博斗と稲穂は、たばこ屋の屋根の下に飛び込んだ。

「おばちゃーん? おばちゃーん? …あれ。いないのかな?」


このたばこ屋は、陽光学園の教室の半分もないような狭さで、明かりも、天井の弱々しい蛍光灯だけ。

外の壁には自動販売機と、たばこを売るための窓。中は、丈の低い棚にスナック菓子やパンが積まれ、冷凍のショーケースにはアイスが詰められている。ガラス張りの小さな冷蔵庫には、缶ジュースと、いまどき珍しい瓶の牛乳、さらには、瓶のコーラまで詰めてある。さらに隅のほうには、半ば埃をかぶるようなかっこうで、ノートや鉛筆や封筒が、ひっそりと積まれている。


すぐ裏手には小学校があるというのに、どう見ても、売れているとは言えないようだ。

こんな店の雰囲気では、無理もないかもしれない。


レジの裏から、年の頃六十を過ぎたかどうかというおばちゃんが姿を現した。

「これはこれは、先生。ずいぶんとまあ、濡れ鼠になって…」


「いや、すみません。…床、濡らしちゃって」

博斗と稲穂の体を滑り落ちた雫が、コンクリートの床にぽたぽたと溜まっている。

「ああ、そんなのは構わないよ。濡れて困るようなものもない」

そう言うと、おばちゃんは自嘲気味にくっくっと笑った。


博斗は、服をつまんで水を絞る。稲穂は、おばちゃんからタオルをもらい、頭を拭いた。

「それにしても、今日はお客さんの多い日で、うれしいよ」

「お客さん?」

博斗が聞き返すと、その言葉に応えるように、陰からひょっこりと顔を出した小さな影があった。


「あれれれ? おじ…にーさん!」

「げっ! 玉次郎! どうしてお前がここに!」

「今日、とうこうびだったんだ」

「ん…そうか! お前の学校はここの裏か!」


「まったく、どうしてわたくしがこんなずぶ濡れに…。玉次郎のせいですわ」

玉次郎に続いて、ぶつぶつと言いながらあずさが現れた。このお嬢様までいるのか。


「ほうほう。お二人さん、仲がいいねえ」

博斗は玉次郎の頭をぐしぐしと撫でた。


「ちゃかさないでよ」

玉次郎は赤くなると、こそこそと隠れる。


博斗は、声を潜めておばちゃんに尋ねた。

「どうなんです? 店は?」


「苦しいねえ」

おばちゃんは目を伏せた。

「正直言って、増税分据え置きは、厳しいんだよね」

「どうして据え置きにしてるんです? 他の店はどこだって上乗せしてるんだ。ここが上げたって、別に何も言われないでしょ?」


「あたしが値上げしないのは。そういうことじゃないんだ。…心の問題さ」

「心?」

博斗はどきりとした。ついさっき、ひかりとその話をしたばかりだ。

「どういうことです?」


「税を上げたのは、あたしら大人の問題さ。…それを、なんの関係もない子ども達に払わせるなんて、おかしな話じゃないか」

博斗は、黙って聞いていた。ボツボツと雨が屋根に当たり、激しい音が響く。


「大人ってのは勝手なもんさ。自分達の都合ばかりで、子ども達のことはろくに考えていない。でもねぇ、時代も変わったのかねえ。子ども達も、昔のような子ども達とは違うのかもしれない…。ちょっと前までは、棚卸しすると数が全然合わなくてねえ、悪い小僧に万引きされてたんだろうけど。あたしは、万引きしてもいいから、子ども達がいてくれるだけで、うれしいんだけどねぇ」


「変わったのは子どもだけじゃないんです。大人だって、変わってるんです。ただ、大人は、自分達が変わったことには気付くことが出来なくて、足元が見えてないのに、子どものことだけあーだこーだって、勝手に…」

「…そうかねぇ。どっちにしても、子ども達が、こういう店に集まらなくなったのは、確かだよ」

おばちゃんは暗い店内を見回した。


「なんかそういうの、寂しいです。俺がガキの頃は、まだ、放課後っつったら、みんなでこういうところに来て、二百円か三百円ぐらいで、ジュース飲んで、アイス食って、ボリボリ菓子食ったりしたもんです」

「そう、ここ数年だね。気がつけば、めっきり、子ども達の集まりを見なくなった」


「塾だ、なんだって、子どもは忙しくなったからな」

博斗はお手上げのジェスチャーをした。

「ばかげた話さ。人間の平均寿命はどんどん伸びて、人生かけて、何かをすることが出来る時間がどんどん増えてるってのに、最初のほんの十年かそこいらにやらされることは、どんどん増えるばっかりで…。そのあげくに、『高齢化社会の生きがい』ですよ? んなもん、人生もっとのんびり過ごせば、いくらだってあるのに」


「先生は、面白いことを考えるんだねえ。そういう意味じゃあ、あたしの生きがいは、この店さ」

「俺は、そういうの好きですよ。だから、この店だって、つぶれてほしくないし。なんか、俺に出来ることがあるんなら、なんでもやりますよ」


「いいんだよ。そういう気持ちでいてくれる人が、いてくれるだけで」

「でも…」

博斗は黙った。そういうことなのだ。博斗一人が、なにかしようと思ったところで、それでどうなるというものでもない。

だが、博斗はどうしても、こういう店を守りたいとも思う。そう、心の問題なのだ。この店には、心がある。

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