博斗はフェンスから手を放し、険しい声で怒鳴った。

「だからこの文明は終わるべきだというのかっ!? お前達の文明のほうが正しいとっ? お前達の文明なら地球を救うことが出来るとっ!?」


稲穂は寂しそうに首を横に振った。

「…かつての私はそう思っていました。私は帝国の中枢に生まれ、育ち、生まれたときから帝国を守る戦いの申し子だったのです。繁栄を疑っていなかったのです。確かに人類は栄華を極め、あらゆる技術は現代よりも洗練され凌駕し、そして多くの生物と共存していました。しかし、思えばそれがなんだったのでしょう。その裏で、人類同士の支配は力がすべてでした。極度に緻密化された権力構造は強固なものでしたが、しかしそれは抑止力による楼閣。強さによる支配のために、ほとんど使われこそしなかったとはいえ、いつしか私達もまたおそるべき力を、世界を、生命を、地球を滅ぼし得る力を眠らせた文明となっていたのです」


稲穂は笑った。

「恥ずかしいことです。私は、いまのいままでそのことに気付かなかった。この文明は、確かに汚らしい。洗練されていない。しかし、いい匂いがします。わかりますか? 私は、ここにやってきて、はじめて、戦うこと以外で、自分が『生きている』ことを実感出来たのです。私にも、どうすべきかの答えはわからない。ただ、いま、これだけはわかっています。これからのことはこれからの人間達に委ねなければならないということです。過去の文明は、なくなったほうがいい。イシスは、それにもっと早く気付いたのですね。そして、私も、遅れ馳せながら、やっと気付きかけているところ」


稲穂は再びフェンスに向かった。


夕陽に染め上げられたその横顔を見ながら、博斗は、紡ぎ出すように一つずつ言った。


「まったく、うかつだった。ひかりさんのことがあった時点で、気付くべきだった。まさかこんな身近にいつの間にか潜り込んでいるとは思わなかった。だが、それですべての辻褄があう。君が転入してきた時期もぴったり合致する。確信を持ったのは、その、怪我だ」

博斗は稲穂の右手を指差した。


「だが、いまだに信じられない。あまりにも、違いすぎる。声も、喋り方も、雰囲気も。まるで別人としか思えない。たいした演技派だ。本人から、はっきりと聞くまでは、まだ心のどこかでそれを疑っている気持ちがある。…君は、シータなんだろう?」


稲穂はフェンスから離れ、博斗に背を向けた。

「そうだ、と言ったら、どうするんですか?」


「わからない。ただ、一つはっきりしていることは、俺は、俺は、お前を敵にまわしたくないってことだ。遥達は度肝を抜かれるだろう。あるいは反発するだろう。けど、もし、もしも、お前が俺達に力を貸してくれるというのなら、俺は、全力でお前を弁護する」


「なぜ? 私の力がほしいから?」

「そんなんじゃない。…ただ、そうしたいからだ」


風が稲穂の髪と服を揺らしていった。


次に耳にした稲穂の声は、稲穂の声ではなく、博斗の聞き覚えのあるシータの声になっていた。

別人のようだが、よく聞けば確かに声音は同じだ。


「お前と話していると、私の心は激しく高鳴る。…私は、まだ、シータとしてお前に素顔をさらす勇気がない。そうすることを想うだけで、私のなにかが壊れそうだ」


「シータ…」


「一つ懸案がある。それを済ませたらしばらく姿をくらますつもりだ。しばらく考えたい。いまは、私の三つの頼みを聞くだけにしてほしい」

「頼み?」


「一。飯塚稲穂はいなくなるが、稲穂が誰であるかは、まだ遥達には隠してほしい。私は、情けないが、遥達に会う勇気もない」


「いなくなるって、どういうことだ?」

「飯塚稲穂もシータも、いなくなるということだよ。そして、考えが落ち着いたとき、私は稲穂になるか、シータになるか、結論を出す。そのときがくれば、自ら遥達に正体を明かすだろう」


「わかった」


「二。少なくとも、私はもうお前達と戦う気はない。イシスに色々と教えられた。私もまた、イシスと同じ道をたどり、なにをすべきかわかってきた」


「ひかりさんか…」

「博斗。イシスはあまりに重いものを背負いすぎている。せめてお前は、イシスに平安を与えてやってくれないか。イシスは…いや、ひかりはお前を愛している」


「…わかってる。俺も、ひかりさんを愛している」


「ふ。うらやましいものだ」

かすかな笑い声が聞こえた。

「…戦いはもうそれほど先が長くはないだろう。そのときまで、彼女を支えてやってほしい」


「わかった。三つ目の頼みは?」


「…」

「どうした?」


「以前、お前に言われたことが私の胸を締め付けている。いまの私はどうなのか、教えてほしい」

「なにをだ?」


「私には、ハートがあるか?」


風が通り過ぎていった。


博斗は、強く言った。

「ある。絶対に。…俺は、この右手を手当てしてくれたことを、絶対に忘れない」


「そうか。…では、そろそろ懸案を片づけるとする。しばし、お前の前からは姿を消すだろう。だが、時がくれば、必ず戻ってくる。仮面にかけて誓う」


稲穂は言うや否や、すっとフェンスの高さまで宙に浮いた。


そして、竜巻のように回転しながら漆黒の甲冑と仮面をまとい、シータに姿を変えると身を翻し、黒い閃光となって夕陽の向こうに飛び去っていった。

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