人の不幸は蜜の味という、しかし彼は笑わない
僕の尊敬する文学者にして教育者、政治家でもあるジョージ・バーナード・ショーはこう言った。「Life isn’t about finding yourself. Life is about creating yourself. (人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである)」と。
昔から賢しらげで可愛げがないと言われていた、小学生の頃の僕はこれに対してひどく感銘を受けた。なら僕は、僕という人間を創ろうと。きっと誰を前にしても恥ずかしくない素晴らしい大人になろうと。
――結果として僕の人生は、僕の思い描いたものとは異なる自分を創りあげていく。望むと望まざるとに拘わらず。
† † † † † † † †
「順番に名前を言いなさい」
闘技場に選手、あるいは探索者、剣闘士として登録される者は通常の通路は通らないものなのか。白亜の壁が横に裂けて入った道は、三列になって進める程度の広さだった。
中は異様なまでに明るい。床はガラス張りらしく、足元にある電灯が下から通路を照らしている。それ以外に電灯はないというのに、どこにも人間の影は伸びていなかった。あたかも自分の影を亡くしたかのような錯覚に陥り、その不気味さに肌が泡立ちそうで――内部通路は外壁と同じ穢れのない白亜一色で、気が狂いそうなほどに白かった。
本当に何も。何もない道だったのだ。人数分の足音だけが空しく、無機的な響きで
闘技場という場の印象に反して、フロントらしき場所は静謐としている。物音一つなく、審判を下される裁きの間のようだ。その広間の中心にはホテルのそれに似た黒檀のデスクがあり、内側に革張りの椅子が三つ並べられている。さらにその背の方には白く細い柱が立っていた。スペースとしてはちょうど人が四人ほど入って、やや手狭に感じるであろう程度の――もしかしてエレベーターだろうか?
コールマンが辺りを見渡すと、真っ先にフロントの四方に噴水があるのを見つける。透き通るような薄紅色の水が際限なく噴き出し続け、それがまるでこのダンジョンの血のように見えた。その薄紅色の水は床に敷き詰められた四角いタイルの隙間を通るようにしてフロント全体に行き渡り、受付のいる方へ流れていっている。
そういう時間なのか、コールマン達以外の姿は見えない。視線をサッと周囲に走らせても、出入り口になる玄関らしきものは見当たらなかった。
もしかしてと背後を振り返ると、通ってきた通路が分厚そうな白壁に閉ざされていくではないか。最後尾の兵士が右手を掲げて何事かを短く呟くと、彼の手の前に黒い幾何学的な文字が浮かび上がり、それを追い払うように手を振るうとその黒い文字が壁面に飛んでいって、壁に触れると音もなく閉ざされていったのである。
魔法、と口の中で呟く。実際に魔法行使の瞬間を目撃すると、少年の好奇心的な興奮よりも諦念を覚える。魔法使いではなく兵士も魔法を使えるほど一般的であるのかは分からない。しかしあの調子では、ここから出るには魔法が使えないと話にならないのだろう。いよいよここから逃げ出すのは不可能というわけである。このフロントに出入り口が見当たらないわけだった。あの魔法を使ってここから出ていくのだろう。
しかし、と思う。それは闘技場というシステムからすると不適格だと思った。闘技場には観客がいるはずだろう。観客席があるというのだから、相応数の見物客は必ずいるのだ。ではその客はどこから出入りしているのか?
わざわざ客や闘技場の勤め人が、自分で魔法を使って壁を開閉させるわけではあるまい。受け付け時間内は壁面を開放しているというのもおかしな印象を受ける。なぜなら――どちらかというと。まるでここは、客を受け入れるための場所ではないような気がするのだ。
何せここは、フロントというには何も無さすぎる。言語化できる直感ではなかったが、闘技場の関係者だけが詰めている場所である気がした。
コールマンが観察している間に、切り捨てられた村人達の先頭の列が受付席に到達していた。村人達を取り囲む兵士達が一斉に兜を脱ぎ左脇に抱え、指先をピッと伸ばした右手を胸の中心に当てている。同時にやや頭を下げてもいた。
それは、ダンクワースという紳士に向けたものよりも遥かに敬意に満ちていて……最敬礼であるように見えた。ただの受付じゃないのか? とコールマンは思う。
受付にいるのは四人の男。こちらに体の正面を向けているのは一人。その一人は一滴の血も通っていないような、青白い肌をしている。神経質そうな細面の男だ。
青い宝石のような瞳は冷めきっている。銀糸のような髪をオールバックの形に固め、飾り気のない機能的な黒衣の上に白いマントを羽織っていた。白と黒の、明暗がくっきりと別れた人物であるといった印象を懐く。
冷酷な役人といった風情の彼は、早速というふうに切り出した。順番に名前を言いなさい、と。威圧するでも、居丈高に命じるでもなく。淡々と。
村人は反発心も込めて口を噤み、彼を睨み付ける。瞬間、凄まじい怒気が兵士達から発された。名前を言えと告げられた村人だけでなく、コールマンを含めて村人全員がぎくりと身を強張らせる。それに青白い顔のまま、白黒の男が片手をあげた。
「威圧してはいけない。無意味だ」
あくまで平静な物言いに、剣闘士風の男達は渋々といったように怒気を納めた。
なんだ、その上位者みたいな振る舞いは……。もしかしてこの男はと、コールマンは漠然とした予感を懐く。
「さて。名前を言ってもらえないと、諸君の名前は私の一存で決められることになる。以降はその名でこの闘技場では呼ばれることになるだろう。それで構わないというなら、口を閉ざしているのも一つの選択肢だ。それぐらいの自由は認めよう」
何が自由だ、とユーサーが吐き捨てた。エイハブを筆頭に反感が露骨に村人達から噴出している。
表情にさざ波一つ立てず、白黒の男は銀髪を撫でた。
「反骨心が高いのは結構なことだ。生命力の強さを表現しているようにも見える。では選択肢を提示した上で、どちらを選ぶか決める判断材料を進呈しよう。自己紹介だ。私の名はアルドヘルム」
そこで一旦、白黒の男は煽るように口を閉ざした。コールマンはこの時点で悟った。抑えきれない激情に、少年の碧眼が燃える。目敏くアルドヘルムはコールマンに気づいた。
自己紹介だと、と村人達は苛立つ。その苛立ちこそはまさに火種。激しく燃えるための燃料を投下されたように、苛立ちは激発する憤怒に切り替わった。
「――アルドヘルム・ハルドストーン。諸君に分かりやすく告げるなら、私が
「テメェッッッ!!」そう叫んだのは、ディビットの父だ。列から飛び出して、アルドヘルム・ハルドストーンに向かって走り出そうとした。しかし、一瞬にして兵士に取り押さえられた。床にうつ伏せに倒され、ディビットの父は背中に腕を回され拘束される。憤怒も露に彼は叫んだ。よくもアマンダを殺したな、糞野郎ッ! と。
彼を取り押さえていた兵士だけでなく、この場にいる全ての兵士の目の色が変わった。顔を真っ赤にして怒りを感じているようだ。糞野郎呼ばわりがお気に召さないらしい。騒然とする村人達に、兵士達は腰に提げてある剣の柄に手を掛けた。
一人、コールマンだけが困惑していた。
無論怒りはある。殺してやる、といった不穏な殺意が腹の底には渦を巻いていた。
しかし疑問がある。何を考えて伯爵が――それもこの領地のトップがこんな場所に直接出向いている? しかもわざわざコールマン達の怒りを煽るように名乗りまでして。
何を考えている、というのが一番の疑念だ。もしかして、こうして怒り狂う村人を見て悦に浸るような外道なのかと思うも、そんな歪んだ悦びは微塵も感じられない。
どこまでも理性的に。果てしなく機械的に。しかし……どこか甘く、合理さに欠いた人間性がある。ディビットの父をはじめ、ユーサーやエイハブ、妻や子を持つ者達の憤怒の叫びを聞いて一瞬、目を伏せたのだ。それは――罪悪感を感じた人間特有のそれであると、コールマンは感じた。だがただのポーズかもしれない。父に叱られる度に、コールマンは反省もしていないのにそんな態度を取ることがあった。
「名前を教えてほしい。諸君の戸籍から割り出せば名前だけは分かるが、顔と名前が一致していない。名簿に記載する必要があるのもそうだが、私は諸君の名前と顔を終生忘れないだろう。我が領、ひいては人類の損益のために切り捨てられた諸君を、私は決して忘れはしないと約束する」
真摯にアルドヘルムはそう言った。さらに深刻化する村人達の怒りに、コールマンは思う。わざとやってるのかコイツはと。コールマン自身も怒気が毒となって脳漿が沸騰しそうだった。誰もが眩暈すら感じている。
「代わりと言ってはなんだが、諸君も私の名と顔を覚えておくといい。この私こそが諸君の村を焼き、諸君の老いた父母と妻子を殺めた男だ。我が王国とエディンバーフ領のため、人類の存続に寄与させるために、先がないと諸君を見捨てた男だ。もしも覚えておけばあの世で私を呪う、私によって切り捨てられた人々の怨嗟が、あるいは諸君を助けてくれるかもしれない」
名前を教えてほしいと、もう一度だけアルドヘルムは言った。今度は村人は名乗った。忌々しげに、刻み込むように。
村人の名を他の受付の三人が名簿に記していた。アルドヘルムは黙って聞いている。そして、
「エイハブだ。テメエ、ぜってぇに赦さねぇからな……!」
「ユーサーだ。地獄に落ちろ糞野郎」
エイハブとユーサーが名乗り、唾でも吐きつけそうな表情で悪態を吐いた。本当なら天上人である伯爵に対する暴言は許されない。しかし彼らにはもう、失うものなど自分の命しかないのだ。ならば何を恐れる必要があるという。
アルドヘルムは一々頷いている。その怨みごと覚えるつもりなのか。しかし、果たして本当に記憶する気なのかとコールマンは半信半疑である。彼には別の思惑があるのではないかと疑っていた。
だがその疑念に答える気はアルドヘルムはなさそうだ。エイハブとユーサーが列から離され、名簿に記された者は受付の横へと兵士に並ばされる。次はコールマンが列の最前列になった。名簿がちらりと見える。文字も日本語で、コールマンはげんなりしそうだった。さらなる日本語の学習が余儀なくされると悟ったのだ。日本に留学していたならともかく、異世界に来てまで勉強は勘弁してほしいのが本音である。
少年は複雑そうに、なるべく低い声で名乗る。
「私は、アルトリウス・コールマンという」
「――なに?」
するとアルドヘルムは目を見開く。
予想外の反応にコールマンが胡乱な視線を向けると、伯爵は高貴な細面に思案の色を奔らせた。
ユーサーがおい、と声をあげる。少し慌てたような様子である。コールマンは首を捻った、何かおかしなことを言っただろうかと。
「苗字を持っている……? 貴族の落胤……ではないか。きみ、コールマンというのは何かな」
アルドヘルムのその反駁でコールマンは悟った。村の人間は苗字を持たないらしい。
苗字がないとか、いつの時代だよと内心顔を顰めたくなるも、コールマンは皮肉めいてジョークを口にした。
「わざわざ私の村を焼いてまで呼んでくれたようだからね。てっきりご指名いただけたと思い、
「ほぉ……」
はじめて、アルドヘルムは表情を変えた。
何を言ってしまってるんだ僕は、と自分を罵る。わざと不興を買うような軽率な物言いである。
しかし敢えて言えば育った土地柄、黒い冗句をついつい口にしてしまう癖が少年にはあった。他国の人間からすれば、悪癖とも言える。よしんば異世界であれば何をかいわんや、というもので、不愉快に感じられても仕方がないだろう。
だがアルドヘルムはその真逆で、面白そうに――それこそほんの微かに頬を緩めていた。
「愉快な少年だ。ああ、きみの登録名は"コールマン"としよう。自ら名乗ったのだから異存はないね」
物申したかったが、コールマンはそれを認めるしかない。コールマン少年としては敬語を使いたいのだが、日本語の敬語は難しい。変に睨まれる前に、なんとかアルドヘルムの目前から離れたい。この際コールマンという登録名に甘んじるしかなかった。
そそくさと受付前の列から離れユーサー達のいる列に向かうと、父は強めにコールマンの額をこづいた。
「バカかっ、ふざけていい所じゃないぞ!」
「……」
親愛の念を懐いている父親相手とはいえ、こづかれてしまえば睨まずにいられない反抗期。大人しめの跳ねっ返り少年コールマンは無言でそっぽを向いた。ユーサーはコールマンの年頃から、その態度を反抗期であると理解しているのか露骨に嘆息する。
それからややあって、村人全員の登録が終わった。ああ、これからどんな過酷な事態が待っているというのか。怒りによって竦みこそしないが、それでも不安を感じる。
アルドヘルム・ハルドストーンは、名簿に向けて指を這わせた。すると青白い光が点って、コールマン達の名前の文字列が虚空に浮かび上がる。万年筆で記された名前はそのまま名簿に残っていた。
虚空に浮いた文字列は、アルドヘルムが指先を自身のこめかみにあてると、その指揮に従うようにして青白い文字列が伯爵の頭部に飛び込んでいった。目を瞠るコールマン達をよそに、彼は元の冷淡な表情となって告げる。
「これで、諸君の名は私の中に残り続ける。これからの健闘を祈ろう。ああ、魔石を一人につき十億円相当発掘すれば、ここからは解放される。ここのシステムに関してはまた明日にでも説明があるだろう。励んでくれ、私のためではなく、人類のために。ひいては自分自身のためにね」
十億円!? と驚愕の声が上がった。コールマンもその声をあげた一人である。
――十億円……僕の国の通貨であるポンドでいえば、六百七十七万英ポンドじゃないか! 解放する気がないって言ってるようなものだ!
「Fuck off! I don’t want to see you again.
Will you just fuck off!!」
思わず攻撃的で口汚い、相手を不快にさせるためだけの罵倒が口を衝いて出た。
奇異なものを見る目を向けられたが、顔を真っ赤にして興奮するコールマンにはなんの痛痒も感じさせられない。
物珍しそうな目をアルドヘルムはコールマンに向けた。しかしもう用は済んだとばかりに背を向けて、受付席のすぐ後ろにある柱に手を触れる。青いパネルが現れ、それで移動先の階層をプッシュすると、柱はゆっくりと左右に割れた。
どうやら本当にエレベーターらしい。その中にアルドヘルムが一人で入る。すると、アルドヘルムは唐突に表情を変えて右耳を押さえた。
「――なに、ダンクワース侯が?」
魔法的な遠隔通信でも入ったのか、アルドヘルムは面倒そうに応じている。
慮外の相手だったらしく、冷徹だった表情が崩れていた。
「……正気か? 悪趣味極まる。……金の問題ではない、それは倫理的に受け入れては……息子のためだって? 確か彼の次男が感情のない、魂魄に欠陥のある"鏃の御子"だったか……感情がなければ力を発揮できないという……」
門が閉ざされていく。アルドヘルムは心底から不快げに顔を歪めているが、やがて私情を圧し殺したように目を閉じて――再び瞼を開いた時、その目がコールマンと合った。
彼だけではない。ディビット、エイデンにも向けられている。感情を完全に消した目が。
「――分かった。ただし相応の額はいただく。五十億だ、渋るようだと拒絶すると伝えろ」
門が、閉じた。柱が光り、青い燐光が上方へ昇っていく。あの光がアルドヘルムの位置なのだろう。
コールマンは兵士達に促されるまま、闘技場の寮室に案内されることになった。今後十億円を稼ぎ出すまで暮らすことになるという場所へと。ただ――アルドヘルムがどんな取引をしていたのか、無性に気になって仕方がなかった。
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