貴婦人は希求し、少年は危急の時を迎える





 其処はこの世のどこにもない精霊の住処。

 木々の隙間から差し込む木漏れ日が、湖の畔に佇む静謐さを映えさせている。


 揺れた枝葉の擦れる音が、吹き抜ける風を清浄に着飾らせ、緑の森の中心に吸い込まれるようにして流れていっていた。

 風に誘われるように奥へ進めば見えるだろう。豊穣の地に埋まる戦士の骨が、並み居る樹木を支える兵士の夢が。それはつわものどもが夢の跡。人の思念が最後に行き着く集積地。森の深奥に在り、煌々と煌めいているように見えるのは、悍ましいほどに眩い祭壇である。輝かしい光輝の聖壇は、例え万物が腐蝕し果てようとも、何物にも侵せぬ貴き煌めきと共に在り続けていた。


 それは朽ちず、穢れず、曲がらずの黄金。その至高の輝きは一振りの剣を象っている。祭壇に突き立ったその剣には善も悪もなく、無繆に在るだけの輝きでしかない。

 比類なきひじりであっても、太古の聖人が振るいし聖なる遺物であっても――剣は所詮、剣でしかないのだ。即ち敵を屠り、滅ぼすためだけに存在する兵装なのである。論ずるまでもなく、当然の摂理としてこの剣は剣であるが故の呪いを背負っている。敵を滅ぼし尽くし、絶滅させる使命を帯びているのだ。


 しかしその勝利する呪いを担う者は、今以て不在のまま――


「――の待ち人は未だ現れず。幾星霜はつるとも、は一心に求むるのみ」


 謡うように、聖なるつるぎに寄り添う貴婦人が唱えた。

 豪奢な金色の長髪を、無風の空に揺蕩わせ、波打つ髪が一糸纏わぬ肢体を包み込んでいる。

 幾千幾万の歳月を経て、不意に目覚めたのは隔絶した美貌を持つ女。焦がれるように虚空へ手を伸ばし、陶然と囁いた。


の求むる君は何処に在りや。欲する指は無を掴む。待ちて希望すれど、光明は絶えて久しい」


 そこではた・・と、天与の美は我に返る。いかぬ、と。

 孤独に耐えかね、つい独り言が増えてしまったと自覚するだけに、自身の言葉が虚しく響いているのが寂しかった。

 貴婦人はゆらゆらと首を振り、その胸中に溢す。


 ――しかして兆しは視えた。で、あろう? 我が君の“聖剣”コールブランドよ。


 黄金の魂、挫けぬ精神。その持ち主こそが昇華せし者。

 資格を有する者はこの世に生まれず。待てど暮せど現れぬ所以は因果にあり、この世に再臨する望みはついぞ持てなかった。故に女は加担したのだ。忌まわしき魔の王、魔の神の帰還を期して脈動する者の企みに。

 人の王にして人の神である、太古の主の敵対者に塩を送った。――全ては勝利のため。万物の霊長足り得る魔の者らを滅ぼして、人のための世を開闢するために。そして何よりも、勝利への礎となった黄金の君の選択が、決して誤りではなかったことを証明するため。故に堪え切れず女は言祝ぐのだ。甲斐があったと盲目に信じ込んで。


「資格ある者に艱難辛苦のあらんことを。練磨され、昇華せよ。至れずに砕けるのであらば、の求むる者ではなかっただけのこと」


 ――ひたすらに過酷な道を征け。そしてその旅路に災いあれ! その生に呪いあれ! 嘆きに溺れ、苦界をのたうち、それでも折れずに見事此処へと至るがいい。


は求むるのみ。最果ての祭壇にて汝の到達を待とう」







  †  †  †  †  †  †  †  †







 鍵盤に指を這わせる。思い出すのは、異なる世界の少女のこと。傍らで楽しげに弾く彼女の演奏を覚えている。


 何度一緒にヴァイオリンを弾かされたか。それを思い出して自分に投影すれば、一応形になる程度にはピアノを弾けはした。

 ピアノは“スタインウェイ”だ。曲はマーリエル・ベレスフォードの好んだベートーベン作曲の“エリーゼのために”。耳で聴き、目で見ていたのとは響きが違う。この瞬間に僕は早くも悟った。

 一応の演奏はできる。練習すればもっと巧くやれる。けれどピアノは僕の肌に合わない。聴くのは嫌いではないけど、弾く側に回るのはどうも違う。これならヴァイオリンの方がまだ好きだと言えた。何よりピアノの調律が微妙に狂っている気がしてならない。


 ジッと僕を見詰めるのは、友達の少女と瓜二つな――この世界のマーリエルだ。僕よりよほどピアノが巧かった少女によく似た彼女に、こんな拙い演奏を聴かせるのは恥ずかしくはあるけど。

 約束は約束だ。一時の気の迷いとはいえ、一度彼女にピアノを教えると言ったのだから、それを違えるようなみっともない真似はしない。

 お手本と言えるほどに立派なものではないが、とりあえずの見本にしてあげるために黙々とピアノに没入する。けど弾けば弾くほど自分の拙さを克明に浮き彫りにしていくかのようで、知らず赤面しつつあった。堪らなく恥ずかしい技量だ。早く終わらせたいと焦ると余計に下手になる。

 こんな恥晒しをするぐらいなら、ピアノを教えてやれるなんて見栄を張るのではなかったと後悔する。やがて一段落がつくと僕はフッと息を吐いて手を降ろした。


「こんな感じです。分かりましたか?」


 教官は丁寧語で話すものだと、マーリエルが言ってきたから仕方なく敬語を使っている。生憎と丁寧語と敬語の違いはまだよく分からないのだが。

 しかしそんな僕の努力に、彼女はにべもなく言った。


「全然。やっぱり地道に練習しないと駄目みたいね」


 そんな馬鹿な。ヘタクソの演奏とはいえ、こんなに分かり易く弾いていたのに。眉を落とすとマーリエルは微妙に笑った。


「その感じ分かるわ。『なんで分からないの?』って思ってるんでしょ」

「ん、ああ……」

「そんなものよ。貴方、音楽ではかなり感覚派みたいね。私も魔術はほとんど感覚でやってるわ。だから教えようとしても難しい。できて当たり前って感じてるんだもの」


 感覚? あんな難解なブロックを瞬間的に組み上げるような術式を、なんとなくの感覚でやれるものなのか?

 その疑問が顔に出ていたのかマーリエルは笑みを深める。苦笑いだ。マーリエルは呟くように繰り返した。


「何もかも、そんなもの・・・・・なの」

「……」

「――緊張してる?」


 何が、なんて阿呆な反駁はしない。言うまでもないことだからだ。


 緊張しているのかと問われれば、無論している。こんな時に緊張しないほど僕は鈍感じゃない。図太くもない。特別試合の日程が決まった日は、そのままの流れでマーリエルにピアノを教えられる気分ではなかった。当日になってピアノに触れる気になったのは、ある種の現実逃避であるのかもしれない。

 人を殺せと言われた。殺せないなら死ねと言われた。問答無用の命のやり取り、こんなものを、特別試合と称して一ヶ月前から企図していたというのか。

 言いたいことはある。文句は山のようにあった。しかし無為だ。逆らえる立場ではない。僕はピアノを前に腰掛けたまま、白と黒の鍵盤を見下ろした。


「逆に聞きますが、マーリエルはこういう時に緊張しないのですか?」

「そうね……人を相手にした戦争を私がはじめて体験したのは十一歳の頃よ」

「……?」

「後方国家は私達の奮闘のお蔭で、魔族との戦争とは縁遠い。直接的な戦火を被っていないせいか、人間同士で争い覇権を競う愚かさを露呈している。その小競り合いの火の粉が私達の国に降り掛かったから、振り払うために出動したの。その時に私が殺めた人の数はおよそ一千。ざっくりとしか数えてないわ」


 一千人を殺した。唐突に告白するマーリエルに、しかし僕はぽかんと口を半開きにするしかない。

 現実感のない数字だった。魔族との戦争と縁遠いのは僕も同じで、そもそも戦争自体テレビの報道で僅かに齧る程度。対岸の火事でしかない。僕のそんな反応に、マーリエルは肩を竦める。

 

「私が怖い? 大量殺戮者だって軽蔑するかしら」

「いえ……正直実感が湧きません」

「そうよね。いきなりそんなことを言われても、実感なんて湧くわけがない。でも当時の私は幼いなりに悩んだわ。人類同士でこんなことをしていいのか、同じ人間を殺してもいいのか、そんな余裕はないはずなのに――そんな時、上官に言われたの。“相手を同じ人間だと思うな。魔族の中には人型のタイプもいる。これは人型の魔族を前にした時に躊躇わないための実弾演習だと思え”って」

「……」

「それでも躊躇いを捨てきれなかった私に、その人は言ったわ。“お前が敵を殺さなければ、隣にいる仲間が殺されるかもしれない”とね。部隊のみんなは、とてもいい人達だったから……私のせいで仲間が死ぬのは堪えられなかった。だから引き金を引くのに躊躇いはしなくなったわ」

「……その後は?」

「実戦の最中も、その後にも罪悪感はそれなりにあったけど、それだけね。むしろホッとしたわ。自分が死ななくて済んで、仲間を死なせなくて済んで」

「……」

「貴方の場合は死にたくないから殺す。それでいいの。罪だと思う必要はないわ。だって貴方の立場ではそうするしかないんだから。悪いのは全部私達……この都市の全て。貴方は悪くない。だから自分が生きることだけに集中すればいい」


 これは……元気づけてくれているのだろうか。

 僕は時計をちらりと見る。午後の十二時だ。後三十分後には、待合室に移動していないといけない。

 昼食は食べていなかった。激しく動くだろうから、備えるために抜いておく。そんな考えとは別に、単純に食欲がないという事情もあった。


「マーリエルは」

「……?」


 無意識に口を衝きそうになった言葉を慌てて呑み込む。すると彼女は嘆息した。


「これも前に言ったわね。言いたいことがあるなら言ってよ」

「……」

「早く。時間はあまりないわ」

「……君は、私に死んで欲しくないんですよね?」


 馬鹿な質問をしている。要らないことを訊こうとしている。自覚はあった。だが止められなかった。


「ええ」

「それは私が……研究対象だから? 有益で、価値があるからですか?」

「そうよ」


 少女は一切の嘘偽りなく肯定する。

 ああ、そうだろう。そうでないとおかしい。僕は乾いた声で嗤う。


「私が貴方に死んでほしくないのは、まだ研究が終わってないから。私が貴方に親切にするのは、研究対象との関係を険悪にするメリットがないから。一言で言えば任務だからでしかない。それ以外は余分よ」

「……」

「自明よね。でも一ヶ月も付きっきりだったせいで、それなりに情は湧いてるから悲観することはないわよ?」

「――それが本当なら、私を逃してはくれませんか」


 泣きそうな目で、少女を見る。


 何もかもを投げ捨てて、逃げてしまいたかった。

 試合形式という逃げ道もない、生きるか死ぬかしかない道を走らされる恐怖は耐え難い。逃げられるなら逃げてしまいたかったのだ。

 でも自分だけで逃げられるとは思えなかった。だから藁にも縋る思いでマーリエルに言ったのだ。答えは分かりきっているのに。


「無理よ。脱走の幇助なんて私にはとてもできない。だって私、軍人だもの。命令は何よりも優先するわ。私自身の感情よりもね。だから情に訴えても無駄だと理解して」

「……」

「ねえ、アルトリウス。これは避けられない試練よ。なら越えていきなさい。そして越えた後に、過酷な試練を与えた存在がどうしても許せなかったのなら――復讐してしまえばいいの」

「……復讐?」


 マーリエルの立場から出ていい言葉ではないように聞こえ、それが意外だったから僕は思わず反駁する。それに少女は頷いた。


「ええ。戦い続け、勝ち続け、生き続けるためのモチベーションを保てるなら何をしてもいい。その結果、私と貴方は敵対するかもしれない。それでも立ち続けるための意志を強く持つの。……敵対したら、私は容赦なく貴方を討つ。貴方もそうすればいいわ」

「……君は、優しいですね」

「優しくはないわ。甘いだけよ」


 その違いがよく分からず僕は苦笑した。

 逃げられない、避けられない試練。なるほど、彼女の言う通りだ。それなら確かに越えていくしかない。また教えてくれた。

 時間は後僅か。マーリエルのお蔭で心が軽くなった気がする。僕は軽く要求してみた。


「一つお願いがあります」

「なに?」

「マリア――と。君を呼ばせてください」


 予想外の言葉だったのだろう。少女は目をぱちくりとさせ、要求の真意を理解すると苦笑した。

 仕方なさそうに細い息を吐き、首を左右に振る。そうして少女は冗談めかして言うのだ。


「なら貴方のことをアーサーって呼ぶけど。それでいい?」


 気安く呼ぶなと拒まず、受け入れてくれた。強張った顔で僕は微笑む。


「マリア。……どうか祈ってほしい。私が勝つことを」


 僕が立ち上がり、ピアノから離れるとマリアは可笑しそうに僕を見た。

 そして彼女は僕を勇気づけてくれる。僕は奮い立ち――


「私、無神論者だから祈らないわ。だって無駄じゃない。祈るまでもなく、勝つのはアーサーなんだから」


 ――絶対に勝とう、と自分に誓った。







  †  †  †  †  †  †  †  †







 すっかり着慣れた魔導十一式バトル・スーツ。魔導九式アーミー・ブーツ。その上に、以前の試合での反省点を踏まえて全身甲冑フリューテッド・アーマーを着装した。

 抜き放った長剣の刃を灯りに照らし、数秒見詰める。肉体を強化していないと、ずっしりとした重量感を手に感じられた。これが武器か、と。当たり前の事実を再認する。この重さが人の命を刈り取るものだとするなら、人命のなんと軽く儚いことか。不条理さを噛み締め、鞘に長剣を納めると腰のベルトに差す。

 主兵装には槍の穂先を片刃の剣状にした長柄武器――日本で言えば薙刀、中世欧州で言えばグレイヴと呼称される武器を選んだ。斬る、突く、薙ぎ払う攻撃が有効に扱えるのが大きい。吟味したが、刺突よりも薙ぎ払う方が扱い易いと個人的に感じていたから、槍よりもグレイヴの方が好みに合った。


 依然として、覚悟が決まったわけではない。恐怖はまだある。


 日本のサブカルチャーで、殺す覚悟云々というものを見た覚えがある。しかし僕はそんなものを持てずにいた。そして持てないまま、きっと相手を殺す。いや、殺さないといけない。その先にあるものを意識して想像せず、敢えて何も考えないままその現実に直面する。

 覚悟なんて要らない。必要なのは“死にたくない”という思いのみ。殺したいから殺すのではない。覚悟があるから殺すのでもない。僕が死にたくないから、死という理不尽を他人に押し付けるのだ。それでいい、それだけでいい。後悔するのも、しないのも。ここを越えて、生き残って初めてやれることだ。


 首には魔力波共鳴式魔導管制杖――演算補助宝珠のマーリンが提げられている。大きな宝石は、詰まっていた息を吐き出すようにして点滅した。


『――やあ、マイ・マスター。意地汚く生き残る覚悟はオーケー?』

「いきなりだね。今までどんなに呼び掛けても反応すら寄越さなかったくせして、開口一番の台詞がそれかい?」


 恨めしげに文句を言う。マイケルとの試合からこっち、何度も起動して話しかけていたのに、マーリンは一言も喋らなかった。魔法の訓練には幾らでも付き合ってくれていたのに、その時ですら喋らなかったのだ。

 マーリンは男とも女とも取れる声で、感情豊かに応じてくる。


『だって君の隣にいつも金髪の女の子がいたろう? わたし、あの子が怖くてね。無口で忠実なAIに徹してたんだよ』

「は?」

『や、困ったものさ。本物の天才、天才の中の天才って評判は遠くの国まで鳴り響いてるけど、あれはガチだ。マジだ。神様のエコヒイキ全開の天才ぶりだよ。下手に中身を覗かれたら、わたし存亡の危機だった。何せバグだらけだからねわたし』

「……」


 何を以て天才だと判断しマリアを恐れているのかは分からないが……そうか。バグだらけなのか、マーリンは。なるほど、確かにこんな性格のインテリジェンス・デバイスが世間に出回っているとは考え辛い。

 自白されてしまったからには至急メンテナンスに出すべきかもしれないが、残念なことに僕はどうにもこの困ったちゃんが気に入っていた。肌が合うし馬が合うと感じてしまっているのだ。だから見逃す。必要な機能に不備がない限り。

 しかし所有者である僕が、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるというのに、どうしてこう緊張感に欠けるのか。物申すべきか一瞬考え、言ってみるかと思った。


「マーリン。調子よくペラ回してる所悪いんだけど、私はこれから命を懸けないといけないんだ。なのに扇の要である君がそうも軽薄なのは見過ごせない。君は一体何を考えてるんだい?」

『え? 何も?』

「……」


 即答で返され、僕は思わず鼻白み口を噤む。


『だって考えるまでもないよ。マイ・マスターは本当に恵まれてる。“天稟増幅グロウス・ブーステッド”なんて異質特性があって、優れた魔力形質と人間的に優れた精神性を持っている。超一流の魔導騎士が専属で付いて鍛えてくれた上に、更に言ったらわたしまで付いてるんだ。それらを抜かして闘技場の登録者にされただけの、条件が同じ相手に遅れを取る要素は皆無だよ。この間のような事故があるか、相手が実は歴戦の勇士でした――なんてことさえなければね』

「……油断はしない。慢心もなしだぁね。私はまだ、君の言葉を鵜呑みにできるほどの自信はないよ」

『なくていい。そんなもの、後から勝手についてくるから。ああ、心配しないでも不測の事態があれば支援ぐらいはしてあげるさ。それでも負けるようなら、君はとんでもない無能だ。お願いだから同じ轍を踏んで失望させないでね』

「フン、勝手に期待しているといいよ」


 生意気な相棒に皮肉げに返してバイザーを下ろす。視界は狭まるが、問題ない。魔力波長を発していればそれがセンサーになって、その領域内の動きを知覚できるのだ。視覚だけに集中せずにいれば、事実上“死角”なんてものはなくなる。

 マイケルとの試合からこれまで、僕は専ら体を使った技術の習熟に励んでいた。マイケルにしてやられた原因は、顔見知りだったから躊躇ってしまったというのもあるが、単純に接近戦に対応できるだけの技量が僕になかったからだ。魔法の訓練も欠かさずにやったが明確な弱点を埋めず、魔法ばかりを鍛えるのはナンセンスである。たかだか一ヶ月で魔道位階に到達できると踏めるほど僕に才能はない。なら実力不足を補うために、武器の扱いと体術を学ぶのは当然の措置だ。


 時間だ。深呼吸をして歩き出す。


 待合室から闘技場へと続く通路は一本道だ。一歩を踏み出す度に鼓動が強まっていくようで、拳を握り自分の額に押し付ける。

 落ち着け、お前は今から一人の男を殺すんだ。冷酷に、冷徹に、無慈悲なまでに容赦なく。怯えるな、怖じけるな、肚を据えろ。僕は悪くない、相手も悪くない、何もかもこの世界が悪い。

 ハァァ、と吐息を一つ落とし、汚れの一つもない白い通路を進んでいく。やがて目の前に大きな門があるのが見えてくる。鋼鉄の柵で行く手を阻んでいた。

 この先に進めば後戻りはできない。否、元より退路はない。過酷な戦いへの一本道を、一方通行で突き進まねばならないのだ。その道より蹴落とされれば死、あるのみ。故に、


「It’s a piece of cake. (簡単さ)」


 ――蹴落とせばいいんだろ。いいさ、やられる前にやるだけだ。


 震える脚を殴りつけて無理矢理震えを止める。歯を食い縛って、グレイヴを握り締めた。さあ行くぞと吼えねばならない。

 鋼鉄の柵が落ちた。地面の中に格納されていく。

 そして、其処へ辿り着いた。もはや自分の部屋も同然の闘技場へ。飽きるほど見た仮想空間と全く同じ場所へと。

 そこではた・・と気づいた。自分に向き合うのでいっぱいいっぱいだったから気付けなかったが――


「……え?」


 そこには誰もいなかったのだ。溢れんばかりの観客がいない。審判を務める男の姿もない。必然、騒がしい歓声と、不愉快な煽りも聞こえてこなかった。

 呆気に取られて観客席を見渡す。人っ子一人いない。伽藍と広がる無人の闘技場――悪寒がする。僕は何をさせられようとしているのか。咄嗟に四方八方に視線を走らせ、貴賓室に目を向けた。

 そこに、彼らはいた。初老の紳士風の男、ダンクワースと。鳶色の髪と瞳を持つ幼い少年が。ダンクワースは以前と同じように、喜ばしげに、しかし悲しげにこちらを見ていて。少年は奈落のように昏い瞳で眼下の光景を眺めている。

 スッ、と顔から血の気が引いた。我知らず後ずさる。気味の悪い幼い少年が、僕を見ていた。ダンクワースはその少年の頭に片手を置く。愛おしむように子供の髪を梳いてやっていた。


 ――な、なんでアイツらだけ……?


 他に人はいない。どうしてあの男と子供だけがいるのだ。特別試合……“特別”試合とは、ただ生死を別けるだけのものではないのか? そうなら、観客があの二人だけというのはどういう了見なのだろう。

 戸惑いながらも、拭いきれない違和感の正体を探るべく思考を回す。……回そうとして。


 西門の鋼鉄の柵がスライドし、地面に消える。そこから一人の全身甲冑の男が歩み寄ってきた。


「――」


 漲る殺気が、僕を射竦める。……殺気なんて抽象的なものに圧倒されるなど現実的ではない、今まではそう思っていた。しかし甘かった。

 全身を凝固させるような、全身の毛穴に入り込む毒ガスのような、威圧感。冷や汗が流れる。これが“殺気”って奴なのかと、実感として理解する。腹に力を込めて気構えを堅持した。


 余計な考え事は後だ。今は目の前のことに集中する。


 全身を強固な甲冑で固めた男は、右手にショートソードを。背中にラウンドシールドを負っていた。そして、左手には――マシンガンを握っている。マーリンが警告を発した。


『……来る! 構えるんだマイ・マスター! 開始の合図はないみたいだよ!』

「!? ――チッ、マーリン! 誕生ortus!」


 男が暗い霧のようなものを全身に纏う。魔力形質、ブラックカラー。銃口があげられ、その奈落のように黒い穴が僕を睨んだ。即座に身体能力を強化する。


 発火炎マズルフラッシュが閃き、銃声が轟く。開戦だ。







  †  †  †  †  †  †  †  †







 弱音は全て、捨てていけ。








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