17:殴りに行こう

「陰口を叩くなら、もう協力してあげないわよ」


 皆が辺りを見回したが、誰もいない――いや、テーブルの上に、腕があった。


 半透明の、細い少女の右腕だけが、虚空に浮いている。


 腕越しにエリーゼの身体が見える様は、たちの悪い冗談のようだった。


「な……なんですこれは!?」

 怪奇現象にエリーゼが後ずさり、

「ああああ」

 ルシウスが顔面蒼白でエリーゼの腰に抱きついた。幽霊の類は苦手のようだ。


「な……」

 リドも唖然としている。


「ディーさん! 来てくださったんですね!」

 シアラだけが歓喜した。たとえ現れたのが右腕だけだろうと。


「話し合いが決裂に終わったみたいだから、仕方なく部分干渉することにしたのよ。これ、物凄く疲れるんだからね。感謝しなさい」

「はい、ありがとうございます!!」


 半透明な右手の指先がくるりと輪を描き、そして消えた。


 現象としてはそれだけだったが、十分な効果があったらしい。


 リドもルシウスもたったいま夢から覚めたような顔をしていた。


 目をぱちくりさせて――ルシウスは俯いて口を覆い、そしてリドは叫んだ。


「あの馬鹿っ、ふざけた真似しやがって!!」


 毒づきたい気持ちはよくわかった。

 というより、シアラも馬鹿と叫んでいる。


「記憶が戻ったんですね!?」

「うん。疑ってすまなかった、シアラ」

「いえ、そんな」

 シアラがリドに手を振る一方で、エリーゼは「ああ」と呻いて顔を覆った。


「……クルーガ」

 ルシウスはしばらく東屋の床の一点を見つめた後、クルーガに歩み寄り、屈んで尋ねた。


「カインが私のことを弟のようだと言っていたのは本当か?」

「ああ。私はこの耳でしかと聞いた。エリーゼが犠牲になることを良いのかと尋ねたときに、自分はルシウスを弟のように思っていた、と」

「……そうか」

 ルシウスは目を閉じて頷き、エリーゼに向き直った。


「……母上」

「聞きたくありません」

 エリーゼは顔を背けた。


「いいえ、聞いてくださらねば困ります。母上は覚えていたのですね。全て」

 逃げようとしたエリーゼに、ルシウスが詰め寄る。


「ええそうです、カインはあなたのために犠牲になりました、けれど本人がそれで良いと言ったのです! 何があっても自分に続く犠牲を作るな、後のことは頼むと! だから私は約束を果たす義務があるのです!」


 エリーゼは癇癪を起こしたように喚き、ルシウスの肩を掴んだ。


「あなたを魔女の元へ行かせるなど許すわけがないでしょう! 相手はあなたを、何の罪もない赤子を九年もネズミにした悪魔ですよ!? 城へ赴けば生きて戻れる保証はないのです! 事実カインは戻ってこないではありませんか!」

 目に涙を貯めて言うエリーゼに、ルシウスは笑った。


「だからですよ母上。どうかわかってください。いまの平穏がカインの犠牲の上に成り立つというのなら、私はそんな平穏など要りません」


「何故!?」

「では逆に聞きますが、母上は何故、時々酷く悲しそうな顔をされていたのですか。母上だって、これが大団円とは程遠いと理解していたからではないのですか。この結末に納得できなかったからではないですか」


「そのようなことは――」

「いいえ。私が王宮に戻り、盛大に祝われた夜も、民に祝福されて手を振ったその昼も、一人だけ悲しそうな顔をされていたではありませんか。私はその理由が知りたかった。全てを思い出したいまはすっきりしています。そしてカインを一発ぶん殴りたい気持ちでいっぱいです」


 ルシウスはエリーゼの手を握り、天使のような笑顔を浮かべて物騒なことを言った。


「私は必ず戻ります。ですから母上。どうかシアラと共に行くことを許してください」


「妃殿下、私にもお暇を頂きたい」

 リドがローブの胸元につけていた金の徽章を外しながら言った。


「ルシウス様の呪いを解除した栄誉として賜った筆頭位の座も謹んで陛下にお返しさせていただきます。いまの地位と栄光があいつに与えられたものだと思うとすこぶる気分が悪い。ええ、殿下とともにあいつを殴らないと気持ちが収まりません」

 爽やかに言い放ってから、リドは頭を下げた。


「ルシウス様の御身は私が命に代えてもお守りします。ですからどうか、殿下とともに魔女の元へ行くことをお許しください」

 エリーゼは何も言わない。

 その顔は、拗ねた子どものようだった。


「妃殿下。恐れながら申し上げます。そもそも全ての元凶は魔女なのです。カイン様に言いたいことは山ほどありますが、私は誰よりも魔女にこそ強く抗議したいのです。どうかその機会をお与えください」


 続く三人(+魔物)による包囲と懇願に、とうとうエリーゼは折れた。


「……陛下に伺いをたてましょう」


     ◆     ◆


 本で埋め尽くされた書庫の床に、一人の青年がうずくまっていた。

 彼の周囲には分厚い本が散らばっている。

 それは全て魔法書だった。


 ある一人の魔女が千年の間、あらゆる世界を渡って蒐集し、あるいは自らの知識を綴った手書きの本だった。


 右手を本をかけたまま眠る青年の顔色は死人のように青ざめ、首から左の頬にかけて赤黒い痣が這っていた。


 見下ろせば、床に力なく投げ出された左手にも同じ痣が浮き出ている。


(……ここまで広がったのね)


 気配もなく、ひっそりと青年の傍に佇むディーは、痛ましさに唇を噛んだ。

 青年の身体を蝕む赤黒い痣は異界の魔法を学び、検証し、ときには己の身で実験してきた代償だ。


 魔女に対抗するために、彼は左目の視力も失った。


 穏やかだった寝息が突然乱れた。

 彼は口に手を当てて咳き込んだ後、手の甲で口元を拭った。

 その際、赤いものが付着したのを、ディーは見逃さなかった。


「……そこで何をしてる」

 彼は傍らのディーを見上げ、掠れた声で言った。

 相当に辛いのだろう。息を深く吐いている。


「あなたの観察よ。大丈夫?」

 馬鹿げた問いだ。大丈夫でないのは一目瞭然だというのに。


 けれど、この終わりのない地獄に引きずり込んでしまった相手に、他になんと言えばいいのだろう?


 彼もこのやり取りは全く無意味だと思ったらしく、返事はなかった。


「……あなた、もう長くはもたないわ」

「知ってる」

 返答は短く、何の怯えも恐れも見えなかった。


「だが、ただでは死なない。俺の命が尽きる前に、あいつは消す。過去に何があったにせよ、いま生きている人間には何の関係もない。『運がなかった』の一言で人の生死を弄ぶような狂人を生かしておけるか。あいつらの未来のためにも――」


「カイン? どこ?」

 廊下から女性の声が聞こえた。この城の主である魔女の声だ。

 千年前という、遠い遠い昔に死んだ魔女の声だ。


 魔女は自分が死んでいることにも気づかず、狂っていることにも気づかず、時間の止まった城で踊る相手を探している。


 彼女が心底共に在りたいと願った人は、既にこの世にいないのに。


 青年は――カインはふっと息を吐き、驚嘆すべき気力と精神力で以て笑顔を作り、演技を始めた。


「ここにいます。アネモネ様」

 カインは本を置いて立ち上がった。

 ふらついた姿勢を一歩引いて矯正し、書庫を出て行く。


 ディーは無言でその背中を見送った。

 彼が自分自身の記憶を消して、命をかけてでも守りたいと思った『あいつら』がここへ向かっていると言ったら、彼はどんな顔をするのだろう?……


「また書庫にいたのね。ふふ。そんなに魔法を学ぶのが好きなの?」

「はい。スムーキー博士が提唱したリロム式多重結界による空間封鎖の魔法はなんとか習得できたので、次は存在軸を操る魔法を教えていただけますか」

「まあ。存在座標に干渉するのは難しいわよ? そんな身体で無理をしたら死んでしまうかもしれないわ」

「大丈夫ですよ。死んだらアネモネ様が蘇生してくださるのでしょう」

「そうね。死んだら生き返らせれば良いわね。じゃあ早速教えてあげましょう――」


 廊下から、朗らかで頭のおかしな会話が聞こえてくる。


(……何を馬鹿なことを。死んだあの人を蘇生しようとした結果、どうなったか。どんな大惨事を引き起こしたか。あなたはそれも覚えていないのね)


 ディーは強く手を握り込んだ。


(でも私は覚えているの。知性を司る者として、忘れられないのよ。千年前からいままでのことを、何一つ)


 ディーはふっと姿を消し、一瞬で城の一室に転移した。

 部屋の隅には立方体のガラスケースが飾られていた。

 ガラスケースの中にはディーの小指の先ほどの大きさの、紫色の塊がある。


 汚らしい紫の液体を無理やり固めて作ったような、なんとも奇妙な塊を見つめて、ディーは顔を歪めた。

 それはまるで泣き出しそうな顔だったのだが、本人は知る由もない。

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