えば自宅から学校までの地図を書け、という提出書類があったが、自宅からほとんど出ない父ちゃんにも母ちゃんにも、そもそも中学校までの道がわからない。さすがにPTAだけは免除してもらった。生徒が代理出席という訳にはいかないから。


 ……


 さて、スーパー経由で僕が学校から帰宅すると、母ちゃんはこたつで丸くなっていた。

 母ちゃんが顔を上げると、眉間にちょん・ちょんと縦じわが入っていた。かなり具合が悪くなっているサインだが、まあいつものことではある。


「しんどい?」

「うん」

「頓服飲んだ?」

「我慢大会」


 母ちゃんは決して、好きで我慢しているのではない。統合失調の症状一つに「億劫」というのがあり、それが出ているのだ。億劫になると頓服薬も飲めなくなり、頓服薬を飲まないので、なおさら億劫になる。もの凄く辛い循環である。


「我慢しなくていいよ、今、頓服作るから」


 僕は台所に向かい、冷蔵庫のドアポケットから野菜ジュースを取り出す。グラスに半分。頓服薬の液剤リスパダール3mlを2本注入。本当に具合の悪い時にはこれくらい飲まないと効かない。僕は居間に戻り、液剤リスパダール入りの野菜ジュース母ちゃんに飲ませる。


「今日はアジが安かったよ。母ちゃんの好きなアジフライにするよ」

「うん、アジフライ大好き」

「父ちゃんは?」

「まだ事務所。呼んで来るよ」


 母ちゃん、眉間の縦じわ消失。ひょいひょいと外階段を下りて一階の仕事場に向かう。液剤リスパダールは偉大。この薬は母ちゃんの日常生活を、随分とマシにしている。

 僕は小さな台所で米を研ぎ、炊飯器にセットする。うちは築五十年の事務所兼アパート。昭和の頃は水道工事屋さんだった。その古い建物を月三万円で借りている。一階の事務所跡が父ちゃんの仕事場。二階は住み込みの職人さんの宿舎だったが、今は僕らの住まい。

 炊飯器の機嫌の良い音を聞きながらアジフライを揚げる。トマトとキュウリと大根を切り、ドレッシングで和えた。

 夕食を食べながら、僕はふと思い出して、チガ子のことを話した。父ちゃんは「猫はいいぞ、猫はかわいい」と言ったが、母ちゃんは「うちでは飼えないからね」と釘を刺した。

 まあ、そうだろうな。借家だし、貧乏だし。


 ……


 翌日の昼休み、僕は弁当を持って階段堤防に出た。チガ子はすぐに現れた。今日も釣り人に付き合って小魚を貰っていたようだ。

 果たしてチガ子はすぐに現れた。今日も釣り人に付き合って小魚を貰っていたようだ。


「チガ子、持って来たぞ、ミルク。その前に、アジフライを一匹あげよう」


 弁当からアジフライを一匹、つまみとる。弁当箱のふたを裏返して、アジフライを置く。チガ子は最初、不審そうな表情をしてくんくんと匂いを嗅いでいたが、やがてそれが何であるか察したらしく、旨そうに食い付いた。


「アジフライは好きかい?」


 チガ子は何も答えない。でも喜んで食べている。

 しゃくしゃくとアジフライを噛み砕き、少しずつ飲み込んでいく。


「アジフライが君の好みに合って良かったよ」


 僕も弁当箱からアジフライを一匹取り出して囓る。

 アジフライを食べ終えると、チガ子は満足そうに、前足で顔を洗い始めた。


「それとミルクな。しかし本当にミルクでいいのかな?」


 今度は弁当箱のふたを少し傾け、紙パックを開いてミルクを注ぐ。

 チガ子はそれが何であるかすぐに分かったらしく、注ぎ終えるとすぐに、小さな舌を出してミルクを飲み始めた。


 ぺくぺくぺく。チガ子がミルクを飲む音が海辺に漂う。


 考えて見ると、チガ子に限らず野良猫は、ミルクどころか綺麗な水を口にすることすら難しい。公衆トイレに行けば水道はあるが、猫は蛇口をひねることが出来ない。雨上がりの水たまりの、雑菌だらけの泥水を飲んだりしているのだろう。それでも猫は胃酸が強いから食中毒にはならない。でも寄生虫や伝染病に感染するリスクは高い。

 僕は紙パックに半分残っているミルクに、ストローを刺して飲んでみた。生温いけれど、かすかに甘みを含んだミルクの味が口に広がる。僕とチガ子との間に、ミルクを介して満ち足りた時間が流れる。


 ミルクを飲み終えると、チガ子はまた僕の膝に乗った。

 そしてゆっくりと足踏みを始めた。糠味噌を押し混ぜているようにも見える。昨日と同じ、ミルキング。

 僕は、父ちゃんと母ちゃんの「ごろにゃん」を思い出す。「ごろにゃん」というのは、精神的に具合が良くない時の、セルフケア。癒しっこ。父ちゃんの膝枕に、母ちゃんが頭を乗せる。父ちゃんは、母ちゃんの背筋をなでたり、背中や腰のあたりをぽんぽん叩いたりする。母ちゃんは「ごろにゃーん」と言う。逆もある。父ちゃんの具合が悪い時には母ちゃんの膝枕で、父ちゃんが「ごろにゃん」をする。

 そんな風に甘えられる異性がいたらいいな……とは思う。チガ子が同級生で「ごろにゃん」のできる関係、なんてな。憧れないといえば嘘になる。

 チガ子はひとしきりミルキングを行うと、ひょいと膝から飛び降りた。そして相模灘沖に向かって座り直すと、大きな声で短く鳴いた。


「にゃ!」


 やがて海面に、白い航跡が現れた。大きく回ったり、8の字を描いたりしている。鮫か?いやそんなに大きくない。魚雷?巡行ミサイル?沖に船は停泊していないし、そもそも、そういうものは8の字など描かない。


「にゃあああ!」


 チガ子が再び鳴く。長く強く、叫ぶように。

 航跡は沖に戻っていった。やれやれ。と思ったら、反転して速度を上げ、一直線にこちらに向かってきた。そして、すぼっと何かが海中から飛び出して柵を越えた。小型ミサイル?何となく……いや明らかにチガ子を狙っている、何これ?おいちょっと待て洒落にならんぞ!


「チガ子逃げろ!」

「にゃあぅう〜」


 チガ子は後ろ足で左耳を掻いている。バカ!早く逃げろ!だがチガ子は動かない。とっさに僕は、チガ子に覆いかぶさった、


「ぐわっ!」


 背中に衝撃。閃光に包まれる。気が遠くなる……それからどのくらい時間が経過したのだろう。三分か、五分か、あるいはもっと長かったかもしれない。

 気がつくと僕はうつ伏せに倒れていた。さざ波の音が、何事もなかったように響いていた。何かが衝突した背中には痛みはない。僕はうつ伏せで、何かに乗っている。柔らかい、と同時に、ところどころ固い。かすかに動いている。呼吸?僕は髪の毛のようなものに顔を埋めている。髪の毛?そうだチガ子、チガ子はどうした?


「チガ子!」

「何?」

「いや何でも……は?」


 チガ子が返事をした?僕は今、どうなっているのだ?僕は起き上がろうとした。


「離れないで!」

「ぐえっ」


 首を絞められて起きられない。細くしなやかな腕。髪の甘い匂い。僕は、人間の上に乗っていると確信した。しかも女子。僕は動転して飛び起きようとしたが、女子はますます強く腕を絡め、僕が離れることを拒否した。


「離れちゃダメ!」

「なぜ?」

「猫が服着てるわけないじゃない!」

「猫?服?」

「裸なの!見ないで!」

「こんなに近くちゃ何も見えない」

「それでいいの!離れる時に目を閉じて。それから君の上着を貸しなさい!」

「う、上着?」


 言われるままに僕は目を閉じて女子から離れ、目を閉じたまま立ち上がると、上着のブレザーを脱いで差し出した。ブレザーはふわりと受け取られて行った。しばし、衣擦れが聞こえた。


「いいかな?」

「いいよ、でも、あんまり見ちゃ嫌だよ」

「はい?」


 僕はゆっくりと目を開いた。ついでながら開いた口も塞がらない。

 小柄な美少女が僕の制服を着て立っている。上着だけ。上着の前を両手で押さえ、肩から腰までを隠している。隠していることで事情をすぐに把握した。本当に裸なのだ。風が吹くと、腰まで届くライトブラウンの髪がそよぐ。目はくりっとした二重で小動物のようだ。小さな小鼻が形良く整っている。


「スケベ!じろじろ見ない!」

「いや、その、すみません」


 訳も分からず、僕は反射的に謝ってしまう。そして、とりあえず顔を相模灘沖に向ける。


「あ、あのー、どちらさまでしょうか?」

「あたしチガ子」

「チガ子?チガ子は猫ですが」

「何てことしてくれたの!豆ちゃんが変な願いを掛けたから、あたし同級生になっちゃったじゃない!どうしてくれるの!」

「は?」


 豆ちゃんというのは僕のこと。そんな両親でもないと知らないあだ名をなぜ君が?いやそんなことより「願い」って何だ?


「せっかく『願いのトビウオ』を呼んだのに!君が貧乏だって言ったから、『一〇〇万円飛んでこい』って願いをかけたのよ!なのに君は『あたしが同級生になったら』とか願って『願いのトビウオ』を自分に当ててしまった。何考えてんのよ!」

「訳が分からなくて混乱してるんだけど……」


 僕は視線を相模灘に投げ出したたまま話した。沖合の消波ブロックが、時折大きな波を砕いて飲み込んでいる。


「『願いのトビウオ』って何?」

「このあたりの猫ならみんな知ってるわ。湯河原で海辺育ちの猫は、一生に一度だけ『願いのトビウオ』を呼べる」

「そんな話、聞いたことがない。湯河原生まれだけど」

「猫だけの秘密。いつもお腹を空かせて苦しんでいる野良猫たちはね、死ぬ間際になって、大きなお魚をいっぱい食べたいとか、綺麗な水を思い切り飲みたいとか願って『願いのトビウオ』を呼ぶのよ」

「さっぱりわからん。てゆーか君、誰?どうして裸でこんなところに」

「だから私はチガ子なのよ!野良猫が服着てるわけないじゃない!」

「うーん」

「優しくしてくれた君に、あたしは感謝した。美味しい食事と甘いミルク、もう何も望むものはない。君は肉が食べられないほど貧乏だと言った。だから私は願った。『一〇〇万円飛んでこい』。なのに豆ちゃん、私の邪魔をして自分の背中に『願いのトビウオ』を当ててしまった。どうすんのよ!私のじゃなくて君の願いが叶っちゃったじゃない!」

「はぁ」

「真面目に聞いてる?」

「真面目には聞いてるけど……さっきのミサイルみたいのって『願いのトビウオ』?」

「そうよ!」

「で、君は、チガ子なの?」

「そうよ!嘘だと思うなら、あたしの瞳を見なさい!」

 僕は沖合から視線を戻し、女子の瞳を見た。左が栗色、右が青。オッドアイ。猫のチガ子と同じだ。肌は透き通るような白。白地にオッドアイ=チガ子?うーん。女子がはにかみながら訊ねる。

「どう?信じた?」


 俺は再び沖合に視線を戻して言った。


「……保留、でよいでしょうか?」

「何よそれ」

「猫が人間になるというのが信じられない。でも、言われてみれば確かに僕は、チガ子が猫じゃなくて同級生だったらなあ、ということは、考えなかった訳でもないかも」

「かもじゃないわよ!君はそう願ったのよ!」

「うーん。まあ、そうかなあ……それに、瞳とか色白とか、君はチガ子の特徴を引き継いでいるようにも見えるけれど」

「いい加減に信じなさい!あたしはチガ子なのよ!そんなことより、君の家に住ませて!」

「え?うち貧乏なんだけど」

「貧乏なんて問題じゃないわよ!あたしなんか家がないのよ!」

「今までどうしてたの?」

「野良猫だもん、公園の隅っこの茂みの中で寝てたわよ!でももう人間の女子!野宿って訳にいかない」


 そうだなあ、女子が公園で野宿って訳にはいかないよなあ、しかし……


「あのね、うち、本当に貧乏なんだよ、両親とも病気で、僕が仕事や家事を手伝ったりしているんだ」

「あたし贅沢は言わない。約束する。食事も服も質素でいい」

「衣食だけじゃなくて家も古い」

「家があるだけいいじゃない!それとも君、あたしを野宿させたいわけ?」

「いや、そんなことないけど」

「全ては君の変な願いが原因なのよ!責任取りなさい!」

「責任ねえ……でも、うち、本当に貧乏で」

「とにかく豆ちゃん、今、君の目の前に裸の女子がいるの、Are you READY ?困っていることくらい察しなさい!察してすぐに行動しなさい!」

「ええと、とりあえず……どうすればよいでしょうか?」


 僕は困ってしまい、本人に訊ねてみる。


「まずあたしを家に連れて行きなさい!そして服を揃えなさい!女子が裸でいい訳ないでしょう!」

「うち、女子の服なんてないよ、母ちゃんのならあるけど」

「とりあえずそれでいいわ!」

「わかった、家に帰ろう」

「ちょっと待って、このまま歩かせる気?」

「へ?」

「靴、貸しなさい!男子でしょ!裸足で帰る!」


 男子と裸足の関連性がよく分からない。ともあれ上着と靴を召し上げられて僕は、チガ子を名乗る女子と一緒に家に帰ることになった。

 午後の授業はどうしよう、サボるしかないなあ。

 僕は靴下を脱いだ。靴下のまま歩いたら、靴下に穴が空く。それは困る。うちは貧乏だから。

 そして僕は、中学校でも小学校でもやったことのない、ある意味禁断の世界「授業をサボる」に、裸足で踏み込む。


 ……


 家に帰るなり僕は母ちゃんに張り倒された。


「豆!あんたこのお嬢さんに何したの!」


 母ちゃん、もう完全に僕が「何かした」と思っている。


「母ちゃん違うんだ、この子チガ子なんだよ」

「チガ子?階段堤防の猫?」

「彼女の瞳を見てよ、チガ子と同じ……」


 母ちゃん、チガ子の瞳を覗き込む。


「そんなの偶然でしょ!この子はいったい、」

「だからチガ子なんだよ、何でも『願いのトビウオ』というのが当たっちゃって、チガ子は人間になった」


 母ちゃんは真顔になってチガ子に訊ねる。


「大丈夫?怪我はない?」

「お母さん初めまして、あたしチガ子です」

「え?」

「豆ちゃんの言っていることは全部本当です。あたし猫から人間になりました。それで早速ご相談したいことがあるんですけど」

「そ、相談?何かしら」

「あたしを下宿させてください」

「下宿?」

「皿洗いでもお掃除でも何でもします、あたし猫だったから家がないんです」

「猫だったって……」

「母ちゃん、信じてくれない気持ちは分かるけど、この子の言っている通りなんだ、でも、うち貧乏だし、どうしよう。とりあえず服を貸してほしいというので連れて来たんだけど」

「そうだわ、あなた上着一枚じゃないの!あたしの服貸す!豆は外で待ってなさい!」


 僕は家から押し出されて、外階段の下で待つことにした。なんだか僕が野良猫になった気分だ。十分くらい待っただろうか。


「入っていいわよ」


 チガ子は母ちゃんのTシャツとロングスカートを借りていた。エメラルドグリーンのTシャツにデニムのスカート。明るいトーンの長い髪は、黄色のゴムでまとめてポニーテール。


「人間って楽しいね!模様が変えられるんだもん」

「模様?」


 母ちゃんが口を挟む。


「チガ子は服のことを模様って言ってるのよ。人間はいろんな模様が出来ていいなって。自分はずっと白一色でつまんなかったって」

「それは良かった。で、母ちゃん、下宿の件はどうするの?」

「下宿?」


 おしゃれのことで頭が一杯で、下宿のことは忘れていたらしい。


「うーん、そうねえ、一人くらい何とかするよ、父ちゃんにも相談してみる」


 うちは貧乏暮らしながら、幸いにして、建物がもともと水道工事屋の宿舎を兼ねていたので部屋数は多い。チガ子の部屋も何とか確保できそうだ。しかし……


「子供が一人増えちゃうけど、いいの?服だって買いそろえなきゃいけないし」

「いいわよ!こんなかわいい子なら大歓迎よ。あとね、こういう緊急時に備えて……」


 母ちゃんはプラスティックの衣装ケースを二つ三つ開けてごそごそと探し物を始めた。母ちゃんは整理整頓が苦手。身の回りのあらゆるものを衣装ケースにつっこんでしまって、訳が分からなくなってしまう。まあそれも統合失調という病気の症状なので、仕方ないことなのだけれど……


「あった!五万円」


 母ちゃんは古びた封筒を取り出した。中から一万円札が五枚。


「母ちゃん、そのお金は?」

「非常用の隠し資金。これからチガ子とヤオハンに行って、服、買って来る」

「お母さん、制服ってどこで売ってるの?」

「制服?学校行きたいの?」

「行く行く!もともとあたしは湯河原南高出入り自由だったのよ」


 僕はちょっと考える。


「いやちょっと待てよ、チガ子が出入り自由だったのは猫だった時の話で、人間になったら……」

「君の願い通り、もう同級生なのよ。一緒のクラスになってるといいね」

「あ……」


 母ちゃんが言う。


「制服は、急いでも二〜三日かかるわね。その間はうちに居なさい」

「ありがとう!」


 母ちゃん、妙に機嫌が良い。チガ子が気に入ったらしい。


 ……


 翌日、僕は一人で登校した。チガ子にはまだ制服がない。

 放課後、いつものようにスーパーに立ち寄ろうと思って国道を歩いていたら、母ちゃんから携帯に着信。ちなみに僕の携帯はスマホどころかガラケーでさえない。小学生から愛用している、家族と緊急連絡しか通じない「こどもケータイ」。


「今日はお買い物、チガ子が行ってくれたからいいよ、あと晩ご飯の支度も」

「チガ子って料理出来るの?」

「上手よ!あたしよりうまいわね」

「へえ……じゃあ、すぐ帰るよ」


 帰宅するとチガ子が歌っていた。


「夕焼~け小焼けぇの、赤とんぼぉ~」

「チガ子、その歌、どこで覚えたんだ?」

「歌はね、時々カリカリを持ってきてくれる優しいおばあちゃんが教えてくれた」

「猫って人間の言葉とか、わかってるものなの?」

「少なくともあたしはそうね。あたしは猫ながら、階段堤防で人間から色々なことを教わっていたんだよ」

「あそこは釣り人くらいしか来ないだろう?」

「それがそうでもないのよ。あんなところに来るのはねえ、それなりに大変な人達な訳よ」

「大変な人達?」

「ボロボロになるまで扱き使われた末に、リストラされたオジサンとか。朝七時から夜十一時まで働き詰めでボーナスなしだって。もちろん退職金もなし。階段堤防に来て、あたしに打ち明けてくれた。ブラック企業って湯河原にもあるんだね」

「その人、階段堤防じゃなくて労働基準監督署に行くべきだな」

「そういう人に限って、いい人で、会社に歯向かうなんてことできないのよ」

「そんなもんかねえ」

「あとはねえ……知ってる?湯河原南高の修学旅行の業者が変わった理由」

「修学旅行の業者?旅行会社ってこと?それって変わるものなの?」

「普通は変えないんだって」

「なんでチガ子がそんなこと知ってるの?」

「二年前にねえ、出入りの旅行会社の営業マンが大失態をやらかしたのよ。熱海から京都までの新幹線、往復とも指定席とりそこね。それでその年の修学旅行は、先生も生徒も京都往復立ち詰め。生徒以上に、修学旅行担当の先生、鬼のように怒っちゃって」

「そりゃ怒るわな」

「で、その旅行会社の営業マン、『湯河原南高出入り禁止の刑』。営業マン、階段堤防に来て泣いたのよ」

「泣いた?」

「旅行会社の営業マンって、新しく修学旅行の契約を取ってきたらボーナスが出るんだって。でも逆に、修学旅行の契約を切られたら大変なんだって。普通なら次の年に挽回するチャンスもあるけど『出入り禁止』になっちゃった。始末書書かされて左遷だって」

「ふうん。修学旅行を旅行会社サイドから考えたことって、なかったな。しかしな、階段堤防で猫を相手にそんな愚痴こぼしているような営業マンだから、そんな情けないミスをするんだろうなという気もする」

「あたしはね、だからその人に言ったんだよ、仕事変えたほうがいいよ、って。旅館とか飲食店とか湯河原にも仕事はあるし」

「言った?お前、やっぱり喋れたのか?」

「念を送ったのよ。君はちゃんと理解したじゃない。『ミルク』」

「念?……誰でも理解できるものじゃないと思うけど」


 僕の脳に猫から「念」を受け取る能力があったなんて、初めて知った。両親の脳がちょっと変わっている影響だろうか?


「それよりねえ聞いて!明日制服が来るの!」

「制服?お前本当に同級生になるつもりか?」

「いけない?あたし学校には出入りしてたけど、教室には入ったことなかったし。何やってるのか知りたい」

「何って、普通に授業やってるけど……しかし明日制服が来るって本当か?」

「ホントだよ、二年生に転校した子がいて、制服が余ってるんだって。身長もあたしと同じくらい」

「ふーむ、いよいよ本当に学校に来るんだなあ」

「それとね、今夜の晩ご飯はあたしが作ったんだよ!」

「母ちゃんもそんなこと言ってたな、お前、料理出来るの?」

「お母さんのレシピ本借りた」

「何作ったの?」

「カレーよ!」


 そういえばカレーの匂いがする。猫の作ったカレー?どういう味なのか僕は知りたい。


「味見していい?」

「あー、信用してないでしょ、どうせ猫の作ったカレーとか思ってるでしょ」

「いやそうは言わないけど……ちょっとお腹空いた」

「鍋に出来てるよ。まだご飯は炊けてない」


 僕は台所に立って鍋をあけ、チガ子の作ったカレーをスプーンですくってみる。見たところ普通のカレー。いや猫が「普通のカレー」を作ったというだけで、十分に驚きに値するのだけれど……


「旨い!チガ子こんなのどこで覚えたんだ?」

「レシピ本見た。人間の頭って、簡単に情報が追加できるんだね。便利だねえ」


 チガ子の作ったカレーには鶏肉が入っていた。


「この鶏肉の具とか、下味付けた?」

「わかるぅ?そこはお母さんから教わった。あと、今日はスーパーで鶏ムネが特売だったから、鶏カレー」

「お前、やりくり上手だな」

「まあね〜」


 普段は僕が夕食を作ることが多いので、たまに誰かに料理を作ってもらえると凄く嬉しい。

 母ちゃんも感心する。


「あんた本当に猫だったの?実はちょくちょく人間になって、料理とかしてたんじゃない?」

「違う違う、猫、猫。人間は情報がたくさんあって楽しいね。脳みそが一回り大きくなったような気がする」


 ……


 翌日、僕はいつもの通り学校に向かった。チガ子はまだ制服がないので一日家にいることにした。夕食は今日もチガ子が作ってくれるという。ありがたや。

 午後、今日もスーパーに寄らずに帰宅すると、チガ子は一階の仕事場に居た。父ちゃんは黙々とメールマガジンの原稿書きに勤しんでいた、ように見えたが、よく見ると居眠りをしていた。

 父ちゃんを起こすと、チガ子は今日は、僕のノートパソコンでネットサーフィンしていたという。


「これ面白い」

「ネット見てたのか」


 チガ子はネットに興味を持ったようだ。


「うん、お父さんの仕事も少しだけ教わった。あたしにも出来そう。町役場にも挨拶に行ったんだよ」


 父ちゃんはチガ子にも仕事を手伝わせるつもりらしい。

 優秀そうな子だし、僕一人じゃ辛いときもあるし、そうしてもらえると助かるけれど。


「一応、町役場の観光課はうちのクライアントだからな。観光情報のホームページをうちで管理している。仕事は、凝ったことしなければ、割とすぐ出来るようになると思うよ。チガ子、頭良さそうだから」

「でもあたしキーボード苦手。人間ってどうしてこんなに指が長いの?指なんか短くても爪伸ばせばいいじゃん」

「どうしてって僕に聞かれてもなあ」


 僕は、爪を出してキーボードを引っ掻く猫を想像してみる。

 チガ子が話題を変える。


「今日も夕食の支度するよ、カツオだよ」

「もしかして今日、カツオ特売?」

「そ!安くて四人が満腹出来るって言ったら冷凍のカツオでしょう。あたしお魚好きだし」

「お前、いい奥さんになるよ」

「誰の?」

「……」


 誰の?

 僕は答えに詰まった。


「いや冗談冗談、今、上に行ってカツオ切ってくる」

「あ、まだ少し早いんじゃないかな?」

「じゃあもう少しネット見てる」

「それがいいな」


 チガ子は人間の暮らしが気に入ったようだ。

 僕はチガ子に質問してみた。


「ところでチガ子、ネットを見て、何か収穫はあったか?」

「うん。あたし猫のこと調べてた」

「色々な種類の猫がいるからな」

「いやそうじゃなくて。あたしにカリカリをくれてた人とか、どういう人だったのかな、とか」

「そんなことネットで分かるのか?」

「少し分かったわ。TNR運動とか」

「てぃーえぬあーる?」

「野良猫を保護して、避妊去勢して、また野良に返す」

「それじゃ野良猫は減らないじゃないか」

「ところが減るのよ。野良猫はせいぜい四年くらいしか生きられない。新しく猫を捨てる人がいなければ、TNRで次第に野良猫の数は減っていくものなのよ」


 チガ子はネットの海で、僕の知らない世界を切り開いている。


「そろそろカツオ切って来る」

「ああ、悪いな」


 チガ子はノートパソコンを閉じると二階へ上がって行った。

 僕はちょっと気になって、再びパソコンを開いてTNRについて検索してみた。


 T、トラップ。捕まえる。

 N、ニューター。雄は去勢、雌は避妊。要するに子孫繁栄を止める手術を施す。

 R、リターン。元の場所に戻す。餌を与える時には、猫が食べ終えたら餌を片付ける。


 湯河原でも、野良猫に餌を与えている人は居る。公園の片隅を汚したりして、かなり迷惑な存在として嫌われているが、それでもその人は餌やりをやめない。正直、うちには野良猫に餌を与える経済的余裕などない。僕にとっては、どうでもいい話の一つではあった。しかしまあ、考えてみると、生ある者に食餌を出す。それが悪いことのはずがない。でも、野良猫の糞尿や爪とぎで、家や家の周りの環境が悪化することがある。病気の猫もいる。猫を飼っている人なら、病気を移されないかと心配するだろう。猫は、餌やりを始めると、次から次へと仲間がやってきて、加速度的に猫が増えるという問題もある。

 問題を断ち切るには、野良猫には餌を与えず、静かに死を迎えさせてやるしかないのではないか……って、じゃあ最初の「生ある者に食餌を出すのが悪いはずがない」って話は、どこへ行ってしまうのかと。堂々巡り。

 だがその堂々巡りに楔を打ち込むのがTNR。

 野良猫に「餌やり」ではなく「避妊去勢」を行うというのは、ちょっと意表を突かれた。飼い猫の避妊去勢はよく聞くが、野良猫にそれを行うというのだ。それと同時に、餌やりにルールを作る。餌は与える時にだけ出して食べ残しは処分する、餌場を汚したら清掃する、など。糞尿の問題は未解決となりそうで、そのあたりはどうしたらいいものかなあとは思うが、ただ餓死に向かわせるよりは建設的だろう。世の中を良い方向に持っていくような雰囲気もある。


 夕食は、チガ子が綺麗に切りそろえたカツオの叩き。カツオの叩きって切るの難しいんだけど、身を崩さずに、僕より上手に切ってある。やっぱり女子の方が丁寧だな。切り方が上手だと味も良くなる。

 父ちゃんも母ちゃんも、カツオは僕よりチガ子の方が上手に切ると褒めた。チガ子は得意げな顔で、ご飯にカツオをのせて口に運んだ。

 食後にコーヒー。うちで唯一許される贅沢。


「コーヒーって初めて。どうやって作るの?」

「本当はハンドドリップの方が旨いんだろうけど、うちはコーヒーメーカーがあるから。こうやってペーパーをセットして豆を入れて、こっちに水を入れて」


 チガ子は興味深そうにコーヒーメーカーを眺める。

 スイッチを入れてしばらく待つ。コーヒーの香りが部屋に満ちはじめる。数分後、ピー、ピー、と鳴ってコーヒーが出来上がる。

 コーヒーは普段より多めに作り、湯のみを使ってチガ子にも分ける。近いうちにチガ子用のマグカップを買わなきゃな。

 コーヒーを初めて飲んだチガ子は、少し驚いたような顔をした。


「ねえ、この飲み物、何か凄くない?香りとか、味とか。甘いような、甘くないような」

「そう、凄いんだ。ただのコーヒーじゃない。グレードの高い豆しか使っていない上に、職人さんが直火式焙煎器で微調整しながら焼いている。国会議員の秘書も買ってる上等のコーヒーだ」

「うちって貧乏なんだよね、どうして?」

「父ちゃんがギャラの一部を現物支給で貰ってるんだ。クライアントに東京で自家焙煎やってる喫茶店が一件ある。そこのネット通販を父ちゃんが管理してるんだ。それで、その管理費の一部がこのコーヒーなんだ。税務署には内緒だけれど、銀行の通帳に金額が出ないしマイナンバーとも関連しないから、税務署にはバレない」

「ふーん。このコーヒーって高いの?」

「高いよ。スーパーで売ってる豆の二倍くらいする」


 父ちゃんは僕らの会話を聞き流しながら、目を閉じてコーヒーを味わっている。いや、居眠りか。今日も結構疲れたんだろうな。


 ……


(続く、2018年5月7日6:55公開)

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