校門を出た由布を、父親が出迎えた。

「これでよかったのですよね」

由布は消え入りそうな声で呟いた。


「もちろんだ。もう、お前は何も心配しなくていい。お前に、寂しい思いはさせないからな」


由布は、なぜこんなにも空虚な気分がするのか、戸惑っていた。どうしてこんなに寂しいのだろう。

これで、お父さんの世話がしっかりできるようになるのだから、うれしいはずなのに…。


父親は振り返った。

「由布。父さんは、お前だけを愛しているんだ。お前も、父さんのことが大切なのだろう?」


「はい…」

言いながら由布は、微妙な違和感に気づいていた。

確かにお父さんのことは大切。

でも、何か違っている気がする…。


「それなら、なぜそんなに悲しそうな顔をするんだ」

「そ、それは…」


由布は口をつぐんだ。

わたしには、大切な人がたくさんいるのだと、その大切な人たちの元を去ろうとしていることがなぜか寂しいのだと言いたいのだが、うまく言えない。


たった一人のために、私は、

多くのものを捨てようとしている。


でも、たった一人、本当に大切な人がいるのなら、他はどうなってもいい。

わたしにとって、お父さんはいちばん大切な人ではないの? もっと、大切な人たちがいるの?


(わたしは、この人と一緒にいては、いけない。この人は、私を幸せにはしてくれない)


由布は頭を振った。

もう一人のわたしは、いったい何を言っているのだろう。


「どうした由布。まだ何か、気になるのか?」

「い、いえ…」


「由布? …いいか、他の者のことなど気にすることはない。父さんがいるじゃないか」


由布は胸にヒリヒリする痛みを覚えた。痣が痛んでいる。


「なあ、由布? 父さんとお前と、二人っきりで暮らしていけば、きっと幸せになれるさ、なあ?」


痛みは耐え難くなってきて、胸を押さえずにはいられなくなった。


「わかるだろう? 父さんは、由布を愛しているんだ。お前は父さんの言うとおりにしていればいいんだぞ」


その声音が、微妙に変わり、上ずってきた。父親の手が肩におかれ、力が入ってきた。


すると胸の痛みは激しさを増した。血液が痛む。


由布は思わず肩に乗せられた腕を振り払ったが、ごつごつとした手が、由布の腕を掴んだ。


「待て! 逃げないでくれ! 由布! 父さんはお前を愛してるんだ!」


ぎりぎりと、掴まれた由布の腕がきしむ。

由布は身をよじったが、万力のようにきつい力でがっちりと掴まれ、男から離れることは出来ない。


男?

そうだ。ここにいるのは力の強い男だ。


お父さんじゃない。


「父さんが、お前をどんなに愛しているか、わかっているだろう? 言うことを聞かないと痛いぞ。お前が悪いんだからな」


これが、わたしのお父さん?

違う、違う!

これはわたしが覚えているお父さんではない。


寂しげにささやく声が心に響いた。


(違わない。わたしがほんとうのお父さんを受け入れたくなかっただけ。これが、ほんとうのわたしのお父さん。あなたが、鍵をかけてしまったの。もう、二度と思い出さなくていいように…)


由布は、ようやく気づいた。

そうか…この声は、わたしが昨日においてきてしまった、もう一人のわたしなんだ。


「愛してるんだよ、由布」


ついに由布は押し殺した悲鳴を上げた。

「っ…!」

忘れていた恐怖が、じわじわと這い上がってきた。


体ががたがたと震えはじめた。指が、腕が、脚が、びりびりと痺れてきた。


鍵をかけて、心のずっと奥にしまっていた記憶が、どっと頭に流れてきた。


助けて!助けて、みんな!


由布は体を震わせ、その場に崩れた。


「由布っ!?」

由布を探していた博斗がやってきたのはそのときだった。


博斗は、倒れている由布とそこに屈みこんでいる中年の男を見た。


「その子に触るなっ!」

博斗は駆けながら男に叫んだ。


男は舌打ちし、博斗をひと睨みすると走り去った。

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