夜は更けた。


博斗の布団では、稲穂が静かな寝息を立てている。


稲穂と呼ぶべきなのかシータと呼ぶべきなのか、しばらく博斗は悩んだのだが、甲冑に身を包んでいるときはシータ、そうでないときは稲穂と呼ぶことにした。


マヌに連れ去られたシータが、どうして自分のアパートの前に倒れていたのだろうか。

しかもすっかり疲労困憊した様子で。


逃亡してきたのだろうか?

なぜ陽光学園ではなく、博斗のアパートにやってきたのだろう。

なぜ甲冑ではなく制服を着ているのだろう。


がくんと首が落ちた。

少しばかりうつらうつらと舟を漕いでいたらしい。


稲穂がこっちを見ていた。


首だけをこちらに向け、瞬きもせず博斗を見ていた。


「…お…おはよう」

なにを言えば? 聞きたいことが、言いたいことが、山ほどあって…。


「博斗さん」

「う…な、なに?」


「ありがとう」


博斗は、面食らって瞬きした。

「ありがとうって、な、なにが?」


稲穂は眼を細めた。

「助けてくれて」


「俺は、助けてなんかいないよ。ただ、部屋の中に入れただけで…」

「それだけでもうれしいんです。私にも帰る場所があって。ここに帰ってきてよかった…」


どん。

心臓が重く鳴った。


言葉を止めないほうがよさそうだ。なんでもいいから続けないと。

「ど、どうやって来たんだ? 逃げてきたのか?」


「はい。疲労はしていましたが、彼らの隙をつくぐらいは、なんとか出来ましたので」


「そ、そうか…」

次いで博斗は、自分でも思ってもいなかったことを尋ねてしまった。「身体は…? 奴らにおかしなこととか、その…ヘンなこととか、されてないか?」


「大丈夫です。私はまだ男性を知りませんよ」

「…そ、そ、そ、そうか。そ、そりゃあよかった」


っておい、なにが「よかった」だ! なに言ってんだ俺は!?


「戦いは…? ホルスが倒れたとは聞きましたが…」

「ああ。なんとかホルスは死んだ。こっちは快治さん――理事長が戦線離脱したけれども、被害としてはそのぐらいだ」


「そうですか。では、マヌと戦うときも近いですね」

「そうなるな…」

博斗は陰鬱な気分になった。マヌは、このシータを――いくら心に迷いがあったときとはいえ――寄せつけもしなかった。


「どうしたんですか?」

「いや…。マヌに俺達で勝てるのかなって、ちょっと思ってね」


「不安ですか?」

「そりゃあ、もちろん。…君になら、わかっているんじゃないのか? マヌの力も。それに、俺達が勝てるのかどうか、も」


稲穂は、布団をそっと払いのけると、上半身を起こした。

「ご心配ですね、博斗さん? 戦いのことが?」

稲穂が、不安げに博斗を見つめた。


博斗は、どうも稲穂にまじまじと見られると、心が落ち着かない自分をはっきりと感じていた。

明らかに、自分の思考能力が普段より減退していることは間違いないだろう。


ただでさえオオダコムーとの戦いで肉体的に疲労していて、それに加えて、稲穂と二人だけで自室にいるという状況が、おおいに精神を疲弊させている。


「俺なんかより、君のほうが圧倒的に強いはずだ。その君が、まるで歯がたたなかったということは、俺やスクールファイブが束になってかかったところで、まったく勝ち目がない」


「その通りでしょうね」

稲穂があっさりと肯定してしまったので、博斗はどきりとした。


「イシスはマヌのことをなにか言っていますか?」

「いや。ひかりさんは、特になにも…。ただとにかくマヌは強い、の一点張りで…」


「そうでしょうね。彼女は、なにか策をもっているようですが、自分自身、それがマヌに通じるとは考えていないのでしょう」

「そ、そうか…」


とすれば、いったいどうすればいいというんだろう。

ほんの微細なものでも突破の光明が見えていれば、そこに向けて全力でぶつかっていくことは出来るが、しかし…。


「なにを悩んでいるんですか?」

「…いや…どうにもお先真っ暗だ。勝ち目はない。方策もない」


稲穂はつらそうに眼をそむけて、そこでかすかに口を動かした。

「あれが手にあれば、勝てるというのに…」

「あれ? あれって、なんだ?」


稲穂は、この人はなにを言っているのかしら、と言いたげな眼で博斗を見つめた。


博斗は、きゅっと胃が引き締まるのを感じた。

稲穂がなにを言おうとしているのか、唐突にわかったからだ。

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