EPⅢ×Ⅹ【唯一無二《only×you》】

 青空の下で鵞鳥が焼かれる芳しい香り。生姜酒ジンジャーエールが入った酒瓶を片手に顔を真っ赤にして笑う男達が、大道芸人の動きに合わせて陽気な踊りを披露する。

 人形劇の前では子供達が集まり、手袋を投げて決闘を始める貴族の娘を主題とした話を公演していた。ガウェインガーデンの賑やかさと混雑は予想以上であり、人の熱で夏のように感じるほどだ。

 中央に設置された歯車機構の交響楽団オーケストリオンは市場に相応しい音楽を鳴らし続け、天使の翼代わりとなった楽器達が細やかな動きを見せている。


 しかしスリや盗み食いが発生することは残念ながら頻発していた。この時のために商人達が雇った護衛ギルド「正統なる守護」の面々は赤い手袋を目印に人の波を掻き分けている。

 捕まった者は歯車機構の交響楽団オーケストリオンの御前にて裁かれる。まるで天使が宿ったような美しい魔道具の前で、木槌を用意した商人達の怒りによる圧迫に耐えなくてはいけない。

 有罪となった者には、木槌の面に彫られた罪有りきGuiltyという赤判を体中に押される。一日は落ちない上に悪臭付き纏うそれを目印に、商人達は販売相手を見極めている。


「はい! 本当は手首を落としたいところですが、判決は全員一致の有罪! 万引き許すまじ!! ていやぁっ!!」


 怒りの形相で店先の商品を大量にポケットに入れて逃げようとした少年の額に、勢いはあるが威力が弱めな木槌の面を打ち付けるフーマオ。

 聖ミカエル祭企画担当者の立場と公共の場でなければ、おそらく裏路地で本当に手首の神経くらいは切っていたかもしれないフーマオだが、華やかな祭りの場という抑止力が働いていた。

 商売に関わるということで木槌を持った商人達は全員が険しい表情を浮かべていた。店先でのにこやかな顔などどこにもない。接客用笑顔スマイルとは、お客様のためだけに与えられる物である。


 ものの見事に体中が真っ赤になった犯人に対し、一種の見世物と思っている市場の客達は拍手を送った。中世の処刑場のような雰囲気すらも出てきたことに、フーマオは苦い顔をする。

 できればもっと真っ当な宣伝で稼ぎたいのだが、こういった悪意が混じる光景に人が惹かれるのは歴史でも明らかだ。それにこれは必要な事柄である。

 判を押された犯人を一般人に紛れ込んだ私服警官が顔を覚え、警戒も可能だ。祭りが終わればそれを目印に捕まえに行くのも見込んでいる。


「ふむぅ、昼を過ぎて少し人員補充も楽になったわけで……お待たせしましたね、ハナムの旦那」


 フーマオが木槌を手にハナムという男を呼ぶ。聖ミカエル祭を壊そうとした男。そして多くの犠牲者を出してきた鵞鳥男の正体。

 店を売り子に任せてきた店主達の多くが目を見張る。すっかり毒気を抜かれたハナムの、なんと生きる様子が見えないことか。青白い顔は今にも倒れそうな病人そのものだ。

 鼻頭からずれた丸眼鏡を直す素振りも見せず、ただ流されるがままに従っている。目の下に残った涙の跡は瑞々しくも、どこか痛みを感じさせる雰囲気があった。


 ハナムの埃まみれの足の法廷パイ・パウダー・コートが始まると聞いたユースティアは、無理矢理ヴラドを引っ張って様子を見に来た。

 結果が無罪でも有罪でも構わない。契約書により、人助けギルド「流星の旗」は傭兵ギルド「剣の墓場」にその身柄全てを引き渡すしかない。市場を一時的に取り仕切るフーマオでも、ギルドリーダーである警察のコージでさえもだ。

 全てはユースティアが望むまま、そしてヴラドが計算した通り。何者も立ち塞がることはできない。フーマオは長すぎる袖で口元を隠しながら、判決を告げる。


「ハナム・デリトルの旦那。もう論議する意味はないです。貴方は有罪……処刑人も用意しています」


 しかし最後の言葉にユースティアだけでなく、ヴラドもわずかに目を丸くした。今までは赤い判を押すだけだったはずが、何故いきなり処刑人の単語が出てくるのか。

 ヴラドは改めてフーマオが隠している口元を注意深く観察する。猫のような口の形をしているが、明らかに口角が上がっている。そして細めた金色の目でヴラドの方を眺めていた。

 驚いたのは見学していた客達もだ。一体、何故、聖ミカエル祭で処刑人という名前が出てくるのか。これでは天使の名前を借りた祝日に泥を塗るような物である。大きなざわめきが広がる。


「静粛に!!!!」


 頭上、具体的に言えばフーマオが出している出張小売店の屋根上。そこで意味不明な白い布で体の全体を隠した小柄な人物が立っていた。凛とした、というよりは弾けるような声だった。

 風船の破裂音にも似ており、近くにいた老人ですら驚いて見上げたほどである。そんなことも気にせずに謎の人物は屋根を勢いよく蹴り上げ、半回転を決めながらハナムの前へと降り立つ。

 左手に胡椒計量用の天秤、そして右手には剣というには長すぎる上に細い形の武器。黒くも艶やかな武器に見覚えがあったユースティアは開いた口が塞がらなくなる。


「聖ミカエルは魂の罪を量る大天使!! そんな日に狼藉を働く悪人よ、貴様の罪は重い!! 今、我が剣によって制裁を下す!!」


 容赦なくハナムの頭上に向かって武器を振りかぶる。その速度は常人から見ても速い物であったが、それを防ぐ男の動きはさらに異常な速度を出していた。

 粗く削られた大岩、作り途中の槌、歪な鉄塊。ありとあらゆる武器としては不名誉な形容が似合う大剣を手に、ヴラドは謎の人物の攻撃を防御した。ハナムは生かさなくては無意味だ。

 謎の人物はそれをはっきりと視界に入れてから確信した笑みを浮かべた。隠す気のない舌打ちがヴラドから響くが、それ以上の歓声が市場中に響き渡る。


「異議を申すか! ならば、決闘ですわ!!」

「やっぱりお前か……」


 途中からはいつもの口調に戻したユーナが、頭から被っていた布を外す。その下にあるのは赤い上着に白のズボン。かつての戦いを示すような、アイリッシュ連合王国に相応しい軍服を模した物。

 布と同時に天秤も石畳に向かって投げ捨て、左手にはめていた白い手袋を歯で噛んで外す。それを改めて左手で掴み、ヴラドの顔へと叩きつける。小気味のいい乾いた音が響いた。

 あまりの音の良さに横で聞いていたフーマオが顔を青ざめさせたほどだ。ヴラド・ブレイドという男は世界に七人しかいない最高位魔導士の中でも最凶。通常で考えれば絶対に敵に回したくない相手である。


 そんな相手の顔が赤くなる威力で手袋を叩きつけたのだ。自重で手袋が石畳の上に落ち、視線だけで人を殺せそうなヴラドの眼光を真っ向から受け止めたユーナは不敵な笑みを浮かべる。

 喧嘩の予感に多くの者が少しでも近くで見ようと押しかけた。このままでは怪我人が出る勢いの混み具合に、商人達ですら慌てはじめた矢先。歯車機構の交響楽団オーケストリオンの拡声器機能を使って、市場中に放送が広がる。


『さあ、皆さまお待たせしました!! 聖ミカエル祭突発企画、最高位魔導士ヴラド・ブレイド対紫魔導士ユーナ・ヴィオレッド!! その戦いの場は、エーテルロー橋!!』

『エーテルローの戦いから名付けられた橋の上で、時間制限ありの一発勝負よん!! 賭博内容は簡単!! ハナムを許す者はヴラドさん、許さない者はユーナちゃんにという具合よん!』

『賭けられた方が多い奴がハナムの身柄を預かる! さあ全員が裁判官だ!! 陽気にいこうじゃねぇか!!』


 響き渡ったアルトとハトリの声に、一休みしていたマグナスが生姜茶を吹きだす事態となる。いつの間に歯車機構の交響楽団オーケストリオンの配線を弄られてしまったのか。

 歯車機構の交響楽団オーケストリオン自体は魔道具であるが、街中に音を広げて一種の演出としたのは蒸気機関による一般技術だ。下位魔導士であるハトリやアルトがその機能を使っても問題はない。

 それでもまさか公で悪名が有名なヴラドと、本人が嫌がるので公には秘密ではあるが最高位魔導士の一人であるユーナとの戦い。マグナスから見れば悪夢であり、最悪の展開を想像してしまう。


 簡単に言えば最高位魔導士同士の戦い。ロンダニアの街が滅びるのではないかと、マグナスは生姜茶を浴びながら直立姿勢で石畳の上に倒れた。





 静かに目が覚めたヤシロは、病院側からの嘆願により即日退院となった。というのも、迎えに来たナギサが転んでは医療器具へと多大な被害を出したからである。

 悪気はないので見逃されたが、心が痛むヤシロは入院費に色を付けて看護婦に渡した。どれくらい寝ていたのかと尋ねれば、四日間だと言われる。つまり今日は九月二十九日。

 聖ミカエル祭が始まったという事実に、やはり祭りが開始する前に終わらせることはできなかったかと、ヤシロは嘆息する。半ば予想していたが、ヴラドの思惑通りだとも納得する。


 ヤシロが家賃を払いに行く日、ヴラドは一人の女を連れて声をかけてきた。珍しい光景だとは思いつつ、昔馴染みとして話を聞いた。そして依頼を受ける。

 その時点でヤシロは全ての事情を把握していた上で、事件が解決するまで起床できないのも承知した。今回の件でユーナを動かすにはそれくらいの衝撃は必要だろうと考えたからだ。

 ヴラドは勝利に飢えた獣だ。勝利のためならばどんな手でも使う。合理的とは言うが、勝利への合理化を突き詰めているにすぎない。その貪欲さはヴラドの他の感情を食らっているようにも見える。


 勝利とは利益である。利益とは勝利である。利益が大きいほど、戦う意味も強大化になる。大きな利益があれば、大勝利する確率も高くなる。

 ヴラドが利益を求めるのもそういった思考回路だからだ。戦争で軍事費用が膨らむことから見てもわかるように、戦いで勝利するのに金とは重要なのである。

 今回の件でヴラドは大きな著作権を得る。そこから発生する莫大な金は、彼の勝利のために消費される。相変わらず全てが戦闘に特化している男だと、ヤシロは懐かしい気持ちになる。それは嫌な気持ちと似ていた。


 ナギサが嬉しそうに看板娘服を見せてくることに対し、ヤシロはぎこちなく頷くしかできない。可愛いと声に出すのが恥ずかしく、動作でしか表せないからだ。

 入院中に用意されていた私服の白シャツに黒のベストと黒のコート。七分丈のズボンも黒であり、ボーダー柄の靴下は恐らくハトリの趣味で紛れ込んだのだろうと、自分に似合わない柄の靴下にヤシロは落ち着かない気持ちになる。

 頬を桃色に染めているナギサの表情を見て、少しだけ違和感を覚えたヤシロだが、長期間の眠りから目覚めたばかりで頭が回らないためエーテルロー橋に辿り着くまで気付かなかった。


 考えてみればロンダニア橋から向かった方が速かったのではないかという当たり前のことすら忘れていた。ナギサに誘導されるまま到着した橋の上で、流石のヤシロも予測していなかった事態が発生していた。

 クイーンズエイジ1815に起きたエーテルローの戦い。因縁深いルランス王国の名将カルレオンを相手に、アイリッシュ連合王国が連合軍として立ち向かった戦いはヤシロも覚えている。

 あのカルレオンを相手に勝利を収めたアイリッシュ連合王国は戦勝によって毎日が祭り騒ぎのように浮かれたのだ。そこで着目されたのが完成間近の橋である。


 エーテルロー橋は本来ルトランド橋と名付けられるはずだった。しかし歴史的大勝利を勝ち取った年に同じく作られていた橋に、縁起担ぎのように戦いの名前が付けられた。

 世界で最も高貴な橋と評され、ダムズ川の岸辺を繋いで多くの者が利用する橋が今、本当の戦場となり果てようとしている。橋の下を通ろうと動いていた船さえも止められているほどだ。

 警察による通行止めも行われており、外勤主任であるはずのコージが働いているのを見て、ヤシロは大体を察知した。おそらく発案者はアルトで間違いない。ここまで大規模の馬鹿を思いつくのはあれくらいだ。


 よく観察すれば橋自体に緑魔法がかけられていることに、ヤシロは卒倒しそうになった。ただしあまりにも長い時間、日数が正しいが、眠っていたせいで気を失えなかった。

 最高位魔導士である緑鉛玉の大富豪ヴィクトリア・ビヨンドまでこの馬鹿騒ぎに一枚噛んでいる証拠だ。これだけの巨大建造物に『異世界の存在レリック』を付与するなど彼女にしかできない荒業だ。

 おそらく聖ミカエル祭が盛り上がれば収益が上がると見込んでの協力だ。アルトもそれがわかった上で電報かなにかで連絡を取ったのだろう。商魂たくましい彼女は、同時に派手で面白いのも好きなのである。


 ヤシロはナギサに引っ張られるまま、とある民家の屋根に登る羽目になった。というのも橋周辺の道路は人で埋め尽くされ、ヤシロ達と同様に屋根から観戦する者も絶えないのである。

 おかげで住人である老人や一家を支える母親の怒鳴り声が響いているが、今にも始まろうとしている戦いに胸を躍らせている人々のざわめきで掻き消えていた。ヤシロは小さく溜め息をつく。

 一体どれだけの人間がこの危険な事態に気付いているのか。世界で七人しかいない最高位魔導士の対決など、その土地が抉れて崩壊するくらいの覚悟で眺めないといけない。


 橋の上で紫色の髪が風に吹かれて揺れている。黄金蝶の髪飾りの輝きは青空の真上で広がる太陽によって鮮やかだ。着慣れない軍服の模倣品と、使い慣れた杖刀を手にしているユーナ。

 相対するのは骨格を力強く意識したような三十代くらいの男。癖の付いた黒髪に濃い無精髭。彫りの深い鼻筋に黒い眼。黒一色でまとめ上げた服装は、襤褸切れとも見える。

 精悍な顔立ち、強い男の色香、薄くも硬い皮膚が貼りついた整った肉体。それら全てを覆い隠すような死臭が遠くにいるはずのヤシロでさえはっきりと感じ取れた。


 背中にある歪な鉄塊。それはヴラドの魔道具である。あまりにも大きく粗っぽい造形なのは、下手に削って綺麗にまとめあげてもヴラドの使用方法に魔道具が耐えられずに砕けるからだ。

 最高品質の豊潤な魔力を保有した希少鉱石。普通の宝石よりも何倍も高価な魔道具の使用意図は簡単だ。少しでも早く魔法を発動させる。その一点に特化している。

 ヴラドが魔力を注げば、魔力で接続する『別世界レリック』との法則を高速処理する。演算装置とも言える魔道具とヴラドの実力を合わせれば、勝てる者はまずいない。


 ヤシロから見てもユーナの敗北は決定的である。身内贔屓しても意味がない。それほどヴラドという男は危険であり、強い。


 それなのにユーナは笑みを深くしている。むしろ今の状況を楽しんでいるようで、ヤシロにはその気持ちも理解することができた。

 今回の件をヴラドから聞いた時、ユーナの鬱憤が溜まるだろうな、と最初から予測できていた。しかしヴラドほどの男ならば幾多の手段で抑えつけるのが可能なのもわかっていた。

 実際に手の平で思うが侭に転がされただろう。どんなにぶん殴りたくても、状況、場所、契約、あらゆる物がユーナの行動を縛りつけたはずだ。それで大人しくなるならヤシロだって苦労しない。


 問題なのは、ユーナの横には必ず彼女が暴れることを期待している者がいる。その筆頭であるアルトは、彼女のために即席舞台すら用意できる実力があった。

 どんな手段かは意味がない。ヴラド相手ならば速攻即決が鍵だ。つまりは考える時間が長ければ、それだけ看破される隙を作るだろう。ヴラドが判断できない状況へと持ち込むのが一番なのだ。

 それこそ祭りで浮かれた民衆の大騒ぎを利用し、ヴラドの目的の一つを大きく巻き込むくらいの仕掛けを用意する。そして今の状況こそがユーナが思う存分に暴れられる状況だ。


 橋は最高位魔導士の手で補強され、短い時間ではあるが崩壊の心配はない。人避けも行っており、一定の安全は確保されている。そして祭りという高揚した状況が、異様な喧嘩を受け入れる要因となった。

 本来ならば邪魔するであろう傭兵ギルド「剣の墓場」のメンバーもこの状況では手出しできない。既に一対一の舞台として成立している。ただしユーナに有利な状況ばかりではない。

 ユーナが得意とする『破滅竜レリック』は橋上では呼べない。ヤシロも観察していたからわかったが、あれを呼ぶには地面が必要なのである。それこそ体の半分を隠すような。


 どうにもあの『破滅竜レリック』は土竜のように上半身しか見せられない。だから川底ならば問題ないのだが、橋という条件が悪かった。

 しかしエーテルローの戦いで勝利した軍の服を模していることから、民衆の心は多く掴んでいるだろう。その名前を付けられた橋を選んだのもアルトの策略だろうが。

 あとはどれだけ暴れて、民衆の心を揺り動かすか。戦いの場で強い者がもっとも人の心を揺さぶる。ヴラドにとっても有利な条件だ。結局は戦いが始まらなければ意味がない。


 そして合図となるようにピアノを主体とした曲がロンダニアの街中に流れる。初めて聴く曲にヤシロは目を丸くする。詳しいことはわからないが、その音は聞いていて心地が良かった。

 闇夜で一筋の星の光が見えるような、どんな状況下でも光り輝く物が見つかると思える調べ。それが段々と勇ましくなり、まるで戦場に挑む戦士を鼓舞するような調べへと変化する。

 華やかで、優美で、勇敢。それでいてどこか清らかさも感じる。天使の曲と言われたら納得するかもしれないし、努力を続ける者の曲と語られても頷けた。


 しかし橋上で行われている戦いはそんな綺麗な物ではなかった。橋を包囲するように現れた宙に浮かぶ剣。その数は千を超え、一斉にユーナへと向かう。

 ヴラドは一歩も動かないまま決着をつけようとした。そしてユーナの体を中心に剣の球体ができる。見世物だと思っていた淑女ですら口元を覆うほどだ。

 少しの時間が経過した後、一滴も血を流さずに無数の剣を赤魔法の見えない風で防いだユーナが、杖刀を使って一振りずつ荒々しく折っていく。橋の上に散らばる剣の残骸が彼女の道となる。


 それは剣の墓場を踏み越えていくようで、空恐ろしさを感じた者は視線が逸らせなくなった。杖刀がユーナの体を軸に動き回り、そして小さな呪文が呟かれる。


「――抜刀――」


 黒い鞘から分離し、真っ白な牙のような刀身が現れる。そして鞘を左手に、杖刀の本体を右手に、ユーナは広いダムズ川を横断する橋の端に立ったまま動かないヴラドへと向かう。


「――はらはらとはらり――」


 短く呟かれた呪文に応答するように宙に浮かんでいた剣の十振りが白い花弁となって散っていく。その美しさに見惚れた者は歓声を上げるが、ユーナは舌打ちした。

 今の青魔法は相手の魔力を別の形にして無効化する物だが、一回につき一つの魔法しか効果がない。そして千超える剣の内、無力にできたものは十。あとは簡単な計算だ。

 たった一瞬で百以上の同じ赤魔法を実現した。ヴラドの無茶苦茶な魔法の使い方と、それが行えるという実力に冷や汗が出てくる。さすがのユーナも同時に一瞬となると、良くて五つまでだ。


 それでも足を止めるわけにはいかなかった。正直に言えば最終的に女同士の戦いに流れで介入するという、不毛な状況に入ってしまったのは苛立つ。

 だがそれ以上に納得できないこと、怒るべき場所、そして伝えなくてはいけない衝動がある。そのためにユーナは何度も同じ魔法を使う。杖刀を抜刀するという、本気を出しての全力。

 目の前が白い花弁で埋まっていく。足元では割れた剣の欠片が硝子のような音を立てているが、気に留めていられない。目の前にようやく殴れる相手がいるのだ。


「ヴラドさん!! 人を舐めるのも大概にしてください!!」

「――それはこっちの台詞だ――」


 返答のような呪文、そして足元から逆に雨が降るような、剣の欠片による上昇気流。その勢いに押し流されて、ユーナの体が空へと高く舞い上がる。

 ヴラドは一歩も動かず、無傷のまま。騒がしかった声が掻き消えて、ピアノの音だけが歯車機構の交響楽団オーケストリオンから聞こえてくるだけだ。

 面白くなさそうに息を吐き、ヴラドは呆れたように呟く。この戦いまで持ってきたのは良いが、結末がお粗末すぎるが故の苦言。


「必死になる価値もないだろう。あんな『偽物レプリカ』のために」


 利益を生まない『偽物レプリカ』はヴラドの対象外だ。そして冴えない姿のそこそこにしか売れない音楽家であるハナムも同じだ。

 本物を知っているヴラドからすれば、ユースティアは本物の天才だ。一枚絵を動かそうと考える人間のような、船で空を飛ぼうと考え実行に移す人間のような。

 突飛な発想を現実に叶える人間こそが本物と胸を張るのだ。それ以外に価値がある物は少ない。無価値を多く見てきた男だからこそわかる。


 ハナムと蛇女、その両方に価値はない。


 抗議する声は聞こえてこない。異論を述べる者は皆無。反対を申す人もいない。つまらない結果になったと、ヴラドはユーナが落下してくるのを待たずに背を向けた。

 その背中に衝撃が走った。よろけたヴラドは背負っていた魔道具に流星のようにぶつかった黒い鞘が橋の上に落ちるのを目撃する。となると次は空に目を向けるしかない。

 青空と太陽を背に一人の少女が強烈な眼差しでヴラドを睨んでいた。ユーナは悔しかったこと全てを叩きつけるように、改めて杖刀の鞘を強く両手で握り直す。向かう地点はただ一つ、ヴラドという男。


「違う」


 わかりあうような関係ではなかった。最初は絶対に倒すべき敵だと考えていた。ヤシロのためにも戦うべき相手だった。


「違う!」


 外見が美しいわけではない。性格が良かった事実もない。正直に言えば傍迷惑な二人だった。八つ当たりもいい加減にしろと叫びたいくらいだ。


「違う!!」


 だけれど蛇女の叫びは、指にできた小さなピアノダコは、ハナムが流した涙は、目には見えなかった二人の関係は。


「――『彼女レプリカ』の心は本物だった!!――」


 呪文として叫ぶ。同時に魔力で繋ぐ『相手レリック』は決まっていた。ユーナの紫色の瞳が、黄金の蛇の目に変わる。

 その目に捉えられたヴラドの動きが石のように固まる。なにを馬鹿なことを叫ぶのだと、反論もできない。それでも魔法は使える。

 剣の欠片が再度ユーナへと襲いに来る。それを杖刀で振り払い、白い花弁へと変えながらユーナは歯を食いしばって落ちていく。


「――価値がない、なんて言わせない!! それを見過ごすのはわたくしの美学が許さない!!!!――」


 吹き荒れる花弁と煌めく刃の欠片の壁を突き破り、ユーナは強い峰打ちの一撃をヴラドの肩に食らわせた。体勢が崩れたヴラドに対し、ユーナは自分の魔力全てを右拳に込める。

 杖刀を握りしめたまま、流れ星のように橋の上へと落ちてきた少女は怒りを兄弟子とも言うべき男へとぶつける。全力全開、この後に殺されても文句も出ないほどの全てを固い頬へと抉り込む。


「彼女の生き様は美しかった!! それを否定するのは許さない!!!!」


 骨が砕けるような音が橋の上に響いた。そして時間が来る。激しい戦いの末を見届けた観客達は、街中を震わせる歓声を上げた。







 病院で鼓膜治療を受け終わったアドランスは、腹を抱えて声も出ないほど笑っていた。左頬に白魔法でも当分は消えない拳跡をつけられた男が無言で椅子に座っているのだ。

 それ以外の外傷はなく、元気な様子だ。本当のことを言えばアドランスの隣室で寝ているユーナの方が重症である。筋肉痛な上に体中の骨が折られており、一週間は治療が必要な状態だ。

 顛末を聞いたアドランスは、妹弟子ともいえる相手に容赦ないなと思いつつ、勝利がなにより優先事項である男はどんな勝負も負けられないのだろう。死ぬほど負けず嫌いと言われたら、アドランスは迷わずヴラドの名前を出す。


「で、殴られた後にユーナの体中の骨を折って大勝利。だけど民衆はユーナに多く賭けたせいで、ハナム・デリトルは手に入れられなかったと」

「そうだ。ハナムという男は死んだ。処刑された。もう何処にもあの『ハナムという男オリジナル』はいない」


 アドランスは聞きながら笑みを深くする。さぞユーナは隣室で満足しているだろう。ヴラドの狙いだけでなく、ユースティアの目的も砕いたのだから。

 どうにも達成する道が悪役のようにも思えるが、それはそれで本人が選んだ道ならば文句はないだろう。ただしやはり美学に従うと言うだけあって、正義ではない。


「おかげであの馬鹿に右頬を叩かれた。だが契約は契約だからな。今回の聖ミカエル祭で使われた曲の著作権は手に入れた」

「ちゃっかりしてんなぁ。でも噂ではお前とユーナの戦いで流れた曲の方が人気らしいな」

「ああ……ハナムという男の遺作だ。本来ならば聖ミカエル祭応募で落選した物だが、どこかの自称いい男が一日で穴開き譜面パンチカードを用意したんだ」


 エーテルロー橋の上で行われたユーナとヴラドの戦いが印象深い人々によって、朝早く流れた荘厳な天使の曲よりも勇ましい曲が頭に残ったのである。

 まさかの番狂わせにヴラドは少しだけ不機嫌そうな表情になる。あまり感情を表情に出さない男からすれば、中々珍しい光景と言えた。


「しかしあの馬鹿も男が手に入らなかった悔しさから新しい曲を作っている。全く、天才というのはたくましいな」

「お前が言うか、それ。なんにせよ収入見込みは確保してるじゃないか。私なんかこれからのことで赤字の勢いだ」

「……ならばあの『植物娘モンストルム』が会話している奴を殺すか? 中々に倒し甲斐がありそうな奴だしな」

「いいや、いらん。倒して終わりにするというには、勿体ない存在だからな。リリカルも……それがわかっているから話すのだろう」


 少しだけ寂しそうな笑みを浮かべるアドランス。病院の裏側で繰り広げられている会話は聞こえていないが、大抵の内容は察しが付く。

 どうにも『化け物モンストルム』関係で騒がしくなっているようで、猫部長であるケット・シーも勧誘されたと報告している。しかしリリカルと同じように断り続けているらしい。

 人間が好きで、人間の傍で仕事できる幸せを謳歌する『化け物モンストルム』達は、誘ってきた相手の敵にならない代わりに、見逃すように取り引きしている。


 ――おじさんが死ぬなら僕も死ぬ――

 ――一介の猫にできることなど、今にも死にそうな人間の傍にいるくらいですにゃ――


 そんな言葉があっさりと想像できたアドランスは、とりあえず早く退院できるように務めようと心に誓った。何故、どちらも、死ぬ前提なのか。

 あと十年は生きてやる、と微妙に生々しい年数を目標に掲げたアドランスの横顔を眺め、十月の終わりからまた面倒事が起こった場合、利益になるかどうか計算するヴラド。

 秋が深まる。一ヶ月も経たない内に二つの祭りが迫る。その時には私立探偵も帰ってくる頃だろうと、大方の予測をつけて息を吐いた。







 とある片田舎の農村。レプリ・カールという男が引っ越してきた。冴えない容姿の、少しだけ鋭い目つきの丸眼鏡を着けた男だ。ロンダニアにいることができなくなったという。

 男は農作業で体を動かしながら、暇さえあれば子供達に楽器の演奏や楽譜の読み方を教えた。その知識の驚いた農夫は、どこかの音楽家のようだと優秀なレプリに少しずつ心を開いた。

 しかし男は女性と結婚しようとはせず、蝕まれるように動かなくなっていく体で一生懸命に曲を作り上げた。村の子供達の演奏を借りながら、少しでも完成に近付けようと必死に。


 そして多くの村人、成長して大人になった子供達、その中には演奏家として都会に出た者が彼の葬儀に訪れた。誰もが満足そうな笑みを浮かべるレプリに透明な涙を零す。

 最終的に麻痺が全体に及び、柔らかく心臓も動かなくなった男の最期に苦痛はなかった。ベットの上で青空を眺めながら、完成した楽譜を胸に永遠の眠りにつく。まるで石のように体は硬くなり始めていた。

 演奏家となった者は男の胸から楽譜を拝借し、その譜面を読む。荒れた音符だったが、音の流れは蛇の体のように美しく滑らかに描かれていた。一目でわかる名曲を前に、演奏家は村人達に一つ提案する。


 土の下に棺桶を埋める前に。村人達が全員でレプリに向けて演奏をした。曲名は男が完成させて残した楽譜に書かれた「我が愛を女神に」という。

 総出で演奏したので、まるで交響楽団のようだと演奏家は泣きながらも嬉しく思った。男はこんなに愛されて、そして楽譜は残り続ける。演奏家は都会に戻る際、この楽譜を王立歌劇場ロイヤルオペラキャッスルへと持ち込もうと考えた。

 国で一番の演奏家達に死んだ男の曲を知ってもらいたい。これは後世に残る曲だと伝えたい。それが自分に音楽の素晴らしさを教えてくれた男への恩返しだと考えて。


 楽譜の最後に小さく男の筆跡で書かれていた文。その意味を知る者は村人にはいない。しかしとある少女が見たら微笑むだろう。


 ――我が最愛の蛇女に贈る。これは貴方のために作った『唯一無二オリジナル』である――

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