EP0×Ⅲ【教会の子供達《church×children》】
「ねえ、これ食べてみてもいい?」
真っ赤な宝石を手の平に載せて目を輝かせたミネアの言葉に、横で洗い物をしていたユーナは驚いた。修道女の服なら汚しても構わないと、ランダ村の教会に滞在する間は手伝いを行うと決めて二週間後、クイーンズエイジ1766の四月十八日のことだった。
コチカネット国は湖水地方は雨が多い事情で有名だが、天気が変わりやすくて雨が降らない日が少ないというのが真相だ。降雨と曇りを繰り返し、日照時間が短いのも相まって洗濯が難しいだけである。だからといって冬場が零下になるほど冷え込むのでもなく、夏が急激に暑いわけではない。
夏場は過ごしやすいが長袖が必要で、雨が降れば着こむ必要がある程度。冬場も雪よりも雨が多い。山間部などではまとまった雪が山肌を覆うが、平地では降り積もっても数日で溶けてしまう。むしろ横殴りの雨の方が痛むほど冷たいくらいだ。
極端に暑いのでも寒いわけでもない。しかし天気が変わりやすく、年間を通して気温が低いのと日照時間が短いこと。それらを合わせると洗濯物の悩みを年中抱えている、と言えるだろう。なので現在十四人にまで減ったが、大勢の子供を世話している教会では服の不足が大問題だ。
村人達が二十人の子供達を憐れんでお古の服をくれたのは良いが、それも洗濯が必要となれば一人二人では手が足りない。教会には神父レオナルド・クロッチの他には修道女のシスター・レイチェルしかいない。必然的に大分ご飯も食べられるように健康体に戻った子供達に自らの服を洗うように指示することに。
そんな子供達の中でもまだ幼い少女であるミネアは、茶色の瞳を好奇心で輝かせていた。初めて見る宝石。それが宝石だということすら知らない。それでも透明な輝きと、手の平に伝わる冷たい感触に胸の高鳴りが抑えられないようだ。
「そ、それどこで!?」
「えっと……鬼さんの服。ポケットの中」
桶の水と子供の手によって揉みくちゃにされている黒い衣服にユーナは額に青筋を浮かべた。洗濯するにはいくつかの方法がある。活発な男の子達は灰とお湯を張った桶の中に入れた衣服を足で踏んで洗っている。不器用な子供達はレイチェルと一緒に竈でお湯を沸かしながら棒でかき混ぜて洗濯中。ユーナは手もみ洗いで対応していた。
「あの野郎……」
「口調が崩れているぞ、共犯者」
「誰が共犯者ですか、誰がっ!!」
背後から聞こえていた声に怒鳴る。振り向けば青空を背にしているというのに爽やかさが微塵も感じられない男が一人。四つ葉の帽子飾りは日光を受けて輝いているのに、顔色は冴えない。黒い服を着ているから日に焼けていないのではと笑うレベルの肌色ではない。
もしも足もみ洗いしている子供達の方に宝石を入れた服が混じっていたら怪我をする。不用心だと続けて怒鳴ろうと思ったユーナだったが、それよりも先にミネアがノアに手の平に載せた赤い宝石を差し出す。大粒の
「鬼さん! これって食べられる?」
「残念だが、これは石だ。食えば腹を壊すぞ。それに洗濯桶に入っていたとなれば、灰と汚水で汚れている。諦めることだな」
「そっかぁ……」
ミネアは落ち込みながらもノアの手に宝石を返す。白い手袋に覆われた指先で掴めば、宝石はまた違う輝きを宿す。人の手によって色を変えていくようだと、ユーナも洗い物の手を止めて紫色の瞳に宝石を映す。宝石が綺麗なことは変わりないのに、純粋な子供の手では柔らかく、金持ちの手に乗れば鋭くなる雰囲気さえ感じ取れた。
美しい物は美しい。それだけだと思っていた。宝石など高価な品は相応しい場所で飾られることが当たり前だった。なのに洗濯桶から零れ出た赤い宝石を見てしまうと、固定観念が崩されていく感覚を味わう。ついでにノアの宝石の扱いが雑過ぎる。鑑定家がこんな光景を目にしたら卒倒してしまうだろう。
洗い物を再開したミネアだったが、その動きは緩慢な物だった。やる気が明らかになくなっている。子供らしい柔らかさを取り戻しつつ、栄養を失った細い腕で洗濯を続けるのは褒美がない限り苦痛だろう。生活に必須とはいえ、まだ遊び盛りの子供なのだから。
「宝石は食えないが、飴なら食える。後で洗濯をしている子供全員に渡してやろう」
「飴? 聞いたことあるよ! 甘くて、貴族様しか食べられないものだよね!」
「ああ、そうだとも!! 奴隷として攫われた奴の中に貴族の隠し子がいてな、謝礼としてたんまり頂いてきたのさ!!」
再度嬉しそうに目を輝かせたミネアに対して、自慢するように今回の成果を伝えるノア。これでようやく五人、元の家に帰ることができた。その報告にユーナは複雑な気持ちを抱く。子供が家族の下に帰れるのは喜ばしい。しかし全員がそうではない。
ミネアは赤毛に白い肌、そして青い瞳。外見からアイリッシュ連合王国に近しい大陸や国の子供であるだろう。しかし洗濯している子供達から外れて、今も村の何処かに一人でいるだろうアラハジャという少年は南東の国特有の褐色肌。太陽に愛されたような肌の色、その光と熱を効率よく浴びるための黒髪、そして夜空のような濃い青の目。
奴隷商人はあらゆる場所から子供をさらっていく。教会の屋根の上で膝を抱いて青い空を見上げているウィルマという少女は、顔に自然の染料を使った魔除けの刺青をしている。アラハジャほどではないが濃い肌の色は豊かな大木のようで、優しい茶色の瞳は木の実のように愛らしい。黒い髪は細かく編みこんでおり、それも彼女にとっては大切な故郷の伝統なのだ。
「あ、ノア! ミネアにばかりずるいぞ!! 俺にも食わせろ!!」
「洗濯をサボらなかったらな、バン。ケリーとオルカも足もみ洗いなんて楽なのやってんだ、きりきり働け」
濡れた裸足で駆け寄ってきたバンに対し、ノアは宝石を懐にしまいつつ指一本を額に添えるだけで彼の歩みを止める。どんなに足を動かしても頭が前に進まなければ意味がない。早く洗濯を終わらせようと金髪の髪を風になびかせながら、少年は仲のいい二人と一緒に桶の中にある洗濯物を踏んでいく。
バンは明るい少年で、今は緑の瞳を輝かせて楽しそうにしている。ケリーもそばかすが残る頬についた洗濯水を拭いながら黒の瞳で洗濯物の汚れが取れていく様を眺めているが、実は赤茶の髪にまで飛んだ灰を含んだ水がくっついているのに気付いていない。
オルカは短い銀髪の髪が太陽の光を受けて暖かい色味になっていた。青い瞳は真剣な感情を宿して懸命に洗濯を終えようと集中している。バンとケリーはまだ気づいていないが、オルカは少女である。だというのに夜の体拭きを一緒にやろうなどと盛り上がっていた。
「貴方……意外と子供好きなのですね」
「ははっ、そうだな! 食ったら柔らかくて美味そうなところがいい! 生意気なのもへし折りがいがあるというものだ!」
ユーナの言葉に対して悪鬼の笑みで答えたノアに、違和感を覚える。しかし深く関わるのも面倒だと、ユーナはミネアと一緒に洗濯を続けた。教会の外、作られた井戸の近くでは追加のお湯を沸かす子供達がぼんやりと焚き火を眺めている。
近くに川もあるが、そこは小麦を挽く水車小屋や放牧している羊達の飲み水場だ。村の共同洗濯場は場所が狭く限られているため、邪魔にならないように教会の近くで洗濯をしている。やはり大人数を抱えるのは大変だと思いつつ、ユーナは別の疑問をノアにぶつける。
「あと何人ほど家に帰せそうですか?」
「五人までなら……まあな。ただ
「そうですか」
「捨てられた子供もな。清貧って言うが、子供が育てられないというのは貧困だな」
宝石を服の中に入れたまま洗濯に出す男には揶揄されたくない内容ではあったが、間違いでもないだろう。無闇な富よりは貧しい方が良い例も。しかしその逆も然りだ。誰かが悲しむ貧富に価値があるのか。だが恵まれた環境にいたユーナに文句を言う資格はない。
ミネアには伝えていないが、彼女は捨てられた子供だ。奴隷として運ばれていた子供の中で一番幼かった彼女を真っ先に調べた結果がそれだった。親に世話しきれないと判断され、拾ったのが奴隷商人だった。なにより彼女は言わない。何時お家に帰れるの、と。
彼女はその事実を自覚の有無は関係なく気付いている。そして受け入れていた。小さな体とは思えない強さをユーナは羨ましいと思った。純粋な瞳で宝石を食べたいと告げる彼女の性格も、彼女手の手なら優しい輝きを見せる宝石も、ユーナには手の届かない存在だ。
「そして四人までならば養子に出せる。くそ神父お勧めの裕福で子供のいない家庭がその数だ」
「レオナルドさんの人脈ってなんなのかしら?」
「聞かない方がいいぜ。ろくでもない。それでも俺にはできないことだから文句はねぇけどな」
「孤児院や救貧院よりはいいですわ。善行って一体なんなのかしら……」
本来は貧しい者、身寄りのない子供を救うための施設。それらは蓋を開けてみれば無償労働を強いる地獄と言っても差し支えない。子供を守る法律はまだ少ない上に、教育は天主聖教会が握っている。地位がない者は体を動かして益を得る。
その中でも衣食住を満たす職業は重要だ。特に食を担う畑や牧場で働くとなれば、豊作の年は領主に税を取られても自分達の食い扶持の確保をできる。食べきれない分は保存食として加工し、市場で売って金銭に換えることも可能だ。
金銭を得たならば生活に必要な物を揃えられる。上手くいけばの話ではあるが、それが基本だ。しかし孤児院や救貧院では衣食住は与えられてもまともとは言えない。労働に見合わぬ貧相な食事に端切れのような服、大勢の人が隙間風の激しい部屋に詰め込まれる建物。監督員さえ悪魔に例えられるほどだ。
「善と正義は一致しないようなものだ。しかして悪は同一だ。善き正義の味方なんかより、単純な悪の方がこの世には多いだろうな」
「だからは貴方は悪ぶるのかしら?」
ユーナの言葉にノアは返事しない。ただ尖った犬歯を見せながら笑う姿は、青空が似合わない悪鬼そのものだ。しかし六人の子供達を魔術行使とはいえ短い期間で帰宅させたのは悪鬼の手柄だ。人間でも、魔導士でも、無償でやるには難題なことである。
「それより手を動かせ。服が乾かないぞ」
「はいはい。それじゃあ貴方は十字架の下で休んだら如何? 浄化されるかもしれませんわよ」
「ははっ、焼け爛れろの間違いじゃないか? 炎は嫌いだからな、湿気の強い部屋で寝た方が幾分かマシだ」
そう言って男は教会内部でも日当たりの悪い部屋へと向かった。もしもユーナの手が汚れから発生した泡がついていなければ、あっかんべえという古典的な仕草をしただろう。しかし石鹸など高価な物はないので、少し時間がかかっている洗濯を終えなくてはいけない。
代わりに洗っていたノアの衣服を手荒く絞って水気を抜く。破損した場合は弁償が発生するため、そこの力加減を間違えないように強くだ。残念ながらユーナの現在の状況は仕事の報酬に衣食住の確保をノアにしてもらっているのだ。雇い主がどんなに腹立つ相手でも、そこだけは
洗い終わった服を縄と長めの杭を使って干し始める。屋根から斜めに広がる洗濯物の隊列は、一見すると鳥の翼に似ていた。風で揺れるたびにどこかへ飛んでいきそうな軽やかさが目に映る。木製の洗濯ばさみを使っているとはいえ、強風が来たら幾つかは飛ばされるかもしれない。
しかしそこまで強い風の気配は今のところはない。レイチェルなどは次は御祈りの時間だと張り切っているが、子供達は疲れ始めていた。バンなどはご飯を食べたいと言い、ミネアはノアの姿を探している。まだ朝ご飯すら口にしていないため、ユーナとしても空腹のまま動くのは気分的に辛いものがあった。
「シスター・レイチェル。お祈りなんて食事の時でいいんだ。まずはご飯の用意をしてくれ」
「神父様。わかりました! 今日はなにがいいでしょうか?」
「野菜のクリームスープにマッシュポテト。あとはスコッチエッグだな。芋を潰しまくって腹を膨らませよう」
「ではそこにベーコンを細かく刻んだ物を入れて栄養を取りましょう! 皆さん、手伝ってくださいな」
「ああ、待ってくれ。ベーコンというか、肉類は使わないでくれ。確か豚はその脂さえ混じった物が危うかったはず……肉も教えに則った殺し方でないと駄目だから……」
徹夜で本を読んでいたらしく、目元に濃いクマを作ったレオナルドが眠そうにレイチェルに食事について指示していく。しかし途中でも不安になっては、何度も本に書かれたハラームとハラールについて調べ直していく。
料理に使う油は全て植物性由来にして、豚に関しては肉類は全て村人に差し上げた方がいいと悩み始める。牛乳と卵は派生であるため大丈夫だと確認し、それでも不安が消えない様子で本と睨めっこしていた。やはり神父なのだと、ユーナは感心した。
本当は全部野菜で構成した菜食主義の食事を用意した方がいいのかもしれないが、奴隷として運ばれていた子供達の健康状態を思えば、栄養を取らせたい願うのは当然だ。少しでも栄養価が高く、誰でも食べられるものをとレオナルドはレイチェルに食事を作る前に指示を与えていた。
特に厳格な教えを受けていたと考えられるアラハジャ。当初は気付かずに彼へ豚肉が入った食べ物を差し出して跳ね除けられてしまった。その時だけは異国の言葉でなにかを喋っていたが、レオナルド達が理解できたのは彼が怒りを覚え、誰も信用しなくなったことだけだ。
ウィルマという少女は言葉自体に不便を感じており、食事の時間も黙々と食べている。食の
ユーナはウィルマに関しては考えがあったので、アラハジャはレオナルドに一任する。しかしいまだ心開かない二人に、食事だと呼んでも素直に来るとは思えなかった。食事の準備はミネア達とレイチェルに任せ、ユーナは二週間かけてレオナルドの目を誤魔化しながら作っている指輪作りを再開する。
使うのは普通の木。彫刻刀は芸術家の道具であるため、青魔法で繊細に削っていく。一度だけウィルマの指に触れ、その大きさを思い出しながら形を整えていく。次に自分の指に合ったサイズの指輪を同じ木材から作り、二つ一組という形式にする。
指に装着するため傷つかないように表面などを磨いていく。これも青魔法で繊細に仕上げていく。次に指輪の内側に刻む法則文について考えていく。最初は黄金律の魔女が得意とする古代エルト人のルーン文字を使用してみようとは思ったが、指輪に関連する『
そしてウィルマに渡す指輪にはΩ、もう一つにはαと刻印。最後の仕上げに青魔法で琥珀の元でもある樹液を指輪に満遍なく塗り、乾かして完成だ。できた二つの指輪を握りしめ、ユーナは一足飛びで教会の屋根へと跳躍する。
いきなり屋根にやってきたユーナにウィルマは目を丸くした。そしてユーナが無言で差し出した指輪を不思議がり、動作で自分に渡すのかと尋ねる。しかし伝わり辛いと感じたため、ユーナが用意していた指輪の一つを自分の指に着けたのを見せる。
戸惑いつつもウィルマは指輪を装着する。伝統が深い宗教の中で、実は金属の装飾を敬遠するものもあるのだと育て親の老婆から聞いていたユーナは、少しだけ安堵した。やはり木製にしてよかったと思いつつ、指輪に魔力を通しながら声を出す。
「これでわたくしの言葉がわかりますわね?」
『なんで!? 音は難しいけど、意味が頭の中に浮かぶわ!』
驚いた顔でウィルマも声を出す。そしてユーナの耳に届くのは聞き慣れない言語ではあるが、同じく意味だけは理解できた。後でレオナルドに怒られるのは承知で、このまま会話してみようと試みる。
「魔法ですわ。これは二つ一組の指輪で、始まりのαである指輪に魔力を流すことで終わりのΩである指輪の持ち主と会話、というよりは意思疎通できる魔道具です」
『まほう? もしかして貴方は
「力を借りるという点では似たようなものですが、少し違います。それは追い追い話すとして、今は貴方がどんな状況にいるのかを簡単に説明しますわね」
『お願い! 私はあの大地に帰りたい! 祖先の赤い大地に! ここも自然豊かだと思うわ……でも寒くて、心細くて……私、帰れるかしら?』
今までの不安を思い出して、熱い涙を零し始めたウィルマの肩を優しく撫でる。言葉も通じず、感じたこともないような気候の中に放り出された。今まで涙を流さなかったのは、そんな余裕も出てこなかったからだ。奴隷商人の前で泣けば、言葉は聞き取れずとも鞭打ちで激しい痛みに晒されるのを思い知っている。
ユーナはゆっくりと説明する。ここはカメリア大陸から遠く離れたアイリッシュ連合王国。帰るには長い船旅が必要で、それに伴う莫大な金額を用意する必要がある。帰したいとは思っているがすぐには無理であることも正直に話した。
それを理解していたのかウィルマは静かに話を聞きながら涙を流し続けていた。そして暗く狭い場所で長い時間揺られ続け、そこで多くの仲間が死んでいった。逃げようと企てて溺れた女性を船員が笑っているのを黙って見ていたなどを苦しそうに言葉にした。
『近くの村で略奪が起きたと噂が流れて、警戒していたのに……彼らは知らない武器で私達を襲ってきたの。父が……母も……幼かった弟なんて蹴られただけで……ごめんなさい。貴方は悪い人ではないとわかっていても、その肌だけで怖くて震えてしまうの。私に巫術師様の力があれば……この国全て呪いたいとさえ、あの暗くて狭い部屋の中で考えていたわ』
拳を強く握りしめたウィルマは、声に出すことさえ恐れて体を震わせていた。ユーナを見つめる瞳も、今は憎悪の感情が時折見えた。助けてもらって、食事を与えてもらっても、心の奥底では許せないと何度も血を吐きながら唱え続けているのを表すように。
「呪っても良いと思いますわよ」
『……え?』
「恨みも、憎しみも、殺意も。貴方が生きていくのに必要なら、抱え続けなさい。でもね、貴方と同じく奴隷としてさらわれた子供達や、レオナルドさん達みたいに助けてくれた人……無関係の人を巻き込んではいけません」
『どうして?』
「後悔するのは貴方だからです。わたくしも……どうしても許せなくて、相手を傷つけようとして無関係な人を巻き込んだことがあるからです」
炎の中に投げ入れろと喚いた誰かの母親。そんな女に石を投げた時、子供が庇うために前に出た。額から血を流して、お母さんを殺さないで、と叫んだ子供の声に我に戻ったのを、忘れることができない。勝手な言い分だとわかっていても、ユーナは情けなさと苦しみで泣き喚いた。
苦しめたかったわけではない。だけれど胸の奥底で血の塊が潰れるに似た感触が、体を動かしていく。自分だってそちら側に、誰かに守られる子供でいたかったのに、最初から失っていた。
憎しみ、妬み、殺意。瞬間的な物も、蓄積された感情だってある。ただユーナが理解できたのは、目の前で非道を叫んだ誰かの母親を殺しても、なんの意味もなく、報われない、ということだけだった。虚しさだけが重い泥沼のように体を沈めていく。
「だから許さなくていいです。理解も投げ捨ててよろしい。ただ一つ……貴方は誰かを殺したいのですか?」
『ううん……皆の魂が待ってる、故郷に――帰りたい』
瞼を閉じれば赤い太陽が沈んでいく大地が見える。乾いた風に、熱のこもった砂。夜になれば遠くにいる
寝る直前に自分達を生かしてくれる精霊と自然に感謝して、安らかに眠る。そんな日々は奪われてしまっても、何度でも蘇らせたいと願う。恨みも、憎しみも、負の感情は消えない。しかし死ぬならば家族の魂が待っている大地に還りたい。
そして大いなる自然の一部となって、大地を支える力に。ウィルマが望むのはそれだけだった。優しく頭を撫でてくれるユーナにさえ憎しみを覚えることさえ辛いとわかっていても、消えない感情だってある。それは否定できないが、望みではない。
「時間はかかりますが……わたくしは貴方を故郷に帰したいと思います。だから少しだけ我慢してください」
『……ありがとう、優しい人』
「なんだか照れてしまいますわね。優しい……ってもしかして生まれて初めて言われたかもしれないですわ。けど、心地いいものですね」
気恥ずかしくなったユーナは変な笑い方になってしまう。その笑顔を見て、涙を零しながらもウィルマもかすかに笑う。優しい笑い方に、ユーナは彼女が生まれ育った環境に思いを馳せる。自然に囲まれて、そこで生まれた信仰をささやかに守っていた。そんな少女なのだ。
「では朝ご飯を食べに行きましょう。だけどアラハジャさんが何処にいるか……」
『もしかして気難しそうな彼かしら? それだったらあの木陰に隠れてるわ』
そう言ってウィルマが教会の屋根から指差したのは、ユーナの魔法なしの視力では木の群生であることしかわからない場所だった。今もウィルマが移動を始めたと指を動かしているが、ユーナにはなにも見えなかった。雄大な自然の中で鍛えられた視力に驚嘆するしかない。
前置きをしてからウィルマを抱えたユーナは、白魔法で軽やかに着地した後、彼女が指差す方向へ駆け出す。途中で大丈夫だと告げて彼女も走り始めた。白魔法を使っていないはずなのだが、身軽に素早く動く彼女にもう一度驚かされる。
一定の距離まで近づいた後、ようやくユーナにもアラハジャが何処にいるか判別できた。明らかに逃げるために草木を掻き分けている音が響いている。だがユーナからしても草木が邪魔で進むのが難しい場所だった。そんな中で、ウィルマは木の幹を蹴りながら移動した後に飛びかかってアラハジャを捕まえた。
「放せ! 偉大なる御上の教えに背く異教者め!! 不浄な肉を食う貴様達など汚らわしい!!」
『あれ!? この人の言葉はわからない!』
「魔道具を使うには資格が必要で、ウィルマさんが万人と話すための魔道具は貴方の魔力と資格が必要なので作れませんでしたの。まあ聞こえない方がいいですわよ……厳格な教えって一長一短ですから」
「はーなーせー!! というか力強いな!? まさかこの異国の女も邪教と言われる魔法の使い手か!?」
「ウィルマさんは天性の素質ですわよ。わたくしは魔導士ですけど。やっぱり宗教と魔法ってとことん喧嘩するのですね」
砂漠の国に住む者から邪教と呼ばれていることも魔導士は慣れていた。なにせ一番身近な宗教からも異端扱いされている上に、激しい迫害を受けた歴史もあるのだから。しかしそれを理由に話を聞いてもらえないのは腹が立つというものだ。
「魔法を学んだ女!? 顔も隠さない恥ずかしい奴かと思えば、勉強までしているだって!?」
「それがなにか?」
アラハジャの言い方に額に青筋が浮かぶが、今は話を進めるしかない。そう思っていた矢先、彼は逃げようと暴れるのを止めた。
「この国では……女性でも勉強できるのか?」
興味を示したアラハジャにユーナは少しだけ驚いた。大体の宗教では女性と男性というのは同一視するのではなく、別の物として扱う。そして宗教というのは多くが男性主導であり、教えを学ぶのに必要な学問を独占したがるものだ。そのため女性が勉強するのはいけない、という横暴がまかり通ってしまう。
クロリック天主聖教会でも同じような傾向は強く、だからこそ男女関係なく学べてしまう魔法はとことん嫌われてしまう。確かアラハジャの国の宗教でも似たようなことが言えたはずなのだが、彼の反応は少しだけ様子が違った。
考えてみればアラハジャは最初から逢語を使えていた。それはかなりの勉強を重ねなくてはいけない証しだ。そして学問に関われる子供は裕福な家庭で育ったということだ。そんな子供が奴隷商人にさらわれるのも変な話であり、ユーナはもう少し詳しく話を聞こうと思った。
「いいえ。自由に勉強できるわけではありません。やはり裕福な家庭の子息が基本で、中には子女でも学ぶ人はいるそうですが、比率は明らかに男性が多いですわね」
「ちっ、邪教でも同じか。魔女が今も生きる女であると聞いていたのに、がっかりだ」
「貴方はもしかして他の国の勉学制度について調べるために母国を出て……さらわれた子供ですか?」
「悪かったな!! ああ、そうだよ!! 偉大なる御上の教えは守るさ!! でもな、父上が母上に暴力振るうのを黙って見ているのが、正しいわけないだろう!! けど母上は腫れた頬を冷ましながら言うのさ! 父上は偉大なる御上の教えを守ってるだけだって!! 男子にだけ許された学問を修められたのだと! 俺も父上のように立派な人物になれと……そして死んださ!!」
ウィルマの抑えつけから逃れたアラハジャが勢いよく立ち上がる。悔しさのあまり奥歯を噛み締めすぎて血が流れても気に留めず、拳を強く握っても発散されない怒りを誤魔化すように腕を振り回す。荒い息を吐いて、消えない苦しみに焼かれ続けている。
「一夫多妻の制度がある国で、父上は平等に妻を愛するというのは守っていたさ! けど平等に暴力を振るっているだけだった!! わかってんだよ、ちゃんと妻達を大事にして愛している素晴らしい信者の男もいることも! だけど俺の父上は駄目な奴だった!! それが他の妻達は把握していない!! 理解しないまま学問を修めた父上を立派だと言いやがる!! うんざりだ、父上は偉大なる御上じゃない!! ただの学んだだけの人間の屑だ!!」
「……で?」
「……俺の力だけでは救えないし、下手すると偉大なる御上の教えに背くかもしれない。でも俺を優しく育ててくれた母上が、女というだけで学べないなんておかしいだろ。誰か……変だって言わないと、あの人達はずっと……学ぶのが立派なことなら、俺は学んでやるんだ。何処の国でもいい、女性が修学できる制度を!! そのために家出したのに……畜生!!」
悔しそうに地面を蹴るアラハジャの肩にユーナは手を置く。物静かに触れてきたことに対し、アラハジャは肩を跳ねさせた。しかし紫色の瞳に自分の姿が映ると石化したように動けなくなる。不可思議な色合いに見惚れているだけなのだが、魔法を使われたのかと焦る。
「その心意気……よし!!」
「は?」
「素晴らしいですわ! 微力ながら応援して差し上げます! そうです、その通りです! 学問は本来平等であるべきなのです! 宗教とは無関係であるべきなのですわ!! 頑張るのですよ、アラハジャさん!!」
肩から手を離して両手を握って上下に振るユーナ。いきなりの行動についていけずアラハジャは呆気に取られる。彼の身近にいた女性はもう少し慎ましかったのだが、そんな慎ましさの欠片もない少女の行動は驚天動地に等しい。
ウィルマなどはユーナの言葉しか意味がわからなかったが、どうやら仲直りできたのだろうかと少しだけ安心していた。しかし女性に両手を握られている状況に慌てて、アラハジャは急いでユーナの手を振り払う。
「い、いきなり馴れ馴れしい! 調子に乗るな!!」
「あら、女性が学問を修めるとはそういうことですわよ? おほほ、それが嫌なら貴方が嫌う父上と同じようにしてみたら如何かしら?」
「んなっ!? 言うじゃないか……邪教の女め! 絶対に俺は女性も安心して学べる制度を修得してやる! 誰もが平等に学んで、偉大なる御上の教えを読んで考えるのが可能な社会にしてやるんだ!!」
「そこは宗教と切り離した方がいいですわよ。さて、やる気があるのは良いですけどまずは腹ごしらえです。今日の食事にはレオナルドさんが必死に貴方の国の事情を調べ、豚肉など禁忌とされる食材を入れてない内容になってます。けど一番は貴方の口からなにが駄目かを伝えるのです。学ぶとは教えるということです。教えてくださいな、貴方の大事な国を」
そしてアラハジャの服の首元を掴んで引きずるように歩かせていくユーナ。文句を叫ぼうとしたアラハジャだが、ユーナの言葉には一理あった。誰かに教育してもらわなければ学べない。本を読むことさえ誰かが教授したい内容を文字に整え、本として仕上げたからだ。
ここ最近、レオナルドの疲労が濃いのも把握していたが無視していた。それがアラハジャの国について調べていたなど、無関心で通り過ぎた。それは学びたいと国を出たアラハジャにとって、恥ずべき態度だった。知るも、読むも、教えるも、全ては学問に繋がる。異国の宗教を調べるのは骨が折れただろうと、アラハジャにはすぐわかった。
彼もアイリッシュ連合王国の宗教を学んで、あまりにも違う事実に音を上げたからだ。しかしレオナルドは諦めずに続けている。それは誰かの信仰や想いを尊重しての思想からだ。失敗したことを反省して、次に活かそうと努力しているのと同じだ。
「わかったよ……あと悪かったな……女」
「素直じゃないですわね。まあわたくしはそれでいいですけど、ウィルマさんなどはちゃんと名前で呼びなさい。そういう礼儀も学問なのですから」
「うぐっ!? 学ぶことが多すぎる……」
「あと謝るのはわたくしじゃなくてレオナルドさん達。お礼もね。貴方を助けるために献身的に世話をしているのが、貴方から見て異国の宗教家なんですから」
改めてその事実を突きつけられたアラハジャは気まずそうに表情を歪めるが、それでも援助してもらっていることには変わりない。もう一度、わかったよ、と呟いてアラハジャは自分の足で歩き始めた。彼の国の宗教は難しい。それは教えを厳格に守っている信仰心も関わっているのだろう。
三百年後でもあまり事態は変わっていないかもしれない。それでも学びたいと願った少年の想いが消えるわけではない。感化された誰かが引き継いでいく可能性だってある。そんな小さな種に似た希望を想像して、ユーナは少しだけ微笑んだ。
だがすぐに笑みを消してしまう。そしてアラハジャを羨ましいと思う。彼には心の支えがある。それを厳格に守っている。今は亡き優しい母親もいて、大人になろうと足掻いている。彼の未来に溢れた可能性が純粋に羨ましくて、ユーナは少しだけ顔を俯かせた。
青空を見上げる。それを美しいと思っても、世界が美しいとは思えない。取り残されていく感覚を味わいながら、ユーナは気を取り直す。自分だけが不幸なわけではない。恵まれている方なのだと。それでも百年経っても消えない寂しさに凍えてしまいそうだった。
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