18:魔女の城へ

     ◆     ◆


 行く手を阻む白い霧が旅人を惑わすかのようだ。

 濡れそぼった髪から、新たな水滴が落ちた。


「大丈夫かシアラ」

 足元にいるクルーガが尋ねてきた。

 ただでさえ見通しのきかない濃霧の中。

 加えて足場には大小無数の石が転がり、気を抜くと転びかねないという状況が神経を削る。シアラは息が上がっていた。


「ええ。殿下は大丈夫ですか?」

 霧のせいで頬に張りついた髪を払う。

 腰より長く伸ばしていたシアラの緋色の髪はいま、肩口で切り揃えられていた。


「大丈夫だ。しかしこの霧には参るな。道案内がいなければとっくに遭難しているぞ」

 リドを挟んで向こう側にいるルシウスがぼやいた。


「この霧も魔女――アネモネのせいなのか?」

「正確には二番目の仕業ね。迷い込んだ旅人が谷から出られなくなって、衰弱死する過程を見て楽しんでいたの。悪趣味でしょう」

 少し前を行く道案内人――ディーが自嘲するように言った。


 魔女が『霧の谷』と呼んだここは、ダムカ渓谷という。

 エクトラン王国の北東、クレイド山脈を流れるダムカ川の浸食により作り上げられた渓谷だ。 


 山に入ったときは霧が出ている程度だったのだが、谷底を進むにつれて冷たい霧が濃くなっていき、いまでは思い切り手を伸ばしたら指先を見失いそうな程の濃霧に覆われている。


「え。私たちも出られないんですか」

 思わず口を挟むと、ディーはかぶりを振った。


「私が魔法を書き換えたから大丈夫。きちんと来た道を引き返すことができれば出られるわ」

「といっても、この濃霧だ。人間は方向感覚を失うんじゃないか?」

 クルーガが言う。


「たまにいるわね、迷い込んで道を失う人。そういうときは私が導いてる。――そろそろ着くわ。覚悟はいい?」

 ディーが身体ごと振り返る。


「はい」「ああ」「もちろん」

 三者三様の返事をする。足元でクルーガも頷いていた。

 王が手配してくれた馬車に乗り、途中何度も休憩を挟みながら、ここに着くまでの一カ月間、シアラたちはクルーガを交えて何度も話し合って来た。

 とうに皆、覚悟は決まっていた。


「じゃあ行くわよ――いえ。向こうから来たわね」

 前方の空間が歪んだ。

 凪いだ水面に一滴を落としたかのように、空間が波打ち、粉々に砕かれ、変容し――やがて、唐突に城が現れた。


 シアラの目の前に聳え立つのは古めかしい城門だ。

 門の向こうに白亜の城が見える。


「…………え」

 シアラは驚いて頭を巡らせた。

 見回せば相変わらず霧が広がっている。


 どうやらこの城壁で囲われた門が『こちら側』と『向こう』を隔てる境界らしい。


 唖然と見ていると、重厚な門はひとりでに開いていった。

 その門の中央で手を重ね合わせ、待ち構えていた人物を見て、シアラは目を剥いた。


 金色がかった緋色の長い髪、金色の瞳、ふっくらとした薄紅の唇、真珠を散りばめた水色のドレス――そう、カインとデートしたときのシアラの姿だったのだ。

 ディーには聞いていたが、本当に鏡写しだった。


 彼女もまた驚いたらしく、目をぱちくりさせた。


「あらまあ。あなたも来たのね、シアラ。いつのまに髪を切ったのかしら」

「ええと……」

 自分と全く同じ声で気安く言われて、シアラは大いに戸惑った。


「ああ、私はあなたを知っているけれど、あなたは知らないわよね。初めまして」

 アネモネはシアラそのものの声で、顔で笑った。


「王子さまも魔法使いさまも初めまして。私はアネモネ。千年の時を生きる魔女よ」

 アネモネはドレスをつまんで一礼した。

 主人シアラの物まねをされて大層不愉快らしく、クルーガが鼻を鳴らす。


「……初めまして。私はリド=ペーネ=ラシェル」

 貴族らしく、リドは優雅に一礼した。

 動揺を微塵も面に出さなかったのはさすがである。


「シアラ=ローズフィールです」

「私の挨拶は……要らないだろう」

 頭を下げたシアラに続くルシウスの声は硬かった。


「ふふふふ。王子さまが来てくれるなんて思わなかったわ。魔物まで連れて、一体何をしに来られたのかしら? みんな私のお友達になってくれるのかしら? だったらとっても嬉しいわ。大歓迎よ」

 アネモネは手を合わせてにこにこ笑った。


「……カイン様を」

「駄目」

 言うより早く、笑顔でアネモネが遮った。


 その笑顔は鬼気迫っていた。

 肌が粟立ち、身が竦み、怖気が全身を駆け抜ける。

 やはりアネモネは恐ろしい魔女だった。


「カインは私の。私のだからあげない」

 一同は気迫に押されて黙り込み、ディーだけがアネモネを睨みつけた。


「ねえディー、私に『同意に基づく約束がなければ魔法は使えない』という制約をかけたのはあなたでしょう?」

 アネモネが苦笑交じりに言う。


 ディーは千年も前、強すぎる力を持つアネモネが好き勝手に振る舞えないよう制約をかけたそうだ。

 だからアネモネはルシウスを直接誘拐することなく、王を助ける代わりに要求するという遠回しな手段で手に入れようとした。


「私が自由に魔法を使えるのは城の中だけ。私はいまもあなたの制約に縛られている。九年前は王さまを助ける代わりに王子さまをちょうだいとお願いしたわ。その約束を反故にされたからあなたをネズミにしたのよ。ちゃんと約束を果たしてくれたら戻してあげるつもりだったのよ? 寛大だと思わない?」

 ねえ? とアネモネが顔を向けたが、ルシウスは無言。

 気を悪くした風もなく、アネモネはどこかのんびりとした口調で続けた。


「カインはレニスの提案に、つまり私の提案に同意したわ。王子さまから手を引く代わりにあなたをちょうだいと言ったらいいと言ったのよ。これは約束よ。私とカインとの間で交わした大事な約束。破るなんてとんでもないわ。それでも、どうしてもその約束を破ると言うなら、私も容赦はしないわよ? 約束を破られたら、報復のための魔法が使えるの。今度はネズミに変えるだけで済むとは思わないでね?」

 アネモネが笑う。

 とても説得ができそうな雰囲気ではなかった。


「……私よりもカインのほうに興味が沸いたのか?」

 ルシウスが眉をひそめた。

「ええ。だって、あなたよりカインのほうがずっと面白いんだもの。凄いのよカインは、異世界の魔法を教えた傍からどんどん吸収していくの! まさかたった二週間で存在座標を操れるようになるなんて思わなかったわ! 多重結界から連鎖崩壊魔法、果てには大規模空間転移まで! 私は師匠として誇らしい気持ちでいっぱいなの。あれほどの優秀な魔法使い、どんな世界にもいなかった。カインは本当に天才よ」

 夢見るような眼差しでアネモネが手を組んだが、シアラは不安だった。


(難しそうな……しかも、異世界の魔法を学んで、カイン様は大丈夫なのかしら)

 この世界という枠組みから外れた魔法を行使することは、身体に負担をかけるものではないのだろうか。


 顔色の悪かったカインを思い出し、シアラは自分の腕を抱くように手をかけた。


(そこにいるんですね、カイン様。私はここにいます――ここにいるんですよ)

 アネモネの背後にある城を、恋い焦がれるような眼差しで見つめる。

 ぽたり、と霧で濡れた服の袖から水が落ちた。これまでシアラが流してきた涙のように。


「いまでは日々成長していくカインを見守るのが私の生き甲斐と言っても過言じゃないのよ。手放すなんて考えられない。何を代償にしたって返してあげない。カインは死ぬまでずうっと私のものよ。ううん、死んでも私のもの」

 もはや何を言ってもアネモネはカインを解放しないだろう。

 言い争うのは得策ではない。アネモネの機嫌を損ねればそこで終わりだ。

 どうにか取り入って、懐柔するしかない。


「……では、アネモネ様。私もこの城に置いてくださいませんか」

 シアラは腹を括って笑顔を作り、胸に手を当てた。


(諦めない。私は絶対にカイン様と再び会ってみせる)


「あら。お友達として?」

「はい。私も是非、異世界の魔法を学びたいのです」

「ふふふ。それは無理ね」

「どうしてですか?」


「あなたに見えるのは白い魔法元素だけでしょう? 金、ピンク、黄色、赤、黒、緑、青――そういう、異界から紛れ込んだ色つきの魔法元素は見えないでしょう?」

「……カイン様は、金色の魔法元素が見えると言っていましたが……」

 シアラは困惑した。金色の他にも様々な色の魔法元素があったらしい。


「ええ。カインには見えている。見えるのは特異点、この世界の魔法の法則を超えた人だけよ」

 アネモネは空を見上げ、目を細めた。


「では、カイン様は魔法の法則を超えた方だと?」

「ええ。カインの場合は死の淵を覗いたことがきっかけになったみたいね。生まれつき見える人もいるし、ある日突然、見えるようになる人もいるわ。でもあなたはどれにも該当しない。だから不可能、異世界の魔法を扱うことは絶対に無理なのよ。カインと同じように死の淵を覗けば見えるようになるかもしれないけれど、お勧めはしないわね。そのまま死んでしまう危険性のほうが遥かに高いもの」

 アネモネはふふっと笑った。死を語りながら無邪気に笑っている。


「……わかりました。それでは、ただの友人としてお傍に置いてください。どうかお願いします」

「ええ、いいわ。歓迎しましょう。あなたたちはどうするの?」

 アネモネの問いに、二人はシアラと同じ答えを返した。

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