運命の秤が傾く先は 2
ぽろん、と鍵盤を弾く。
ピアノに触れるようになって、まだほんの少し。グラスゴーフの所属ではないマーリエルは、高級士官の宿舎の一室を借り受けて一時の平和を過ごしている。
そこでは今日もピアノが奏でられていた。
技量は未だ素人のそれだ。楽器の弾き方を覚えて、なんとか形だけ音を連ねているだけのもの。日々上達はしているが、まだまだ人様に聞かせられるレベルではない。
それでも、何事もやり始めは上達が早いものだ。あの奇妙な少年と知り合い、友人となることでピアノに触れる切っ掛けが出来たが、思いの外ピアノの鍵盤を弾くのは楽しかった。
前線を離れ、
素直な楽器である。語りかければ応えてくれる、そんな愛嬌と美しさがあって、綺麗な声で鳴くカナリアの鳥のようだった。上手く言葉に出来ないが、楽しいと感じる。自分で音を紡ぐのが、こんなにも心を豊かにしてくれるものだとは知らなかった。
けれども、こうしてピアノに触れていると、どうしても比較してしまう相手がいる。
アルトリウスだ。彼が弾いたヴァイオリンは、彼の心の内を詳らかに語るある種天才的なもので、音が色彩を帯び心を揺り動かす力があった。ピアノを弾いた時も得手ではないと言っていたのに、今のマーリエルより遥かに巧かった。
あれから音楽に興味を持ち様々なレコードを買い漁ってみて、暇があれば聴くようになったが、どうしてかアルトリウスの方が巧いと感じてしまう。技量的にはプロの音楽家達の方が上のはずなのに。
天才――音楽の神様なんているか知らないけど。もしいるとしたら、彼はきっとその神様に愛されているのだろう。いつか一緒に
戦闘というジャンルに人生の全てを捧げ、戦闘能力の向上にさしたる苦難を感じたことのない少女にとって、ジャンル違いとはいえど明確に差がある相手を追い掛ける経験は、非常に心躍るものなのだと知れた。これはきっとマーリエル・オストーラヴァという人間にとって、とても得難く素晴らしい体験なのだと思う。
――アーサー、マリアと愛称で呼び合うようになった彼とは友人同士になった。
しかし彼の異質特性が再現不能な代物だと分かると、マーリエルに課せられていたアルトリウスの監視任務は解かれてしまった。
彼が魔族ではないかという疑いが晴れた……というよりは監視する必要がないと判断されたのだろう。彼の力では脅威足り得ず、人工精霊端末アビーが監視するのみで充分だと見做されたのだ。切れ者の父辺りはアルトリウスを既に疑ってはいないだろうが、念には念を入れての措置を取っている。ついでに言えば彼の資質を鑑み、手元に置いて保護する中で、成長のための手助けをするつもりでもあるはずだ。
それっきり彼とは一度も会えていない。同年代の友人というものが今までいなかったマーリエルにとって、それは微妙に座りの悪い気分を齎したものだが、かといって自分からアクションを起こすこともなかった。
どうすればいいのか、いまいちよく分からなかったからである。
普通の友人同士というものはどう付き合うのか。マーリエルにはそれが分からない。ましてやマーリエルとアルトリウスの立場は明確に違った。
一方が軍属で、もう一方は闘技場の登録者……付け加えると生体型迷宮で魔石を発掘するための労働力……つまりは探索者でもある首輪付きだ。立場で言うとマーリエルはアルトリウスにとって管理者側でしかない。
気軽に会えるものではなく、接点を持とうとするならアルトリウスの探索パーティーにしてくれるよう、グラスゴーフ運営本部に打珍するしかなかった。
しかしそうして積極的にアルトリウスに会いに行こうとすると、どうにも気恥ずかしい気持ちが湧いてきてしまう。
(約束……したのよね)
彼を強くしてあげると、確かに約束した。だから彼が演算補助宝珠を支給されるのが早まるように手配したし、彼の肉体の錬成を手掛け、格闘術のイロハの触りだけは教えていた。
だが全く足りない。こんなものでは全然約束を果たしたとは思えない。
筋を通す為に会いに行く、という名目はある。しかしそれでも二の足を踏んでしまっているのは、何も自分から会いに行くことへの恥ずかしさだけが原因ではなかった。
(お父さんが、アリクスを呼んだ……)
アレクシア・アナスタシア・アールナネスタ。エファンゲーリウム帝国大公爵家の長女にして、帝国軍ラーブル空上本部航空十一部隊の一翼を担う航空騎士大尉。希少な第四位階到達者の一人であり、帝国軍の未来を背負って立つと言われる天才――マーリエルにとって非常に大きな存在だ。一方的に対抗意識を持つ相手でもある。
彼女の来訪を知ったのは偶然ではない。実を言うとマーリエルは既に闘技場の受付に打珍してはいたのだ。アルトリウスが探索のパーティーを募ったら、外部協力者として参加したいと。
だが受付の男性は言った。『ははは、“コールマン”は人気ですね。先に同様のことを申し込んでいる方がいます。アレクシスという方です』と。
アレクシス。アレクシアという女性名を男性名にしたもの。そしてヴィッテンバッハという姓は、アールナネスタ家に仕える執事長のものだ。『アレクシス』と『アレクシア』を等号で結ぶのは簡単なことで、マーリエルは久方ぶりの驚愕を味わったものである。
なぜアレクシアが来たのか。少し考えてみると、父の考えは理解できた。
現在は魔族の潜入が想定されている状況下にある。万が一を考え、王国第二の心臓と評される都市を守るために彼女を招聘したのだろう。
アレクシアは帝国航空騎士のエース・ストライカーだが、同時に皇族でもあるという異色の存在である。このグラスゴーフにアレクシアがいることが表沙汰になっていないことから、一応
『アレクシス』と男性名を名乗っているのだ、十中八九男体に転性して変装の代わりにしているのだろう。だが生憎とあの少女の存在感はそんな安易な変身魔術で隠せるものではない。受付も容易く『アレクシス』の正体を看破しているはずだ。
彼女は普通に公共の交通機関を利用してのもの。民間の人が男体のアレクシスを見掛ける機会はザラにある。であれば市井でもアレクシアの来訪が噂になっていてもおかしくはない。
そしてそのアレクシアがアルトリウスの存在を知っており、且つ接触を持とうとしているということは、父はアレクシアをアルトリウスに宛てがい鍛えようとしているということになる。付け加えれば彼の異質特性へ別のアプローチを掛け、他者に再現、または引き継がせることが適うか試す意図もあるはず。父はそういう人だ。
アレクシアは脳味噌まで筋肉で出来ているような少女だが、地頭はいい。いや寧ろ、策謀などへの適性の有無は定かではないにしろ、純粋な知能指数は極めて高いのだ。であれば自身を招いたアルドヘルムの意図を察してしまえる。
彼女は基本的に自由人ではある。しかし義務や義理にはうるさいタチでもあった。筋の通らない物事を嫌う性格の上に、自身の家柄故か大衆全体への奉仕も嫌がることがないだろう。となればアルドヘルムの意図を汲んで動くのも吝かではないと感じるはず。アルトリウスの異質特性に、自らの体を使うだけの価値があると判断すれば躊躇いはしない。そこへ私情を挟んだりする少女ではなかった。
「………」
胸の中心にある点に、じんわりと煩雑な絵の具が滲んでいく感覚。複雑な気分、という奴だ。
――憐れだった。アルトリウスが。
アレクシアは天に二物も三物も与えられた天与の才人だ。加えてその美貌も凄まじいし、性格も悪くない。寧ろ波長が合えば極めて親しめる性質がある。まさしく完璧超人というやつで、欠点と言えば脊髄反射で生きているところぐらい。そのくせどこか理性的でもあるというのだから複雑怪奇な人型だった。
アルトリウスはアレクシアのアプローチを受ければ惹かれるだろう。マーリエルは子供ではない、その結果彼らがどのような関係になるかは想像できた。
聡い彼のことだ。いずれ自分の頭越しに物事が決まったことに気づく時が来る。変に賢しいのが彼の難儀なところで、その境遇には同情を通り越して憐憫を懐いた。アルトリウスの意志がまるで介在しないまま現実が動いているのだから。
現実に自身の意志を差し挟むためには、強く在らねばならない。彼はそう在れているだろうか? 心配で……マーリエルはまた少し贔屓をしようと思い立つ。
「うん」
一つ頷きマーリエルはピアノから離れた。
空調の利いた自室を出る前にロッカーから橙色の外套を取り出して、それに袖を通しながら宿舎を出る。
アルトリウスは尊敬できる人間性の持ち主だ。村の人や父親の仇の縁者である自分と打算なく友人になってくれるような人なのだから。
公人としては公正でも、私人としてのマーリエルは人を平等には扱わない。自身の感情によって贔屓するのである。公私は切り替えられるが、生憎と今のマーリエルはオフタイム。
闘技場へ向かう。これからやろうとしていることが職権乱用みたいで気が引けるが、直接親の名前は出さないし命令もしない。ちょっと気を利かせてもらうだけ。だからなんにも問題ない。――理論武装は完璧だ。一分の隙もないと確信する。
やはり一度約束した手前、途中で投げ出すなんて真似はするべきじゃないのだ。強くしてあげる、鍛えてあげると言ったのだからこれからは定期的に会いに行こう。躊躇っていられる暇はない。何せマーリエルがグラスゴーフにいられる時間はあと僅かなのだから。
「………?」
と、やって来たのはいいものの、闘技場の入り口付近で一人の青年を見掛けてマーリエルは目を丸くした。
硬質な黒髪を束ねた、七つの瞳を紅玉のような眼に収めた青年がいたのだ。
左手には七本の指。纏っているのは瀟洒な印象を受けるドレスシャツとズボン。戦装束ではなく、普段着であるのにも関わらず黒壇の長槍を携えた彼は、マーリエルに気づくと微かに眉を動かした。
彼の顔と名前は識っていた。恐らくは彼がキュクレイン――今年、国営冒険者組合の等級三位“土の星”に昇格した“
等級三位。これは現状、冒険者の最高位に位置する等級である。冒険者の等級は全部で九つあるが、二位と一位に該当する実績や実力、昇格条件を満たせる存在がいないから空位とされていた。
“水の星”
“火の星”
“金の星”
“地の星”
“海の星”
“天の星”
“土の星”
“歳の星”
そして“恒星”
太陽系に連なる惑星を、直径の大きさの順から名前を取ったのが等級の名の由来だという。黒髪の青年の首には、土星の徴の入った
現在王国と帝国が擁する冒険者――別名“敵地浸透探索員”の等級三位該当者は、キュクレインを含めて僅かに三人。
残りの二人は帝国の組合に属しているらしく、その実力は士道と魔道のいずれかの概念位階で、第四に至っているほどだ。
つまりはマーリエルやアレクシアと同格の実力者である。
「………」
「………」
マーリエルは彼を横目に一瞥し、キュクレインもまた視線を一瞬だけ寄越してそのまますれ違っていった。
掛ける言葉はない。知己はなく、共通の話題もないのだ。わざわざ呼び止めるような無駄な真似はしない。ただマーリエルはキュクレインの内包する魔力量を感じ、そこへ奇妙な“呪”の香りを嗅ぎ取ってしまい怪訝な想いを抱いた。
訳ありなのだろう。なんであれ魔導師としてはともかく、戦士としては敵う気がまるでしなかった。何気なく歩く姿を見ただけで分かるものがある、充実した気力に感じるものがある。共に戦うことがあれば頼もしいのにと少し残念に思った。敵地浸透探索員である彼と、軍人である自分が轡を並べることなどほとんどないのだ。あるとすれば大規模な戦闘で、冒険者の人員を義勇軍と称して徴用した時ぐらいだろうか?
しかし――キュクレインは妙な物を持っていた。自身の外套で、人間の頭ほどのサイズの氷塊を包んでいたのだ。
垣間見えたのは、碧眼。水晶の中に閉じ込められた硝子細工のようで――どうしてかそれが、知っている人間のものに見えてしまった。
「………」
頭を振る。そんなはずはない。絶対に気のせいである。たまたま金髪碧眼の少年に会いに行こうとしていたところだから、変に連想してしまっただけ。
大体こんなところで人死にがあるわけがない。今の時期にあったとすればそれは非常事態だ。確実に騒ぎになっていないとおかしい。
マーリエルは今見たものを忘れることにした。何かあれば自分に連絡が来るか、なんらかの形で命令が来る。自身の戦力価値を知る故に、それは決して自惚れではない。
闘技場に入る。――首輪付きにとっては牢獄、しかし民間の登録者にとっては宝くじの当選現場。特に生体型迷宮で得られる魔石の収入は莫大で、一度ここへ訪れることを認可されれば、下手に欲を掻いて深層に潜らない限り一財産を築ける。
民間人にとって首輪付きは金のなる木そのものの存在だ。彼らとパーティーを組めれば、安定して膨大な金銭を得られる。故によほど偏屈な輩でもない限りは首輪付きを邪険に扱う者はいない。何せ一度首輪付きに好感を懐いてもらえれば、宝くじを買う感覚でダンジョン探索の申請をすると、首輪付きから指名を受けてパーティーを組めるようにと闘技場側が手配してくれるのだ。
中には首輪付きと本当の意味で親密になって、後々に首輪付きが解放された後、外に出ても付き合いを持つ人間もいる。稀な例だが異性同士なら結婚することもあった。極端な話、異性との良縁を期待して民間の腕の立つ輩がやってくることもあるほどだ。
「おや、オストーラヴァ中尉ではないですか。こんばんは、もしかして“コールマン”とのセッティングをご希望に?」
「こんばんは。彼とは約束があるから。……アレクシスとかいうの、まだ申請取り下げていないの?」
受付まで進むと、以前アルトリウスの監視任務に付いていた際に顔を合わせた男性がいた。白い床のタイルの隙間を薄紅の水が流れるのを尻目に、彼からの挨拶に応じる。
「はい。しかし“コールマン”はあの方をどうも苦手にしておられるようで、今のところ初対面時からパーティーの結成を拒否なさっております。ですので中尉の申請を優先することはできますよ」
「そう。ならお願い」
「畏まりました。手続きに移ります。現在“コールマン”はダンジョンに単身、魔石探掘へ出ています。慎重な彼のこと、深くまでは行かず直に戻るでしょう。ここで待ってさえいればすぐ会えるかもしれませんよ」
「……ええ、分かったわ。ありがとう」
意外だった。まさかアルトリウスがアレクシアを苦手にしているなんて。
さてはアレクシアの方が何かポカをやらかしたのかもしれない。双方の人間性を知る故に、相性は良さそうだと感じていたから本当に意外で、だからこそアレクシアの接触ミスを疑わずにおれなかった。
あのメスゴリラ、何を仕出かしたのやら……。
受付の彼が何やら手続きをしているのを立ったまま待つ。
アルトリウスの実力と性格から言って、まず進んで無茶をする人間でもないから、ダンジョンに入っても最長一時間以内には戻ると思う。
暇だったので再会の第一声はどうしようか考えてみる。――そんな自分の可笑しさに気づいて、マーリエルは苦笑した。
約束を果たしに来ただけなのにどうしてこんなに緊張しているのだろう。本当に可笑しかった。でもそんな気持ちになるのが新鮮で、浮足立ちそうなふわふわ感を持て余しつつ、適当な挨拶の文言を頭の中で組み上げてみる。
そうしていると、受付のすぐ近くの床が左右に割れ、一つの“
アルトリウスが帰ってきたのだろう。そう思って近づいていくと、ちょうど空気の抜ける音がして筐体の扉が開く。
久し振り、そう声を掛けようとして――出てきた顔に、マーリエルは口を噤んだ。
「うげっ」
出てきた少年が露骨に嫌そうな声を出した。
アルトリウスではない。その少年は、いつぞやの無能だった。マーリエルが『構ってやる価値がない』と断じた、アルトリウスと同郷の“ディビット”である。
「………」
黙って踵を返し見なかったことにする。なんてタイミングだ、と内心悪態を吐きそうだった。
才能なし、やる気なし、頭は悪く口も悪い上に態度も悪い。マーリエルが嫌いなタイプの少年だ。無能は疫病に等しく、無能の類いは防疫せねば気が済まないので、マーリエルは極力そんな存在とは距離を置くようにしている。
戦場でそんな無能が上官に居た場合、漏れなく“戦死してしまう”だろう。同僚や部下だった場合は速やかに後方に下がらせ再教育からはじめるか、マーリエルの“壁”になってもらうしかない。そんな価値しかないのだ。
「おい、待てよ!」
「………」
背中に掛けられた制止に、マーリエルはぴたりと足を止めた。
面倒臭い気持ちを隠しもせず振り返ると、ディビットが憤懣遣る方無いといった様子で渋面を作っていた。
「……なに?」
「『なに』じゃねえ。いきなり近づいてきたかと思ったらすぐ引き返しやがって。おまえ何しにこんなとこに来たんだ」
「貴方に教えてあげる義理なんてないと思うのだけど。あと、近寄ったのは単なる人違いよ」
煩わしげに切って捨て、肩に掛かった髪をさらりと払う。
鼻白み、眉間に皺を寄せたディビットが背負っている背嚢を一瞥して、少女は呆れも隠さず“
そこからもう一人、ドワーフが出てきたのだ。人種的に珍しくもない髭面で、獅子の鬣のようなざんばら髪の翁である。その矮躯には過剰なほど筋肉が搭載され、血の塊の岩を削り出したような長斧を担いでいた。
「……相変わらず誰かに寄生して、金魚の糞やってるのね。進歩のない奴」
「はあ? 誰が寄生してるだって? んな情けねえこと俺がやるかってんだ!」
「違うの? アーサーの時はまるっきし腰巾着だったじゃない。持ってるそれ、ドワーフの人が稼いだものなんでしょ」
ディビットの反駁を受けて、混ぜっ返しながら少年の体を眺めた。
背嚢にぎっしりと魔石を詰めたディビット。顔を真っ赤にして怒りを露わにするその少年の四肢は、以前のそれと比べて筋肉がついている。
少年の顎の形を見た。人間の体とは不思議なもので、歯の噛み合わせによる顎の形で姿勢が傾く傾向にある。真っ直ぐに立っているつもりなのだろうが、顎のラインの歪みから見て直立できていない。体幹がやや右に傾き、重心も高かった。漏れ出る魔力波長の波形からして、魔力制御の技術も未熟極まる。
だが――正直見違えた。
成長の度合いは低いが、それでも以前よりは遥かにマシになっている。ディビットが自身で計画を立て鍛錬を積んだとは思えない、彼の監視を担当する人工精霊が提示するマニュアルに従うとも思えない。
ディビットはグラスゴーフの……エディンバーフ伯爵領の公的立場の者を嫌っている節がある。素直に教えを乞う性格ではないと見ていた。
その見立てが正しいものだと仮定すると、誰か外部の人間がディビットの強化プランを立て、ディビットがそれに従って訓練を積んだのだと思われた。
しかしそうは言ってもディビットは凡人だった。真面目に訓練を始めはしたのだろうが、その実力は未だに
魔力量に至っては十分の一以下で、今のアルトリウスと比べたなら、体術・武器術・戦術・魔法、どれを取っても影すら踏めないだろう。
案の定、指摘を受けてディビットは言葉に詰まった。図星なのだ。
最深部まで行けばマーリエルにすら重大な手傷を負わせかねない魔獣が発生する、生体型迷宮“アルベドの褥”で、ディビットなどが危険な獣を狩り魔石を集められるとはとても思えなかった。
鍛えてはいる、しかしやっているのは寄生と同じ。遠からず運営本部から指導が入るだろう。
「なんだ? どこの娘っ子に絡んどんのかと思っとったら魔導師サマではないか」
ドワーフの翁がざっくばらんとした語調で声を掛けてくる。その物言いに、にこりともせず視線を向けた。
「御機嫌よう、とでも言えば良いのかしら。はじめまして、私はマーリエル・オストーラヴァよ」
「ほぁ? ……こりゃあ驚いた。ただモンじゃないとは思ったが、まさか『あの』マーリエル・オストーラヴァだったとは……っと、失礼した。儂はエイリーク、こン物言いは生まれの卑しさってなもんでな、気にせんでくれよお貴族サマ」
「言葉遣いに生まれは関係ないわよ、小人のお爺さん。TPOさえ意識してくれたら気にしないけど、よそでもそんな調子だと不敬罪でショッ引かれちゃうから気をつけた方が良いわ。折角元気なんだから長生きした方がお得でしょう?」
互いの外見、年齢からすると孫と祖父ほど離れて見えるが、その力の差は見掛けとは逆転している。エイリークの魔力量の少なさから、彼は士道第六位階の戦士相当の実力だと見て取った。
市井の民にしては腕が立ちそうだが、それだけだ。まだ外見でしか判断できないらしいディビットは、筋骨隆々の翁がマーリエルのような小娘に恐縮しているような態度をしているのが信じられないらしい。目を見開いている。
「ふぁっ! こりゃあいい、まさか心配してもらえるとはな。だが無用の心配だ。儂のツレはとっくの昔に先立っとるし、連れ合いも同じ。鍛冶の仕事も、技と心構えも孫に引き継がせたしな、いつ死んでも惜しくない命よ。そんなら面白可笑しくスリル満点な生き方をした方がよっぽど楽しかろう」
「そう。国民が命を粗末にしてるのを聞いたら、貴族としても軍人としても返答に困るけど……自分が納得してるなら何も言えないわね。それじゃあ私は失礼するわ。待ってる人がいるの」
「そうか……ま、いいか。アンタと話せたこと、光栄だった。世辞じゃないぞ」
ひらりと手を振って背を向ける。ディビットは何か物言いたげだったか、結局は口を閉ざした。
マーリエルは有名だ。遥か年上の人にああも畏まられることにも慣れている。
そして軍人とは防人である。特に王国と帝国の軍人が一致団結していなければ、とっくの昔に人類全体が滅亡している故に、そこに住まう人々は軍の人間が自分達の守護者なのだと理解しているのだ。
大切な盾を粗略に扱う戯けはいない。いたとしたらとんでもない愚か者である。エイリークの態度は自然だった。
「な、なあ爺さん……あんたが遜るなんて、アイツそんなに凄いヤツなのかよ?」
「バカモノめ。貴様もあの娘っ子の名前ぐらいは知っとるだろう。天下の魔導騎士オストーラヴァ中尉だぞ。第四位階の魔導師で、第六位階の戦士でもある。儂なんぞ赤子の手を捻るより容易い相手でしかないわ」
「……もしかして、アレクシスさんより強かったりするのか?」
「さぁな。どっちも雲上人だ、優劣なんぞ知らん。同じぐらいなんじゃないか?」
「………」
ディビットがエイリークに話し掛け、何やら不快な比較をされている気がするが聞こえないふりをする。二人から離れ、そのままアルトリウスが帰ってくるのを待った。
暫く待っていると、視界の隅で二人が魔石の精算をし始めた。彼らはその後、暫くフロントに残って言葉を交わしていた。
ドワーフの翁が、未熟な人間族の少年の指導をしているらしい。ディビットの長剣を引っ手繰り、振り方から身のこなしを実演して見せていた。その厳しい見かけに反して面倒見が良いが、元々ドワーフは気難しさと目下の者への優しさを両立させた人種だ。別に意外でもない。
やがて二人は別れ、ディビットはエイリークへ名残惜しそうにしながら割り振られた自分の部屋に戻っていく。マーリエルは彼らがいなくなった後もジッと待っていたが、一時間近く待ちぼうけしてしまった。
「……遅いわね」
思わずボヤく。腕を上げていつもより深い場所に挑戦しているのかもしれないが、あんまり待たされるのは好きじゃない。
まあアポも取らずに勝手に来たのはマーリエルの方だ。気長に待つとする。
そうしてぼんやりとしているのも時間の無駄なので、アルトリウスの訓練メニューを考えておいた。彼の勤勉な性格上、マーリエルがいなくなった後もサボらず鍛錬を続けているだろう。その異質特性の補正もあり、ずっと強くなっているはずだ。
まだ早いだろうが、概念位階へ進化する方法を教えてもいい段階に来ている可能性もある。折角ならマーリエルが補助して、士道第六位階の力を体験してもらうと良い刺激になるだろう。後は――そう、彼のヴァイオリンを聞かせてもらいたくもある。アルトリウスの部屋に行って聞かせてもらおう。それぐらいの役得ぐらい期待させてほしい。
魔力で作った気体のピンポン玉を指先で弾き、それを自身の体の周りで高速移動させる。服や皮膚、髪に触れるギリギリの軌道を回転を加えながら浮遊させた。
暇を持て余しての、魔力制御の訓練。今となっては手慰みにもならないが、何もしないでいるよりはマシだ。
いよいよ待ち草臥れてくると、マーリエルは自分もダンジョンに行って合流しようかなんて思うようになってきた。
と、そんなふうに苛立ち始めた時分だ。マーリエルの脳が微かに震えたような、静電気の刺激を受けたような錯覚を得る。
何事かと思い波長を確かめると、それはグラスゴーフ運営本部に設置されている、参謀部から発されたものだと分かる。
(参謀部から……なんなのよ)
不満を感じるも、無視するわけにはいかない。渋々応答した。
『オストーラヴァです。どうぞ』
『こちら参謀部、突然すまない。〈ブリュンヒルデ〉へ要請があるんだ。聞いてもらえるか?』
「………?」
ノイズエフェクトの掛かっていない男の声で
私、今オフなんだけど……。喉元まで出掛かったその言葉を呑み込むのに、我ながら意外なほど難儀した。なんとか堪えたが、溜め息を吐く。
意識を切り替えた。仕事だろう。わざわざ要請だと言ったのは、グラスゴーフはマーリエルへの命令権を持たず、また彼女が本隊から離れ休暇状態だからだろうが、生憎と仕事に関して『休暇中なので命令は聞きません』なんてワガママを言えるはずがなかった。
『了解。ご注文は何にいたしますか、お客様』
『はは、冗談かな、中尉。ああいや、いいんだ。中尉は現在のグラスゴーフの状況は把握しているだろう。これから六時間、中尉には上空での哨戒任務を任せたい。六時間後に交代を出す。どうかな』
『それは……私でなくても出来るのでは?』
『いや君だからこそ頼みたい。最も信頼できる、実力のある魔導騎士であるオストーラヴァ中尉なら、少なくともこの六時間以内に起こった事態は仔細に把握できるだろう』
『……了解。お給料分の仕事はしたいと思いますが、私は今オフなのでその分の手当も出して下さい。休日出勤ですから、これ』
『もちろんだ。大いに弾ませてもらえるよう掛け合っておこう』
半分笑いながらの応答に不機嫌さを隠しもせず、マーリエルは受付に向かった。
こめかみに指を当て、脳からコピーしたデータグラフを取り出す。魔力で形成されたそれを受付に投げて渡しながら言った。
「それ、“コールマン”が帰ってきたら渡しておいて。彼の訓練メニューだから」
「お帰りになられるのですか?」
「ええ。仕事が入っちゃったの。添付してる術式は
「至れり尽くせりですね……畏まりました。確かに渡しておきます」
恭しく受け取った受付の男性は、なんだか微笑ましげな目で見てきて背筋が痒くなった。
なに、その目。そう訊ねたくなったが、訊けば藪蛇になりそうなので何も言わずにおく。単に筋を通してるだけなのに、そんな目で見られるのは納得がいかなかった。
再び嘆息して闘技場を後にする。時計を見た。午後四時三十分だ。今から六時間の哨戒……任務に就くのが面倒臭いとはじめて思った。
外に出るなり術式を組む。常に腰に吊るしてある短剣型演算補助宝珠“ベレスフォード”に構築した術式を渡し、そのまま宙に浮いた。緩やかに高度を上げながら報告を入れる。
『こちらオストーラヴァ。哨戒を始める』
返事は聞かなかった。こんな、自分を使うまでもない
――この時はまだ、そんな不満を懐いていられた。
しかし、六時間後。マーリエルが哨戒任務を別の魔導師に引き継いだ直後に、仮染めの平穏を終わらせる惨禍が巻き起こる。
† † † † † † † †
そして、哨戒を終えた時。
父であるアルドヘルムに呼び出され、息吐く間もなく城に向かわされた。
白亜の城である。発掘闘技都市の闘技場、その更に上層に築かれたものだ。
なぜ今日に限ってこうも矢継ぎ早に駆り出されるのか。マーリエルの不満はやがて年相応の癇癪に近づいていき、彼女を不貞腐れさせた。
その卓越した才能故に、王国と帝国が共同して設立した魔導師育成機関、“カウィンハース訓練校”に幼くして入学させられ、物心がついて以降はずっと対魔戦線で過ごしてきた彼女の情緒は幼く、未熟だった。だからこそ、マーリエルの懐いた不満は彼女の心を刺激し――だがそんな子供らしい感情の発露は、この世界の現実に閉ざされる。
「航空騎士マーリエル・オストーラヴァ中尉、招集に応じ参上しました。閣下、私に何用でしょう」
「ああ、よく来てくれた。疲れているところ悪いが、マリアに頼みたいことが」
ある、とは言われるのを待つことが出来なかった。超人である少女の鋭敏な感覚が、彼女に直感的な危機を報せたのだ。
聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚、魔力を感じ取る“空覚”の六感を総括した直感だ。それが父とはいえ上官でもあるアルドヘルムの言葉を遮らせた。
「っ……? 待って下さい。今、何か――」
もう言葉は間に合わない。本能としか言えないものに導かれ、マーリエルという戦闘単位が機能する。
咄嗟だった。膨大な魔力反応が至近距離で発生したのを感じるや須臾の判断で――いや、これまでの戦闘経験から来る本能的な反応で、マーリエルは瞬時に術式も編まずに全力で魔力を放出した。
形のない黄色い魔力の渦が、自分と間近にいた父アルドヘルムと従者のバークリーを包み込んだ。それ以外に守る余裕がなかった。
瞬間、城の全体が劫火の舌に呑み込まれる。そして上空から、摂氏4000℃を超える火焔の槍が無作為に投じられてきた。
凄まじい熱量にルーンの刻まれた石の壁も、床も、総てが溶解していく。人間も例外ではない。防禦すらできなかった参謀達は骨も残さず焼滅し、マーリエルの張った急造の魔力防壁は数秒と保たずに破られ、少女の肢体を壮絶な炎が焼き尽くしていった。
地獄の釜に放り込まれるよりも、なお苛烈な滅却の火。それが一瞬にして少女の神経を焼き払う。
「ぁ……」
声が漏れる。いつの間にか倒れていた。
燃え盛る参謀会議室を見上げ、マーリエルは全身に火傷を負い重体となっている二人の男に手を伸ばす。二人の口元に手を翳し、呼吸の有無を確認する。
「生き、てる……」
それだけを確かめ、束の間安堵した。
しかし、安心して終わりではない。アルドヘルムとバークリーに意識がなかった。
マーリエルもまた衣服は焦げ落ち、全身は醜く爛れ、手入れに気を遣っていた髪も焼失している。彼女こそが一番の危篤状態だった。
だのに、意識がある。超常の生命体であるマーリエルは力なく仰向けへ態勢を変え、か細い息を吐き出した。
「ベレス、ふぉーど……ほじょ、おねがい」
『了解』
演算補助宝珠は壊れていない。返答があった。そのことに勇気づけられ、マーリエルは全身の肉体を気体化する。
自身の魔力形質はイエローカラー。風、雷、土の属性に長けたもの。総身を風に溶かし、改めて肉体を再構成していった。緻密にして精緻な魔力制御が成せる離れ業だ。
時間にして五秒。僅かな間で肉体を新生し、全くの無傷の状態で立ち上がったマーリエルは、周囲の燃焼する物体総てに魔力風を起こして掻き消すや、己の白い裸身に魔術鎧を装着する。
「
頭部を覆う兜のバイザーを下ろした時には、マーリエルは状況を理解していた。
奇襲を受けたのだ。誰に? 決まっている。
――
虫の息のアルドヘルムとバークリーを抱え、黄銅の魔導騎士は動き出す。
芽生えてきた幼い心の芽は、戦闘に意識を切り替えた少女自身によって踏み潰された。
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