15:シアラ、激怒する。

 朝の光に照らされ、鳥たちが賑やかに歌う森の中。

 エリーゼが改修工事を行ってくれたため、小屋から立派な一軒家へと変わった、その家の前の畑にて。


「呼ぶ・満ちる・水」

 シアラが人差し指を回しながら言うと、目の前の空間が光り輝いて大きな水の塊が現れた。


 人差し指を畑に向ける。


「飽和・分裂・弾けよ!」

 空中に浮いていた水の塊が弾け、細い雨となって畑に降り注いだ。


「ふふふ。なんて便利なんでしょう。魔法って素晴らしいわ。重労働だった水汲みからも解放されたし、いつでも望むときに火を起こせるし、リドさんには本当に感謝しなくてはいけないわね。今頃王宮で働かれているのかしら。ルシウス様も健やかに過ごされているかしら……」

 シアラはかつて大きなクレマキャベツがあった畑の一点を眺め、その金色の瞳を細めた。


「ルシウス様をここで見つけた日から、もう三カ月も経つのね。離宮で暮らした日々が夢のようだわ。ね、クルーガ」

 足元にいる魔物に同意を求めるが、クルーガは喋らない。

 その首にもう首輪はなかった。


 ルシウスが人に戻ったその日、エリーゼは即刻ルシウスを伴って王宮に戻ることを決め、シアラも家に帰ることになった。


 その際、これは王家の貴重な財産になりえるからと、エリーゼはクルーガの首輪を取り上げた。


 代わりに、離宮で過ごした一カ月間、ルシウスが与え続けてくれたドレスや靴は全て責任を持って家まで送り届けると言われた。


 全部を貰うなど恐れ多かったので、シアラはそれぞれ一つずつ貰うことにした。

 真珠を散りばめた水色のドレスと、蝶のペンダントと、水色の靴。


 それと、海辺で拾った・・・・・・貝殻を入れた小瓶。


 小瓶は棚に飾り、ドレスと靴は大事にクロゼットにしまってある。

 もうドレスを着ることはないが、シアラは時々、クロゼットを開けて懐かしい離宮の日々を思い返すのだった。

 ルシウスやリド、エリーゼ、レナ、そして、親切にしてくれた魔法使いや使用人たちの顔を。


(……本当に、色んなことがあったわね……)


 回想に浸っていると、ふと、足に柔らかな毛が触れた。

 見下ろせば、クルーガがすり寄っている。シアラは微笑んだ。


「ええ、ごめんなさい。急いで朝食を作るわね。離宮のような豪華な料理はとても作れないけれど、腕によりをかけて作るから、許してちょうだい」





 調合した薬を村で売り、食材を手に入れて家に帰り、遅めの昼食を作る。


 それから家の掃除をして、取り込んだ洗濯物を畳んで、夕食を作って、編み物をして、入浴を済ませればもう眠る時間だ。


 そうしてシアラの平凡な一日は今日も終わりを告げる。


 ベッドに横たわれば、いつしか夢が始まる。


 白い霧の中にシアラはいた。

 少し離れた場所に誰かがいる。向かい合って立っている。


 その顔は霧に阻まれてよく見えない。

 見えるのはかろうじて口元の部分だけだ。


 それすらも注視しようとすると、途端に水に溶かしたように輪郭が曖昧になってしまう。


 背の高い、青年らしき人物は、こちらに向かって何か言っている……ような気がする。 


 シアラは彼の正体を知りたい。

 けれど、縫い留められたかのように、シアラはそこから動けない。


 彼の元に駆け出したいのに、近づいてその顔を見たいのに、身体は指一本動かせない……





「――――!!」

 真っ暗な部屋の中、シアラは跳ね起きた。


 全身から汗が噴き出し、寝間着を濡らしていた。

 身体がガクガク震えている。

 目からはとめどなく涙が溢れ、頬を濡らしている。


(――ああ。まただわ)


 シアラは激しく収縮を繰り返す胸を押さえ、荒れた呼吸を抑え込みながら身体を丸めた。

 離宮を去って二ヵ月、シアラは度々こうして夜中に跳ね起きることがある。


 原因は不明。

 よほどの悪夢を見たのだろうと思うが、肝心の夢の内容が思い出せないのだ。


 だからこそ苦しい。

 一体何が自分をこれほどまでに追い込み、苛んでいるのか――


 部屋の隅で丸まっていたクルーガが寄って来た。

 シアラが飛び起きると、彼はいつもこうして傍に来て、心配そうにこちらを見つめる。


「……大丈夫よクルーガ。いつものことよ。悪い夢でも見たんだと思うわ。でも、どんな夢だったのか覚えてないの。だから大丈夫……」


 シアラは手の甲で涙を拭い、笑おうとしたが、頬が引き攣ってうまく笑えなかった。


 拭ったばかりだというのに、新たな涙が頬を伝う。

 クルーガが小さく鳴いた。無理をするな、とでもいうように。

 途端に、かろうじて保っていた笑顔がぐしゃぐしゃに崩れ、シアラは顔を覆った。


「……どうしてかしら。私は何か……大切な何かを忘れているような気がするの。でも、それが何なのか、思い出せない……どうしても、思い出せないの……」


 それが苦しくて、もどかしくて、悲しくて堪らない。


 心の中にぽっかりと穴が空いている。

 とても大きな、途方もなく大きな穴が。


「私は何を忘れたのかしら……決して忘れてはいけないことだったのに……」 

 長くルシウスを蝕んでいた呪いは解けた。


 リドは筆頭魔法使いの地位と栄誉を与えられ、ルシウスの命を救ったシアラは新しい家と素敵なドレスやアクセサリーを与えられた。


 大団円だ。皆が幸せな、文句なんてつけようのない大団円で物語は締めくくられた――そのはずなのに。


 ちっとも大団円ではない、大団円なんてとんでもないと、心が悲鳴を上げている。


 誰もが笑っているのに、シアラの心だけが、半身をもぎ取られたような喪失の苦しみにのたうち回っている。


(私は何を忘れているの。奪われたものは何)


 胸が痛い。潰れるほどに痛くて苦しい。

 嗚咽していると、クルーガが再び鳴いた。

 長いこと鳴いているが、励ましてくれているのだろうか。

 何を言いたいのだろう。首輪がないためわからない。


「……ごめんなさい。少しの間、放っておいて……すぐ泣き止むから……」


 暗い部屋の中、声を殺して泣いていると、唐突にクルーガが唸った。

 敵を警戒するような唸り方。


「……?」

 シアラは手を下ろし、泣き濡れた目を丸くした。


 クルーガの傍に、半透明の美少女がいた。


 年齢は七歳くらいだろうか。

 腰まで届く長い髪。大きな瞳。


 彼女は幽霊とは思えないほど理知的な眼差しでこちらを見ていた。


「……誰……?」

 恐怖よりも驚愕が先に立った。

 呆然と彼女の目を見返し、慌てて魔法で燭台に火を灯す。


 光の下で改めて見ると、彼女は自分と同じ特殊な緋色の髪の持ち主だった。


 瞳は青い。エスタで見た海のような青。

 その華奢な身体を包むのはシンプルな白のドレスだ。


「……関わらずにいようと思ったけれど……」

 夜風のような声で、少女は言った。


「あなたが毎晩のように泣くのを見ていると、関係者として心苦しくて、姿を現さずにはいられなかった。それは彼の望みではないんでしょうけれど……いえ、これははっきりと裏切り行為だわ。彼は私を許さないでしょう」

 半透明の少女は憂うように目を伏せ、独りごちた。


「……あなたは誰ですか」

 シアラはベッドから下り、素足で床に降り立った。

 室内履きに足を入れる暇も惜しみ、屈んで少女と目線を合わせる。


「あなたは何を知っているんですか。『彼』って……?」


 心臓が早鐘を打っていた。

 彼女は確実に、シアラが失くした何かを知っている。


「私は一番目ディー。魔女の知性と善意から生まれたもの。そしてあなたの失くした記憶を知り、彼との接触を持つもの」


「教えてください! 彼って誰なんですか!? お願いします、私は苦しい。苦しくて堪らないんです」

 シアラはディーの肩を掴もうとし、その手は虚空を撫でるだけに終わった。

 やはりディーに実体はなかった。


「教えればあなたも魔女の因果に巻き込まれる。死ぬより辛い目に遭うかもしれない。それでも?」

 ディーの青い目がシアラを射抜いたが、シアラは怯まなかった。


「構いません。あなたは私を見ていたんでしょう。だったら、これまでの、いまの私の状態を見て、あなたは私が本当に生きていると思うんですか。幸せだったとでも?」

 泣きそうになりながら、左胸を強く押さえて訴える。


「……そうね。大事な人を失うのは辛い。死ぬより辛い……そうね……そうだったわね……」


 ディーは何かを悔やむように唇を噛んだ。

 祈るような心地で辛抱強く待っていると、ディーは一つ頷いた。


「……記憶を戻してあげましょう。その代わり、あなたも私に協力してほしい」

「はい」

 シアラは協力の内容も聞かずに即答した。

 もはや彼女が何者だろうと構わなかった。


 失くしたものを取り戻せるならなんだってする。

 心臓を捧げろと言うのなら捧げよう。

 死すら怖くない――シアラはつまり、それだけ必死だった。


 その決意の固さを思い知ったのか、ディーは微苦笑した。

 誰かに似ている笑い方だと思った。

 それが誰なのか、いまのシアラには思い出せないけれど。


 ディーはすっと右手を上げ、一振りさせた。


 その瞬間、矛盾のないよう改竄されていた記憶が元通りに修復され、失っていた記憶が怒涛のように押し寄せた。

 

 ――無事で良かった。

 ――お前が幸せであるように。誰よりも幸せであるように。心から祈ってる。


 全ての記憶が蘇り、頭を覆っていた濃霧が晴れると同時に悟った。

 ルシウスの呪いが解けたのはリドではなくあの人のおかげで、シアラが二ヶ月間、わけもわからず苦しむ羽目になったのは、あの人のせいだと。


 行方をくらましたあの人が、去る前に余計なことを仕出かしたのだと。


 それは多分、シアラのためを思ってのことなのだろうが――冗談ではない。冗談にもならない。


 最も大切なものを奪っておいて、シアラのため、だと?


(何を、勝手な……)

 沸々と胸に怒りがこみ上げる。

 目も眩むほどの、今まで感じたこともないほどの猛烈な怒り。


 そうだ。あの人はそういう人だった。

 大事なことであればあるほど一人で抱える。


 今回も、大団円と引き換えに全ての痛みを引き受けて、一人で行ってしまった。


 一言も相談せず。シアラを残して。


「カ……カ……」

 シアラはぶるぶる震えた。知らず、両手を固く握りしめて。


 異様な気配に怯えたのか、深く俯いた視界の中で、クルーガが後ずさるのが見えた。


「カイン様の馬鹿ぁぁぁぁ――!!!」


 シアラは足のつま先から頭のてっぺんまで噴き上がる怒りのまま吼えた。


 魂を込めた絶叫は家を揺るがし、森の枝で翼を休めていた鳥たちを一斉に夜空へ飛び立たせたのだった。

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