地上に戻った博斗は、少し涼しさに体が固まってきたような感じを受け、中庭に出てみた。


どこからか、スパコンと、ラケットがボールを弾く小気味いい音がする。テニスコートだ。


翠がいる。


翠はベンチに腰掛け、ラケットのガットを調節しているようだった。博斗の煩悩にとっては凶悪な破壊力を持つテニスルックだ。


その翠に、後輩らしい可愛らしい子が何か声をかけた。

翠はうなずくと、立ち上がり、後輩とともにコートに進む。


それまでコートを使っていた部員達が、翠を見て、素早くコートから退いた。

どうやら、翠と後輩がゲームをするらしい。


「おーす! 翠君! 頑張れよー!」

翠は振り返り、博斗の姿を認めると、ひらひらと手を振って応えた。


「翠様、お手柔らかにお願いしますね」

後輩が翠を見上げた。


「ほほっ。駄目ですわ。これは試合前のウォームアップなのですから、わたくしの力がどこまで出る状態にあるか、全力でチェックさせていただきますことよ」

「ふぇぇ~ん。それじゃ、私、勝てませ~ん」

「問答無用、ですわっ! 始めますわよ!」


翠は圧倒的な強さを見せつけた。一度も失点を許さず後輩に完勝した。


「やっぱり翠様には勝てません! さすが陽光テニス部のエースです!」

「ま、当然ですわ。古今東西、このわたくしに一度でも土をつけたことがあるのは遥さんだけですことよ。まして、テニスではわたくし、無敗ですから、おっほっほ」

「これなら翠様、今日の練習試合も、来週の地区大会もカンペキですね!」


もう一面のコートを使って、陽光学園とは違う一団が練習をしている。

これが、今日の練習試合とやらの相手なんだろう。

いまの後輩との試合はその肩慣らしということか。


翠はコートの脇に行くと、水を口に含み、再び試合の準備をはじめた。

いっぽう、対戦相手らしい他校の集団からも、一人少女がやってきた。あまりテニスがうまそうな感じはしない。


ところが蓋を開けてみると、こてんぱんに打ち負かされたのは翠であった。

まるで、さっきの翠と後輩の立場が入れ代ったかのようである。


翠の放つサーブはことごとく弾き返され、一つとしてサービスエースは獲得できない。いっぽう、相手のサービスは実に確実にライン際をつき、翠は左右に振りまわされる。

さらに、相手にいいようにされていることへの苛立ちが、翠の冷静さを奪い、正確な判断を失わせた。


かくして結局、翠は、まったくさっきの後輩と同じスコアで敗れ去った。

つまり、完封負けだ。


相手の少女は、ネット越しに翠に微笑んだ。

「たいしたこと、ないですね」

打ちひしがれた翠は、その言葉を聞いても、何の反応も返さない。


コートの横から、せんだっての後輩が飛び出し、すかさず翠の首筋にタオルをかけ、ペットボトルを差し出した。

「翠様。お元気出してください~」


翠がはっと顔を上げた。

そして、後輩の差し出したペットボトルを手で払いのけた。

「あ…!」


翠は、立ち上がると、後輩を見おろした。

「元はといえば、貴方が下手すぎるからいけないのですわ! 貴方がもっといい練習相手になっていさえすれば、こんなことになるはずがなかったでしょうに!」

「す、すみません…」


見ていられなくなった博斗は、翠をたしなめた。

「翠君。後輩にはなんの罪もないだろ。負けたのは君の責任なんだ。人に当たり散らすのはやめなよ。子どもじゃあるまいし」


「なんですの! 博斗先生に何がわかりまして? わたくし、豪徳寺の名にかけて、こんな屈辱を受けて黙ってはいられませんですわ! あの女も来週の地区大会に参加するかもしれないのですわよ? 豪徳寺翠ともあろうものが、公衆の面前で二度も苦杯を飲まされるなどしては、もはや生きていられないのですわ!」

翠は、肩で大きく息をついた。

「不愉快ですわ! わたくし、今日はもう帰りますですことよ!」


それにしても、確かにいまの試合は妙だった。

まるで、翠の一挙一動すべてが相手に見透かされているかのようだった。


博斗の見たところ、お世辞抜きに確かに翠は強い。

しかし、その翠にこれほどの力の差を見せ付けるとは、あの少女もまた、たいしたものだ。

博斗は、その少女達の姿を探そうとしたが、いつのまにか姿を消していた。

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