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翠はかっかと頭に血を上らせながら、にこにこ銀座を歩いていた。
なんですかしら。この苛立ちは。屈辱ですわ。
練習試合だったのが、せめてもの救いかしら。
もし、来週の大会でも負けるようなことがあっては…わたくし、なんとしたものでしょう。
わたくしにとって勝利は至上命題。敗戦は許されないことなのですわ。
それは、わたくし自身のアイデンティティを否定することになるのですから。
そう。わたくしは勝ちつづける女。
実力ですべてをひざまずかせる女。
わたくしの上には何者もなく、私の下にこそ万人がいるのです。
それが、豪徳寺の家に生まれたわたくしのさだめなのですから。
「ちょっと、そこのお嬢さん」
翠は、ふと足を止めた。
シャッターを降ろしている店の前に小さなテーブルを出した露天商が、翠を呼び止めていた。
中国帽をかぶり、縦縞の派手な服に身を包んでいる。そして、丸い縁のサングラスをかけ、見るからにアンダーグラウンドな雰囲気全開である。
「なんですの? わたくしを誰だか知って声をかけていらっしゃるのでしょうね?」
「そりゃもちろん、承知の上で」
露天商はくっくっと笑った。
「お嬢さん、何か、悩みを抱えているね? ズバリ、それはスポーツの悩みですな?」
「ど、どうしてそれを…」
翠は思わず口にしてしまい、慌てて手で口を押さえた。
「当たりですね?」
男の丸眼鏡が輝いた。
「そ、その通りですわ。だからといって、貴方には関係ないことではありませんこと?」
翠は男をきつく睨むが、男はにやにやとして、意にも介さない。
「いやあ、それが大ありなんですよ。いやね、今日の掘り出し物に…こんなのが…」
露天商は、テーブルの下から、くすんだ灰色をした一振りのラケットを取り出した。
「なんですの? それは?」
「興味がおありで?」
男は、手を伸ばしてきた翠から、ラケットを遠ざけた。
「お見せなさい。どんなラケットなのかしら?」
「ふっふっ。これは、私の故郷でつくられているものでしてね。高速回転的無限勝利魔法庭球操具と言うのですよ」
「…高速…なんですって?」
「まあ、わかりやすく言えば魔法のラケットというところですね」
「魔法?」
「中国四千年の秘術とでもしておくべきですかな。御自分で触って確かめてごらんなさい」
言うと、男は、ラケットの柄を翠に差し出した。
翠は、恐る恐るといった様子でその柄をつかんでみた。
そしてひゅっと振ってみた。
翠は、一瞬、目の前が歪んだような錯覚を覚えた。
がくっと力が抜け、足元がふらつき、おもわず店の壁に背中を寄せた。
「な、な、なんですの? いったい?」
翠はラケットをテーブルに戻した。
すると、ふっと体に力が戻って来た。
「慣れが必要なんですよ。慣れが」
にやにやと露天商は笑った。
「そのかわり、ラケットの性能は抜群ですよ…。もっとも、お嬢さんがそのラケットを使いこなすことが出来れば、の話ですがね」
「わたくしは天才ですわよ! このわたくしに使いこなすことの出来ないラケットなど、あるわけがありませんでしょう?」
「ふふふ。それならば話は早い。お嬢さんにこのラケットはベストフィットしますよ。必ずね」
翠は、ラケットを握った手の平を閉じたり開いたり、じっと見つめた。
「ほんとうに、こんなラケットが魔法のラケットなのですかしら?」
「疑うのならば、売らなくてもいいんですがね…」
露天商は、ラケットをテーブルの下に戻そうとした。
すると、なぜか翠はどうしてもラケットが欲しくなり、男の襟首をつかんだ。
「お待ち! わかりましたわっ、さっさとよこしなさいっ! いくらですのっ?」
「消費税込で、たったの9999円ポッキリですな。しかも、いまならなんとこの特製中華鍋もおつけしますよ」
「ラケットと中華鍋になんの関係があるのですかしら…」
「いえいえ。そのラケットはたいへん体力を消耗しますからねえ。中華料理でもつくって元気をつけていただかないと」
「自慢じゃありませんが、わたくし、料理はからっきしですわよ。全部、暁に任せていますから」
「それなら、料理も勉強なさるとよろしいでしょうね。くっくっくっ」
男は卑屈に笑った。
「…まあ、よろしくてよ」
翠は財布から一万円札を抜き取ると、男の手に滑りこませた。
「お釣はとっておきなさい」
「1円ですが」
「何か、言いまして?」
「いえいえ、毎度」
男はにやにやと愛想笑いをすると、翠に再びラケットを手渡した。
翠は、ラケットを大切に胸に抱え込むと、いそいそと走りはじめた。
一刻も早く、このラケットを試してみたかった。
そのため翠は、すぐ背後で、いままでいたはずの露天商が忽然と姿を消したことに、まったく気づかなかった。
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