EP0×Ⅴ【奴隷島《slave×island》】

 波の音。揺れる鋼鉄の大地。噎せ返るほどの蒸気が視界を埋め尽くし、肌にじわりと汗が滲む。潮風よりも濃い臭気が脳に痛みをもたらす。草木一つ見当たらない人工の島。建ち並ぶのは黒々とした檻の山。ここに救いの手はない。


 奴隷島。売り物は全て人種。その事実に目眩がしそうだと、ユーナは思考を投げたくなった。




「はぁ!? 奴隷島に行きたいぃ!?」


 数時間前までは酔っ払いの身なりだった男、クルガンは素っ頓狂な声を上げた。癖が強い髪は油で整えられ、垂れ下がった青い目は三十路前の男性にしては色気を放っていた。白シャツに高級な素材を使ったベストを着ているだけで、一等宿屋の総合世話係コンシェルジュに相応しい姿に様変わりしていた。

 何故かノアと同室になってしまったユーナは、ベットに腰をかけながら様子を見守る。クルガンに人差し指を突きつけられたまま、平然とノアは頷くだけで肯定を示す。


「確かに俺なら紹介や斡旋もできるけどよ……兄貴が心配するぜ。浅からぬ因縁があるって話じゃないか」

「常連客の身の上話に関わってると痛い目を見るぞ」

「ただの常連客にここまでの口出しはしねぇよ。なあ、アンタの人生に不自由は何一つないだろう? なにもかも忘れて幸せになる道を選べるのに、どうして……」

「お前の言う通りだ。だが後悔が身を焦がす。俺の人生は清算だ。そのために生きるしかなかったんだよ」


 抑揚のないノアの声。しかし有無を言わせない強さがあった。クルガンもそれ以上は言葉が出てこないのか、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちする。服が海水に濡れたせいで宿屋から貸し与えられた簡素な寝間着に上着を羽織ったユーナは、温かいお茶を静かに飲む。

 どうにもこうにも話が中々見えてこないが、わかったのはノアが予想以上に顔が広いということ。そして憎まれ口を叩かれながらも、決して嫌われていないという事実だ。神父のレオナルドや目の前にいるクルガンにしても、彼らはノアの事情を断片的に知っているようだ。


「……わかった。明日の朝、奴隷島がラガディーンの沖を通りかかる。この宿屋に泊まっている大半の貴族様達を夜明け前に船へ乗せ、送り届ける予定だ。俺は……起こしに来ない。寝過ごしてくれるとありがたいんだがな」

「充分だ。それと出立前に渡したい物があるから、後で部屋を訪ねる」

「餞別の品はお断りだ」

「俺の死地は陰気くさい島じゃないさ。そう心配するなよ」


 ふてくされて素っ気ないクルガンに対し、からかい混じりに笑うノア。早起きしなくてはいけないのかと、ユーナとしては少しだけ憂鬱だった。長旅とはいかないが、港町での窃盗騒ぎで体は疲れているのに癒やす暇もないらしい。

 そしてクルガンが部屋を去った直後、ノアは部屋に置かれた水差しからコップに水を注ぐ。一口飲んだ後、彼は無言のまま動かなくなった。温かいお茶に満足したユーナとしても、取り立て話すことがないため多少気まずくなる。

 冷静に今の状況を考えれば、男女二人が旅行中に偶然同室になったに近い。年頃の若人ならば色めき立つのかもしれないが、片や十六歳の少女の姿をした百歳。もう片方は復讐鬼を名乗る年齢不詳の男。性格の相性も良好な方ではない。


 レオナルドの教会にいた頃は、周囲に子供達や穏やかなシスターを間に挟んでいたためにある程度の会話が途切れずに成立し、盛り上がっていた。思い返せば二人きりというのは今回が初めてである。

 一度重い沈黙が落ちてしまえば、話を切り出すのも難しい。そして話を続けるにもきっかけが必要だが、ユーナには思い当たる内容がなかった。気を紛らわすように両膝をすり合わせ、このまま寝てしまおうかとも窓の外を見る。沈み始めた黄色の太陽が街を鮮やかに染め上げている。

 街が一望できる部屋に案内されたことに感謝し、ユーナは窓へ近付く。海も貴金属のように輝き、砂浜がその光を取り込んでいた。花崗岩で作られた街並みは噂通りの銀色に光っており、視界全てが世界の色彩に溢れていた。


「……美しいだろう?」


 不意に声をかけられて、ユーナは目を丸くした。ノアも気まずかったのかとも考えたが、予想外にも穏やかな声音だった。


「ええ。とても……けれど、わたくしは」

「世界を美しいとは思えないのだろう? いや、正確には価値を感じない。違うか?」


 その通りだった。心を揺さぶられるほどの光景を見ても、奥の奥、芯が冷え切っている。一秒後に死神がやって来たとしても、受け入れられてしまうほど世界に未練がない。生きている価値を見いだせない。

 たとえ自分が死んでも世界は変わらない。美しい物も、醜い物も、平等に存在し続ける。足場がないまま浮いているに近い感覚。生へと縛り付ける渇望も湧いてこない。百年生きた。もう充分だった。


「よくおわかりで。長生きはするもんじゃないですわね。ある一定の地点から、忘れて、失い続けていくのですから」


 何時からだろうか。感動しなくなったのは。誰かの死に直面しても動揺せず、ああまたか、と慣れてしまった。周囲にいた笑顔の人々さえ、狭い箱の中で瞼を閉じて旅立ってしまう。得た物が、空っぽになっていくのだ。

 思い出すらも朧気に変わっていく。大好きだった人の声が記憶の中からも消えてしまった。なんとか振り返って、残っていた物を一つずつ丁寧に拾っていくと、自分の原点、誕生へと遡る。

 家族や両親を知っていれば、救われたのかもしれない。しかしユーナは違う。断絶された記録。断崖の如き無。抱えたのが全て零れていくのは錯覚かもしれないが、大きな不安だけが背中にのしかかって気持ち悪い。


 理解した瞬間、世界と同様に自身に価値を見いだせなくなった。


「……貴方は世界を美しいと思うのですか?」

「ああ。でなければ、煮えたぎる胸の奥が騒ぎ出す。世界に価値がないのならば、全ては無価値なのかと。俺は否を唱えるだけだ」

「貴方は失えない大事な物が多いのですね」

「ははっ、違う。俺自身は無価値でいい……だが、どうにも俺の周りはお人好しばっかりでな。奴らが無意味だと断じられるのは納得できないだけだ」


 その気持ちはユーナにも理解できた。レオナルド、シスター・レイチェル、ウィルマやアラハジャなど教会にいる子供達、彼らは懸命に生きている。生命力に溢れた姿を目の当たりにした。力強い生命を実感できるような日々を共に過ごし、感銘を受けたのも事実。

 冷えていた胸の奥に小さな火花が散った。燃え立つには薪が必要だが、教会で今も生活を続けているであろう彼らの顔を脳裏に思い浮かべるたび、何度も鮮烈な衝撃が胸を打つ。それは久しぶりの感覚だった。


「しかしだ。明日の朝に向かう奴隷島はその価値観を揺さぶる。覚悟しろ、共犯者。頭から沈められるような悪辣さが蔓延した場所へと俺達は足を踏み入れる」

「誰が共犯者ですか。それにしても詳しいのですね」

「……通過点の一つだからな」


 それ以上は語らず、ノアはベット上に寝転ぶ。太陽が潰れていき、空が昏くなっていく。星の光も脆弱な深い夜が訪れるのを、ユーナは背中で感じ取っていた。




 朝日が昇る前の霧が漂う港町の船着き場。クルガンを案内人として、多くの金持ちが集まっていた。恰幅のいい男が、同じくらい脂肪を蓄えて太った息子に笑いかける。宝石の指輪で飾られた手が息子の頭を撫で、今日は特殊人種を買おうと談笑していた。

 仮面で隠した痩身の女性は、扇で口元を遮りつつも歪む唇から漏れる哄笑が空気に溶けていく。赤い絹のドレスの裾が翻れば、傷一つない白い肌が曝け出される。そんな彼女の手から伸びる鎖の先には、鞭の跡だらけの筋肉質な男が四つん這いになっていた。

 宝石も、美貌も、陽の下で輝く全てが今はくすんでいた。白く濁った霧の中で息苦しくなっていく。ユーナは途中でふくよかな男の息子と目が合ったが、すぐに視線を逸らした。胸元を飾る黄金蝶に手を置き、浅い呼吸をする。


「わたくし、どういう立場で過ごせば良いのかしら?」

「俺とお前は兄妹。親に秘密で奴隷を買いに来た……あと一つ」

「なんですの?」

「暴れるな。目立つな。大人しくしていろ。俺が良いと言うまでな」


 それは守れそうにないと、軽く鼻で笑う。しかしロンダニアに向かうには、ノアの財力が必要だ。結局拒否権は無意味。波を越えて近付くキャラベル船の黒い影を見上げながら紫色の目を細める。何処にも行けない閉塞感が、ただ胸を苦しめた。


 水平線も見えない視界。それでもユーナ達を乗せた船は真っ直ぐに突き進む。灰色の海面を見下ろしながら、ぼんやりとした意識で思考する。教会では今頃レオナルドやシスター・レイチェルが子供達を起こして朝の仕事に取りかかっている頃だろうか。

 いつの間にか教会での生活に愛着を持ったユーナは、帰る場所をランダ村の教会にしつつあった。わずかな希望を抱くならば、ロンダニアで真実を確認した後、あの教会で余生を過ごそうかとも考えるくらいだ。

 しかし育て親の老婆に黙って家出した罪悪感と、見つかった際の説教を含めた折檻を思えば、一度は黄金律の魔女の館に足を向けなければいけないだろう。気が重くなったユーナの耳に、重厚な鎖の音が響いた。


「ごきげんよう。お嬢さん。貴方も奴隷が欲しいのかしら?」


 港町で赤いドレスを着ていた仮面の淑女が声をかけてきた。少しだけ甲高い声、わずかに見える口元の皺。老いが表面に浮き始めながらも、生々しい精力を感じる不均等さにユーナは眉を顰めそうになった。


「……いえ。兄の付き添いで。まだ若輩の身であります故、人を従える術も学んでおりません」

「ふふ。そうね、なんて瑞々しい肌かしら」


 仮面の女が持つ扇で顎を上げられ、至近距離からの視線にユーナは年齢の話題は禁句だなと実感した。なにせ彼女が白魔法を使っていない限り、仮面の女よりも確実にユーナの方が年上だからだ。

 女の口から感嘆の吐息が零れたが、含まれていた生臭さに違和感を覚える。目の動きだけで淑女が連れている四つん這いの男を視界に映せば、膨らむ股間と血が滲む背中、そして動ける程度に抉られた首筋で確信する。

 四つん這いの男は血や傷で体が覆われていたが、その肌の美しさや伸びた前髪から覗き見える相貌は整っていた。若きを食らう童話の魔女を再現したような女に目をつけられたかと、ユーナは面倒くささを感じた。


「珍しい色の瞳と髪……着ている服も上等。だけど一番は胸元の黄金飾りかしら。誰もが目を惹かれる美しい蝶……恋人からの贈り物?」

「いいえ。生まれた時に贈られた品ですの。誕生祝いというところです。わたくしとしては早くこの飾りに相応しい淑女になれるよう、精進し続ける所存ですわ」

「そう……確かに今の貴方にはもったいない物ですわね」


 嘲笑う仮面の女に対し、額に青筋が浮かびそうになったユーナは理性で怒りを押し留める。相手は年下で、老い先短いのだと、心の中では軽く罵って憂さ晴らしをする。普段ならば売られた喧嘩は十倍返しだが、今はノアの言いつけを律儀に守ろうと決めた。


「もしも奴隷選びで困ったなら、相談していいのよ。貴方よりも経験豊富ですから……なんならこの十番を差し上げてもよろしくてよ?」


 番号で呼ばれた四つん這いの男が明らかに怯えた。恐怖を隠さない灰色の瞳がユーナを見上げる。熱がこもった息を何度も吐き、歯の根が合わずに震えて音が鳴っている。胸の奥が冷えていくのを味わいながら、言葉を返す。


「人の名前も憶えられない老人のお下がりなんてまっぴら御免ですわ」


 冷たい声だった。返事をした後にいけないとは思いつつも、少しだけ爽快な気分を味わう。それも閉じられた扇で頬を叩かれ、太い鎖が首に巻き付いたことで思考に一瞬の間が開いた。

 歯茎から血が出そうな程に歯軋りを響かせる仮面の女が表した怒りが、首を締め付けてくる鎖の強さに比例していた。四つん這いの男が慌てて周囲を見回しており、頭を抱えて船床に這いつくばって震えた。


「優しく接していればつけ上がって……今ここで十番に犯されたいの!? それとも魚の餌の方が誇りを守れるかしら? 貴族の娘として、どちらがお好みかしらねぇ!?」

「わたくしの好みは横暴な女性が悲鳴を上げるところですわね」


 悪人のような台詞を吐きながら、首を締め付けてくる太い鎖を片手で握りつぶす。鉄の輪が壊れて床に散らばるのを、仮面の女はゆっくりと目で追った。ついでにと言わんばかりに女が持っていた鎖を取り上げ、端の方から白魔法込みの腕力で砕いていく。


「……え?」

「さ・て・と。続きが必要ならば、存分に付き合ってあげますわよ?」


 晴れやかな笑顔を向けながら、拳を鳴らす。そしてユーナの想像通りに悲鳴を上げて不様に船内へと逃げた淑女の背中を見ながら、ざまあみろと舌を出す。床に膝をついたままの男が呆然と見上げてくるのに気付き、軽く息を吐いた。


「貴方のお名前は?」

「う……あ……? じゅ、十番……」

「そうじゃなくて。じゃあ勝手につけますわよ。ティオ。貴方の名前はティオ」

「てぃ……お?」


 名前を何度も口の中で呟く男の図体を肩で抱え、とりあえず甲板から適当な倉庫へと走って行く。丁度良く貿易品の服が詰め込まれた部屋へと入れたので、ティオの体格に合う服装を見繕って投げ渡す。

 慌ただしくなった船内の様子に怯えるティオの動きは鈍い。苛立ったユーナが頭からシャツを被せていき、傷だらけの体を隠していく。同時に赤魔法で『髪切り女レリック』に接続し、黒い髪を乱雑に切って整えていく。


「多少雑な方法ですが、貴方とわたくしが駆け落ちした的な流れで奴隷島に侵入して、適当に逃げなさい。あの女を怒らせたのはわたくしの責任です。だけど彼女は貴方が戻れば制裁を加えるでしょう」

「ひっ!?」

「嫌なら走りなさい。自分の意思で、どうしたいかを選びなさい。生憎ですけど、今のわたくしに貴方の面倒を見る余裕はないのです」


 舌打ちしたいのを堪えて、ユーナは自らの非力さに苛立つ。衝動で助けようとしては空回っている自覚はあった。ノアの指示も守れていない。狭く埃さえも湿気った部屋の中で悶々と悩む。どうやったら堂々と自分の思うように生きられるのか。


「ど……こへ?」

「それは」

「どこにも……いけないのに……なんで……たのんで……ない」


 それはユーナの胸に刺さる言葉だった。自分も同じ。何処へも行けない。その苦しさを衝動だけで誰かに押しつけた。灰色の瞳に宿る力強さに射貫かれて動けない。助けなければ良かったのかと、自分の行為に後悔を覚える矢先だった。

 倉庫の扉が荒々しく蹴り破られた。ユーナは思わず身構え、ティオは両腕で頭を隠した。しかしユーナの予想とは裏腹に、目の前に現れたのはノア一人。いつの間にか船の騒々しさが波を引いていた。

 彼が苛立ち混じりに扉を閉めたせいで、蝶番が不気味な軋みを上げた。それ以上に恐怖で圧迫してくるのはノアの怒りだった。黒い帽子を飾る四つ葉の宝石飾りも今だけはくすんで見えた。


「こっの、大馬鹿が!! 騒ぎを起こすなと言っただろうが!! 俺の邪魔をするのがお前の趣味なのか!?」

「……ごめんなさい」


 反発してくるだろうと予想していたノアは、ユーナの殊勝な態度に毒気を抜かれた。顔を俯かせ、覇気のない声で謝罪する少女の姿は弱々しい。背後ではティオが状況も飲み込めずに狼狽えている。


「おばあ様にも悪は根から滅ぼせと教えられたのに……全てが中途半端ですわ」

「待て。なんだその物騒な教えは。反省してるんだよな?」

「ええ。貴方の言いつけも守れず……雇われる側としては致命的ですもの。なにより誰も救えない……向こう見ずで嫌になります」

「救いが正しいとは限らん。正義は誰も救済しない。当たり前のことだろう?」


 ノアの言葉に、ユーナは少しだけ顔を上げた。まるで救われなかったかのような言い方だった。もしくはその逆か。帽子の影で隠れて表情は覗えなかったが、わずかな既視感を覚える。重い後悔を抱えた、未来へ進むには足が動かない様子。

 似ていると思った。しかし言葉に出すことはできなかった。あまりにもノアについて知らない。それでも興味が湧いてきた。知的好奇心に近い、だけれど違う感情も含まれた心持ち。特定の個人、その全てを知りたいという心情をなんと呼ぶかをユーナはまだ理解していなかった。


「なんにせよ、お前が起こした騒ぎの後始末はつけてきた。あの気味悪い女の記憶も魔術で操り、男は俺が奴から買った下僕になった。丁度、貴族として振る舞うのに従僕を必要としていたからな。金もちゃんと渡し、契約書も書かせた」

「……いいのですか?」

「胸くそ悪いがな。こんなことは最後にしろ。俺は……奴隷なんか買いたくねぇんだ」

「ごめんなさい」


 気まずい空気が流れた。次の言葉に迷う中、船内に知らせを届ける鐘が鳴り響く。ノアは静かに倉庫から立ち去ろうと手招きしてくる。ユーナは戸惑いつつもティオの手を掴み、連れて行く。

 怯えたティオの体はユーナよりも大きいというのに、震える手が子供のようだった。甲板に出た際、赤いドレスの淑女と視線が合ってしまい、ティオは声を詰まらせた。しかし先程まで身につけていなかった金剛石ダイヤモンドの首飾りを見せびらかしながら、ノアへと淑女は誘惑するように微笑んだ。

 ティオの価値が、装飾品と同じだと証明してしまった罪悪感がユーナにのしかかる。人間は無価値ではない。しかしそれを具体的に決めてしまうのは、どうにも気分が悪かった。見えない鎖がいまだティオの首に巻き付いているような錯覚さえしてくる。


「奴隷島だ!!」


 船員の誰かが声を張り上げた。そしてユーナは視界の霧が熱い蒸気に変わっていることに気付く。同時に纏わり付くような濃い魔力の気配に、嫌な予感だけが先走る。風鳴りとは少し違う歌声が耳に届き、黒い影が蒸気の中から浮かび上がってくる。

 ユーナ達が乗っているキャラベル船が小さな家と思えるほど、現れた奴隷島は巨大だった。そして三百年間見つからなかった絡繰りを理解する。島が生き物ならば、常に移動を続けることが可能だ。


 鋼鉄の街を背負う鯨。それが奴隷島の正体だった。


 普通の鯨ならばあり得ない。だが『異常な鯨モンストルム』ならば話は違ってくる。視界を遮る蒸気は鋼鉄の街が発する物だけではなく、鯨が魔術で姿を隠すためにわざと拡散している。呼吸でもある潮が噴出し、蒸気を掻き回した。

 体に付着していた海水も潮と共に舞い上がり、雨となって降り注ぐ。塩辛い雨をさりげなく魔法で弾きながら、ユーナは驚きで声が出なかった。こんな『巨大鯨モンストルム』が奴隷島であるのもそうだが、一番は鋼鉄の街並みだ。

 見たこともない技術によって動力を得ているようだった。その証拠に蒸気が絶え間なく街から溢れ出ている。錆びた茶色の鋼鉄板が地面、張り巡らされた水道管と類似した別目的の管が植物の根に見える。


「これが……奴隷島?」

「昔と様変わりしているな。奴隷の誰かが技術提供したのか?」

「こ、こんな技術となると特殊人種の中でも髪髭かみひげ族や巨角きょかく族が該当しますわ。けれど彼らは人間と隔絶した文明を持つ代わりに、未踏の地で隠れ住んでいるはずですわよ!?」 

「ほう? 中々詳しいな……だが甘い。人間が世界一周を成し遂げた日、この世に踏破できない場所はないと証明した。革新も、新時代も、使い方を誤れば悲惨な物だな」


 ノアは真面目な顔だった。茶化すのでも皮肉るのでもない。いっそ無感動と思えるほど、彼は奴隷島を見上げ続けていた。ユーナも首が痛くなるような巨大さに圧倒され、動けなかった。

 だが船は無情にも奴隷島へと近付き、鋼鉄の街から蒸気を排出しながら下ろされた階段の横へと船を泊めた。船員達の誘導に従い、階段の先にある四角い通路へ。

 鋼鉄に囲まれた道には、火とは違う明かりが白く光っていた。電気、という慣れない単語にユーナは首を傾げたが、追求しようとは思わなかった。何百年先の技術を取り入れればこうなるのか、予想するのも疲れた。

 緩やかな坂状だった通路を抜け、視界に最初に飛び込んできたのは白い蒸気と黒い檻だった。檻が幾つも積み重なり、まるで塔のように形作っていた。それが遠目には街の建造物に見えたのだ。

 檻の中にはあらゆる生き物が入っていた。獅子、象、虎、そして人間。特に人間と一口に言っても、その容姿は様々だ。あらゆる大陸に住む人間が平等に売られている。貧富の差を縮めるよりも、全員を高水準に保つよりも、全てを等しく最下層にする方が早いという皮肉に見えた。

 そしてユーナは一番近くの檻にいた女性に驚いた。尖った長い耳。兎のような長さの耳が黒い長髪からはみ出している。いつの間にか隣まで近寄っていた恰幅のいい貴族の息子が、檻へと駆け出した。


「父上! 見てください、この気持ち悪い耳!! これが耳長みみなが族なのですね!?」

「あ、その言い方は……」


 ユーナが注意を続ける前に、檻の中にいた女性が父親と同じく豊かな脂肪を持つ青年の尻を蹴り上げた。濃厚な赤い目が侮辱してきた青年を睨むが、首輪や手錠から伸びる鎖がそれ以上の蛮行を許さない。

 忌ま忌ましく檻の床に繋げられた鎖を何度も鳴らし、耳長族と呼ばれた女性は青年に近付けるだけ歩み、荒い息を吐いて怒りの形相で威嚇する。蹴られた青年は顔を青ざめさせ、ユーナの背中へと隠れて盾にしてきた。


「彼女達は誇り高い森の民であり、その呼び方はわたくし達人間が勝手に付けた名前ですのよ。彼らはそれを嫌い、時には相手の息が止まるまで報復すると言われています」

「ひ、ひぃいっ!? く、詳しいな!?」

「べ、勉強しましたのよ……おほほ」


 誤魔化すためにわざとらしい笑い声を出したユーナの言葉を遮るように、耳長族の女性が入っていた檻に鉄製の棍棒が打ち付けられた。金属同士がぶつかる音に何人かが思わず耳を塞いだ。

 気味の悪い人形の顔を模した覆面をつけた者達が、刺叉で女性の首筋や手足を押さえていく。床に這いつくばりながらも睨み上げるのを止めない女性の背中に、しなった一本鞭が服ごと皮膚を引き裂いた。

 鞭は女性が動かなくなるまで傷を刻みつけ、床に血の跡が染みこんだ。ユーナは前に出ようとしたが、ノアが力強い力で肩を掴んできたので拳を握ることしかできなかった。真っ黒な鞭が主人の手の中へと収まるのも、黙って眺めているしかない。


「奴隷の一人が失礼いたしました。ようこそ、奴隷島へ。売買ギルド【コンキスタドール】は貴方達を歓迎します」


 恭しくお辞儀をしたのは道化師の服で着飾った青年だ。顔の半分を簡略化した笑顔の仮面で隠し、髪も桃色と黒など二色に分かれている。細身の高身長で、道化師でなければ見栄えのいい美青年であることは間違いない。


「生憎ギルドリーダーは多忙故、私ことロキが挨拶に参った次第でございます」


 紹介の途中、ユーナの肩を掴むノアの手から感じる握力が強まった。顔は笑顔だが、桃色の目は笑っていない。ロキに薄気味悪さを覚えながらも、ユーナは横目で檻の中で横たわる女性を見つめる。

 黒い髪の耳長族。なにも知らない者からすれば違和感を持たないが、育て親から特殊人種について学んだユーナにとっては見過ごせない要素だった。しかし迂闊に近付いて太った貴族の青年と同じ目に遭うのは嫌だった。


「詳しい商談は中央館で受付いたしております。また街の檻全てが商品でございますので、ゆっくりと見物するのもお勧めしております。気になる商品がございましたら、試用宿テイスティングホテルをお使いください。それではごゆるりと――」


 そしてロキは手品と称して煙を巻き上げて姿を消してしまった。慣れた貴族達は中央館と呼ばれた、街の中でも一際大きい鋼鉄の建物へと向かう。ノアは小声でティオを連れて中央館を訪ねると告げ、ユーナに改めて問題を起こさないようにと注意した。

 恰幅のいい貴族や仮面の淑女などは試用宿と紹介された館へと赴き、ユーナのように初めて奴隷島に訪れた数人はその場に残って呆然と見回す。何処を見ても檻、奴隷、商品。頭が痛くなりそうな光景だ。


 鋼鉄の街に植物が生えることもなく、地面代わりの鋼鉄板は湿っている。濡れていて滑りそうだと、ノアから与えられた動きやすいドレスに少しだけ感謝した。視界は常に蒸気が纏わり付き、太陽が出ているかなどは蒸気が白く見えるかどうかで判断しなくてはいけない。

 一人になったユーナは先程の耳長族の女性が横たわっている檻に近付いた。意識を失った女性から話を聞くのは難しいかと、その周囲の檻の中へ視線を向ける。


「ほっほーう? 嬢ちゃん、ナイスミドルに興味はないかね?」

「あら。素敵なナンパ……髪髭族や地底の民と呼ぶのは失礼に値しますわね。お名前を聞いてもよろしくて?」

「ほっほーう! こりゃまた珍しい! 儂はガンテツ。細工の腕を御所望ならば、是非儂をお勧めるするね」


 茶色の豊かな髭を揺らして笑うガンテツ。頭頂部に髪の毛は生えていないが、鮮やかな文様が皮膚を飾っている。その文様を数えて、ユーナは言葉を続ける。


「文様が十五。百五十年は生きているのですね。それに頭の側面から生える髭……噂通りの姿に感動しましたわ」

「ほ? なんじゃい、詳しい割に会うのは初めてなのかい。しかし……はっはーん。さてはお主、見かけよりも年嵩じゃろう? そこらの若造とは違う貫禄が滲みでとるわい」

「大正解ですわ。貴方より五十歳は年下ですけどね」

「……ぶっは!! はーはっはははは!! そりゃあいい! 儂より年下ならば嬢ちゃんだわな!」


 ユーナの言い方がツボに入ったガンテツは、胡座をかいた膝を叩きながら大声で笑う。そのたびに手錠から伸びる鎖から大きな音が鳴るが、それすらも霞ませるガンテツの明るさにユーナは微笑む。

 体の大きさは百五十㎝程度。太い腕と足、しかし腹は出ていない。体の全てが筋肉であるかのように、鍛えられた体躯。筋肉で硬い胸板を覆う胸毛も豊かで、鍛冶の火に晒され続けて焼けた茶色の肌は彼によく似合っていた。

 少し考えた後、ユーナはガンテツに提案を持ちかける。

 

「もしよろしければ、この若輩者に奴隷島について教えてくださらないかしら?」

「ほっほーい! 面白い嬢ちゃんじゃ。百年も生きて、まだ教えを請う貪欲さ……嫌いじゃないぜ、そういうの」


 丸い黒目を輝かせてガンテツは笑って承諾した。胡桃のような愛らしい形の目を見つめて、ユーナも微笑む。ただしそれはなにかを企んでいる時に見せる、彼女なりの笑顔ではあった。

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