05:その涙の理由は

 いまだかつて自室の扉を開くためにこれほどの勇気を必要としたことはない。


 手燭を右手に持ち、見慣れた木製の扉の前で息を吸って、吐いて。

 意味もなく左手を握ったり閉じたりして。

 それでも落ち着かず、深呼吸を三度繰り返し、ようやくシアラは意を決した。


(よし……行きます!)


「失礼します」


 カインを起こさないよう小声で言い、民家に侵入した泥棒のような慎重さで以て、ゆっくりゆっくり扉を押し開いていく。


 暗い部屋の内部を手燭が照らした。

 闇に閉ざされた部屋では蝋燭の明かりすら小さな太陽のようだ。


 雨の音を聞きながら、シアラは極力足音を立てないように歩き、手燭をテーブルに置いた。ルシウスの仮のベッドである木箱が置かれたテーブルだ。


 ふと木箱に詰めた布を見下ろし、いまさらながら後悔する。ルシウスが王子だと知っていたら、端切れではなく、もっと上等な布を敷いたのに。


 貧乏暮らしのシアラだが、絹のハンカチだって持っている。一枚だけ、ここぞというときにしか使わないと決めたとっておきだ。


 実を言えばもったいなくて使ったことがなく、マリーから贈られたきり、クロゼットの肥やしと化しているが。


 シアラは息を詰め、すぐそこのベッドへと足のつま先を向けた。


 これまで見ないよう意識していたカインの寝顔が目に飛び込んで来る。


 仰向けの姿勢で眠ったはずのカインだが、寝返りを打ったらしく、いまは扉側に――つまりシアラに顔を向けていた。


(……なんだか酷く苦しそうな寝顔だわ)


 眉間に濃く刻まれた皺。固く閉じられた手。

 よく見れば頬も引き締まっている。歯を食いしばっているようだ。


 ストレスの表れだろうか。

 それともどこか身体が痛いのだろうか。

 顔色は変わらず血の気を失ったままだ。


 シアラは服が汚れるのも構わず、床に膝を落とした。椅子を移動させる時間すら惜しい。


 掛布から出ている彼の左手に手を伸ばし、ためらって引っ込め、それでも思い切って彼の左手を取った。


 十年前に繋いだ手も左手だったことを思い出す。

 でも、あの頃よりも大きくなった。

 成人した男性の手だ。シアラの手より少し冷たい。


 繋いだ手の感触に、心臓が鳴り始めた。


 照れるから一刻も早く離したいと訴えるもう一人の自分がいる。

 でも、一方で、離したくないと願う自分もいるような……


(何を考えているの私ったら。私がカイン様の手を取ったのは、決してやましい気持ちからではないわ。あんまり苦しそうだから、私の力で柔らげることができたらと思っただけよ)


 雑念を振り払う。

 カインの手を両手で包み込み、目を閉じる。


(早く回復されますように。もし怖い夢を見ているのなら、幸せな夢へ変わりますように――)


 念じると同時、手のひらに温かい力が宿る。

 その熱は繋いだ手を通じてカインにも浸透していったはずだ。


 いま目を開ければ淡い金色の光が二人の身体を取り巻いていることだろう。

 十年前の夜、カインが見せてくれた魔法の蝶のような、優しい光が。


 これが、シアラの持つ癒しの力。魔女の力だ。


 魔女は、魔法とは別種の奇跡を引き起こす力を持つ者の総称。

 生まれつき備わった資質であり、その力を他人が真似することはできない。


 シアラのような癒しの力、風や水を呼ぶ力、火を起こす力、未来を予知する力、過去を覗く力……その力の種類は個人により様々だ。


 国教会では『女神レスティアは等しく人間を愛し、等しく恵みを与える』と説いている。

 教会にとって、天賦の特異能力を持つ魔女は『平等』の概念から外れた異端者だ。


 先代の教皇が教会を改革するまで、魔女は長く迫害の憂き目に遭った。

 魔女は女神レスティアの恵みではなく悪魔の呪いを受けた忌まわしい者とされ、広場で公然と火あぶりにされていたというのだから恐ろしい。


 幸い、現教皇は先代の教皇同様、異端に寛容な人格者。

 異端審問が過去の単語となりつつある平和な時代に生まれて良かったと、シアラは心底思っていた。


「…………」

 十数秒して、シアラは目を開け、カインの様子を確かめた。


(――あ)

 カインの眉間から皺が消えている。呼吸も穏やかだ。


 確かにシアラの力はカインに作用し、大いにカインを癒したようだ。


(良かった)

 安らかな寝顔を見て、シアラは微笑んだ。癒しの力が、少しでもカインの役に立ったなら嬉しい。


(ん?)

 繋いでいた手をそっと下ろし、手を離そうとしたまさにそのとき、カインがシアラの手を握りしめた。


 さらにその上、カインの唇が円弧を刻んだ。


(笑った!!)

 それはまるで、母の腕に抱かれて眠る無垢な幼子のような笑顔だった。


 全幅の信頼を寄せる者だけに見せる、宝物のような。


(……ずるい。そんな、安心しきったような笑顔は、反則ですよ、カイン様)

 心拍数が跳ね上がる。頬が熱い。歓喜にも似た不思議な衝動が全身を駆け巡る。


 身体に起きた全ての異変はカインにあるとわかっているのに、それでも、目がカインから離れない。握った手を離せない。


(こんなにも穏やかな表情をするのね……)

 この十年、ずっと心の中にあり続けた人。


 できることならもう少し。あともう少しだけ、この笑顔を見つめていたいと願ったのに――けれど、カインが浮かべた笑みはほんの数秒で消えてしまった。


 次いで、カインの目尻に雫が生まれる。


 雫はみるみるうちに膨らんで、こめかみを伝い落ちて行った。


(…………え?)

 泣いている? 何故?


「カイン様?」

 心配になって、シアラは身を乗り出した。

 カインに意識はないとわかっていたけれど、それでも声をかけずにはいられなかった。


 唇が微かに動いた。

 何か言っている。


 シアラは考える暇もなく、反射的に耳を近づけた。


 雨の音に紛れてしまいそうなほどに小さい声だったが、一言一句聞き逃すまいと集中する。


「……め……さ……」

 聞き取れたのは一言だった。

 それきりカインは何も言おうとはせず、寝息だけが続いた。


(……ごめんなさい……?)


 上体を引いて元の姿勢に戻り、カインが言った言葉を胸の内で唱えて、シアラは困惑した。


(たとえ誰かに謝るにしても、『ごめん』でも『すまない』でもなく、『ごめんなさい』……?)


 彼の普段の口調を考えれば、友人や同僚に対する謝罪に『ごめんなさい』という単語は使いそうにない。


 目上の人や目下の人ではありえない。

 恋人にでも言わないだろう。


(だとしたら、一体誰に……?)


 考えて、ふと閃いた。


(……もしかして、お母さまか、お父さま?)


 カインは眠っている。ただ一筋涙を流しただけで本格的に泣き出す気配はないが、涙の痕があるせいで悲しそうに見える。


 彼は誰に謝りたいのだろう。

 あんな、聞いているこちらが悲しくなるような、悲痛な声で。


(――私にはカイン様の涙の理由がわからない。十年前と大きく態度を変えられた理由も、学校を中退した理由も、わからないことばかり。でも、いま、私がカイン様のために唯一できることは)

 シアラは唇を引き結び、目を閉じた。


 両手で包んだカインの手を額に触れさせ、癒しの力を発動させながら祈る。


(早く回復されますように。もし何かに苦しまれているのなら、せめていまだけでも、楽しい夢を)


 だから、どうかカインが涙することがないようにと、シアラは心から祈った。

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