EPⅡ×ⅩⅣ【薔薇の栞《rose×marker》】

 靴音が騒音の中に紛れているはずなのに、レオファルガー広場に強く響いた。白いコートが十一月の風に煽られ、蒸気灯に照らされて浮かび上がる。

 口元を自らの血で汚したアルト、その膝の上で薄目を開けているカナン、二人の前で祈るように両手を重ね合わせたシェーナよりも、少しずつジャック・オ・ランタンに近付く少女。

 紫色の髪には黄金蝶の髪飾り。紫色の瞳には広場を埋め尽くす勢いで増殖している火蜥蜴の輝き、右手に握られた黒い杖刀は背後にいる破滅竜の鱗と同じ色を有していた。


 南瓜頭の半分以上を失っても動き続ける『不死身の化け物モンストルム』は待ち構えた。目の代わりに空けられた三角形の穴の奥に光る青の炎は燃え続けている。

 左手で支える吊り下げ灯カンテラの中では石炭が鬼火ウィルオウィスプを灯し続けていた。青い鬼火と赤い火蜥蜴がお互いの陣地を主張するが如く、煌々と盛りを増していく。

 黒い襤褸切れを纏った案山子のような姿。長い年月を死ぬことができずに過ごしてきた『化け物モンストルム』は忌ま忌ましそうに少女に向かって呟く。


「ああ、やっとわかった……貴様は怪物だ。あれだけの魔力を使っても、動き続ける貴様こそ怪物だ!!」

「迂闊にも先程まで爆睡してましたけどね。正直、杖刀を抜刀できる魔力すら残っていません。ですから」


 少女は、最高位魔導士ユーナ・ヴィオレッドは笑う。獰猛な笑みは、仲間であるアルト達ですら背筋を冷やすほどの恐怖を感じた。


怪物わたくし化け物あなた……どちらが退治されるか、試してみましょう」


 破滅竜が石畳の下に潜り込み、再度広場の地面を吹き飛ばして大きな顎を広げながら姿を現す。その口にはロンダニアの基礎といえる蒸気管が噛み砕かれていた。

 蒸気管から吹き出される白い水蒸気により、騒動と鬼火のせいで薄らいでいた霧が濃くなっていく。熱い蒸気と冷たい空気が混じりあい、住宅の窓硝子を次々に曇らせていた。

 ルトランド通りの蒸気灯が追いかけるように消え始める。暗くなった街路を出歩く者はおらず、しかし家の中から様子を窺おうと人々の息遣いが増え始めた。


 シェーナはその場に座り込み、両手で自分の体を抱きしめた。堪え切れない緊張感と殺気が、電撃のように体を震わせる。喉の奥が詰まって呼吸もままならない。

 服の袖で口元の血を拭いながらアルトはシェーナの体を引き寄せた。膝の上ではカナンが白く染まっていく視界と、遠ざかる星空に向かって思わず笑みを零す。

 世界が霧の中に沈んでいくように、静かになっていた。しかし黒く大きな影から同じ色の靄が石畳に溢れかえり、押し寄せる津波のように街中へ広がっていく。


 這いずり回るように広がる靄は細い路地、橋の上、ひび割れた壁、果てには時計塔クロックワークユニバースの頂点まで。際限なく、自由に、霧に隠れながらもどこまでも。

 空には星よりも強く輝く青い鬼火が分裂して数を増やしていく。幾千、幾万、そして幾億。あまりの数に霧が青に染められていき、流れ星よりも遅いながら地上へと落ちてくる。

 路上にできた剣の墓場、ライムシア劇場、マストチェスター宮殿、大逢博物館、美術館ナチュラルギャラリー、スタッズストリート108番に至るまで。ロンダニア全てへと平等に迫りくる炎。


 火打ち石がぶつかり合うというには重厚すぎる巨大な歯の噛み鳴らし、同時に巻き上がる火花が導火線を伝うように黒い靄の上を走っていく。

 青く染まっていたはずの霧が赤味を増して紫色へと変化していき、突如発生した熱に吹き飛ばされていく。無数の火蜥蜴が落ちてくる鬼火へと食らいつくために跳んだ。

 空中でぶつかり合う色の違う炎に煽られて、ユーナとジャックも足を踏み出した。魔力を吸う杖刀に対してジャックは魔術で鬼火を生み出す石炭の形を小型剣ナイフへと変える。




 花火よりも賑やかな音、昼よりも明るい炎の空。誰もが見上げる中、警官達に指示を送っていたコージは足元の石畳を見て仰天する。

 火蜥蜴によって発生する焦げの色が薄い。落ちてくる鬼火は火蜥蜴によって空中で少しずつ合体し、巨大な壁となって迫ってくる。その距離はゆっくりと近づいていた。

 あまりの炎の数にコージは額から流れる汗を拭い、顔を上げる。火蜥蜴は生まれ続けているが、鬼火も無限の如く溢れ続けている。雌雄を決するのはお互いの魔力。


「ユーナくんの魔力が負けているだと!?」


 五日間の昏睡。その間も破滅竜の杖刀は契約に従ってユーナの魔力を吸い続けていた。そして目覚めたとはいえ、全快したとは言えない。

 地上を埋め尽くした黒い靄に安堵していたコージは、近くにいた警官に住民の安全最優先と伝え、破滅竜の頭が見えるレオファルガー広場へと走りだす。

 最高位魔導士、その中でも脅威的な魔力を有するユーナが押し負けている光景。もしもの時を考え、コージは懐に忍ばせている拳銃の弾数を確認する。


 名誉あるコチカネット警察の一員として、なによりギルドのリーダーとして。コージには譲れない想いがある。ユーナと出会う前から存在し、出会ってから強くなった決意。

 ロンダニアの平和。仲間との騒がしくて楽しい日々。警察として住民の笑顔を守ること。その全てを叶えたいと願い、中を押してくれる少女と水晶宮で出会った日を思い出す暇はない。

 硝子が冷たい空気と炎の熱に揺らされて音を立てている街中、蒸気灯が点滅しているのもわからない明るさの中を走り続けるコージは、濃くなる蒸気のような霧へと踏み込んだ。



 青い鬼火を纏った小型剣に防がれながらも、ユーナはジャックの頭が欠けた側から杖刀を振るう。地面の上を滑るように移動し、時には逆立ちのように蹴りを繰り出すほどだ。

 品位がある戦い方ではない。杖のように長い刀のため、まるでバトン回しのように体の線に沿って動かす時もあれば、槍のように突き出すことも。手首で回転させ、空高くに飛ばして拳で殴ろうと試みたのも一度や二度ではない。

 しかし防がれて遠くに杖刀が飛んでも、意志を持った杖刀は壁や地面を跳躍して確実にユーナの手元へと戻ってくる。青い鬼火がユーナの髪先を燃やそうとしても、杖刀が盾の如く立ち塞がる。


 時にはユーナの体が踊るように回転し、そのまま裏拳でジャックの体を殴り、背後から杖刀がジャックの頭上に迫ることすらある。一人で戦っているようには見えない。

 しかしジャックも鬼火を操りながら極力杖刀に触れないように回避を続けては、隙を見てユーナに剣先を向ける。杖刀と石炭の剣がぶつかるたびに火花が飛び散って弾けた。

 弾かれて体勢を崩す都度にユーナは握りしめ続ける右手を目視し、左手で杖刀を握り直して距離を取っては周囲を窺う。アルト達の位置を確認し、再度ジャックに向かって突き進む。


「やはり石炭が邪魔ですわね……わたくし、その『冥府関係レリック』とは相性が悪いというのに……」

「おや? 最初の時は『別世界レリック』や『この世界モンストルム』でもないと言っていたのに、前言撤回か?」

「ええ、そう思いましたわよ。でもわたくしの杖刀と同じならば……説明がつく」


 言葉を続けながらもユーナは攻撃の手を緩めず、ジャックも隙を見せない。何度も剣と刀の間に火花が散り、突き破られた石畳の下から溢れ出る蒸気は増えていく。


「契約……もしくは約束。法則とは違う方法で魔力を与え続けることで『違う存在レリック』から授かる、世界を逸脱する品」

「御明察!! これは無限に近い魔力を持つ『化け物わたし』や怪物きさまにしか扱えない!! 魔道具ではなく、魔術品でもない!」

「わたくしは一応『逸品ジェム』と名付けてはいますけど……壊し方は御存知かしら?」

「ああ、もちろん。然らば……燃え尽きてくれ給え、忌ま忌ましい杖刀よ!!」


 小型剣から青い鬼火が豪快に立ち上る。そのたびにジャックの顔に空けられた口のような穴から涎らしき物が零れる。魔力を吸い上げられ、空腹に耐えられない証し。

 吊り下げ灯の中に入れて直接触れないようにしていたのは、少しでも魔力の吸い上げを和らげるため。その分、鬼火の力は抑えられていたようなものだ。

 ユーナは深呼吸一つで高鳴る心臓を整え、笑う膝を叱咤して立ち続ける。今にも貧血で気絶しそうな体に鞭を打ち、右手に残る感触を確認しながら両手で杖刀を握りしめる。


 悪魔から与えられた煉獄の石炭、それはジャック・オ・ランタンという『化け物モンストルム』が生まれながら強制的に契約させられた逸話。

 破滅竜の杖刀、それはユーナにとって背後で火蜥蜴を生み続ける破滅竜と永劫に近い約束を交わした証拠。どこまでも広がる『無限の世界レリック』から見つけ出した奇跡。

 ぶつかるたびに火花が散るのは、お互いに魔力を吸い上げようと拒絶しているからだ。反発し、衝撃が何倍にも重なって返ってくる。貪欲に、似た物を許さないという怒りが手の平に伝わる。


 青い鬼火が弾幕となってユーナへと迫る中、火蜥蜴が群れを形成してぶつかる。お互いに食い合い、力負けした方が消滅していく。これは『お互いの武器ジェム』にも通じる現象だ。

 より強いのが形を残す。そして魔力を吸い上げる『逸品ジェム』にとって、源泉となる主の魔力で全てが決まる。魔力が多い側が勝つ。ユーナは額から一筋の汗を流しながらも、一歩踏み出した。

 火蜥蜴の群れを飛び越え、ジャックが握りしめる小型剣に真正面から杖刀を振り下ろす。硝子同士が擦れ合うような反響音に、シェーナやアルトは思わず耳を塞いだ。


 一種の磁場が働くように、反発しながらも杖刀と小型剣は触れあったまま動かせなくなる。地面に足を着けたユーナは、奥歯を噛み締めながらジャックの顔を見上げた。

 ジャックもまた涎を零しながらユーナを見下ろす。自分にとって天敵である『魔力を吸う物ジェム』を手にして戦うことなど、夢にも思っていなかった事態。

 お互いに両足を広げてその場から移動せずに押し合う。軋む音が次第に大きくなり、ユーナの息が荒くなる。しかし目の輝きだけは炎を灯すジャックに負けないほどだ。


「……ああ、本当に。人間は愛おしい。たとえ怪物きさまでも」

「光栄ですわ。わたくしも『化け物あなた』達が好きですわ」

「しかし」

「だけど」


『この場は譲れない!!!!』


 お互いの言葉が同調し、爆発に近い音が天空に響き渡った。同時に空を埋め尽くしていた炎が青や赤も関係なく、衝撃で吹き飛ぶように消失した。

 熱が街全体の水に伝播していき、場所によっては一部水面が蒸気へと変化する。そして街の冷たい霧へと同化しては、夜の中へと溶け込んでいく。揺れていた硝子は霧の冷気でひびが入る事態も発生した。

 レオファルガー広場でも二つの『常軌を逸した物ジェム』がぶつかったことで斬り裂くような風が巻き起こり、その場にいた誰もが瞼を強く閉じてしまうほどだ。


 アルト達が瞼を開いた時には、常時よりも濃い霧に覆われて一メートル先も見えない状況となっていた。不気味なほど静かな広場に、破滅竜の姿が消えている事実にカナンは気付く。

 どちらが生き残っているのか。それとも共倒れか。それすらもわからないほどに互角な勝負の行方が見えない。しかし金属音が断続的に聞こえたと思った矢先、アルトの足先になにかがぶつかる。

 シェーナが動けないアルトの代わりに拾い上げたそれは、黄金蝶の髪飾り。強い衝撃を受けた割には傷もないが、留め具の部分が大きく壊れていた。アルトが目を丸くして、奪い取るように黄金蝶の髪飾りを手に取る。


「おい、姫さん……これ大事なもんだって言ってたじゃねぇか!? 死んでも手放せないって昔に言ってたもんだろ!? おい!!」

「あ、アルトん、ちょい声でかい……シェーナんが驚いているやん。けど……この髪飾り、もしかして」


 明らかに金具と髪飾りの年代が違うのを知ったカナンも難しい表情を作る。不安に襲われたシェーナは、霧の中から『化け物モンストルム』が出てきたらどうしようと恐ろしくなる。

 そんな最中、駆けつけたコージがアルトの声を頼りに近付いてくる。荒れた地面に足を取られたのか、躓きながらも無傷で三人の元に辿り着き、安心できるような頼もしい笑みを見せる。


「男前! 姫さんが負けるはずないよな!?」

「当たり前だろう、アルト。しかしこの霧ではなにも見えない……とりあえず少し落ち着け。カナンの傷に響く」


 堂々とユーナを信じていることを前面に出したコージの言葉に、アルトは気まずそうにしながらも口を閉じた。その様子がおかしくてカナンは小さく笑う。

 そして霧の奥から聞こえてきた足音に、四人は視線を一斉に向ける。力は入っていないが、確かに真っ直ぐ歩いてくる。シェーナが目を凝らそうとした矢先、霧の中に黒い人影ができる。

 人影は手を伸ばしてくる。その腕が妙に細いことに気付いたカナンが声を上げる前に、霧から飛び出た案山子のような手がシェーナの服を掴んだ。


 引き寄せられたシェーナは絶望した。欠けた南瓜頭が間近に迫り、目のような穴で輝く青い炎が嫌な熱を肌に伝えてくる。

 コージが銃を構えるが、ジャックは盾としてシェーナを抱きしめたまま胸の前に持ってくる。深い霧の中では、狙いを定めることも一苦労だ。

 なにより不死身と言われる相手に対して警察の銃が効くのか。迷っている間にも、ジャックはシェーナを抱えていない方の手の平に載せた石炭の欠片から鬼火を発生させる。


 一瞬で空が青い炎に染まる。霧を吹き払うほどの熱は消えていたが、藁や油に引火すれば街一つ焼失させることは容易いだろうと思わせる数。

 執念としか言いようがない意思。コージが向ける銃口よりも恐ろしいほど、ジャックは街を燃やそうとしている。二百年以上前に死んだ友のために、動き続けている。


「もう……私を倒せる者は、いない。終わりだ……人間。燃えろ!!」


 シェーナの二つに結った髪の内、一つに青い炎が燃え移った。嫌な臭いが鼻を掠めて、勢いよく燃え上がっていく桃色の髪が肌に触れて痛覚へ激しい信号を送る。


「い、や……助けて、エリック!!!!」


 自然と声から出てきた叫びの中に混じる名前。それにシェーナだけでなくアルト達が驚く前に、ジャックの頭に紙がぶつかって地面へと落ちていく。

 押し花にした赤い薔薇を栞に仕立て上げた、細長く小さな紙。水に濡れて皺やたわみができている上に、強い力で圧迫されていたのかよれている。わずかに焦げた部分には、人の指紋がある。

 足音が迫る。同時に地面の下から強い揺れが近付き、なにかがせり上がってくる気配。ジャックは栞が飛んできた方へと目を向け、霧が吹き飛ぶのを感じ取った。






「乙女の命を燃やすんじゃねぇですわよ!!!!」





 片手で少女をジャックから引き剥がしつつ、案山子のような胴体を力強く蹴り飛ばすユーナ。そして破滅竜が地面を突き進み、街の中心から再度火蜥蜴を生み出して空の炎を食らい始める。

 空中から回転して落ちてきた杖刀がシェーナの髪の炎を打ち消す。わずかに火傷した頬を押さえながら、シェーナは呆然と助けてくれたユーナの顔を見上げる。傷は多く疲労の色も濃いが、紫色の瞳は輝いたままだ。

 いきなりの登場にアルト達も咄嗟に言葉が出すことができず、街では鬼火を食らい尽くした火蜥蜴が地面へと落ちて街を真っ赤に染め上げていた。それまるで街全体が炎で燃やされているような光景。


「エリックさんじゃなくて申し訳なかったですわね。そしてこれ、お返ししますわ」


 ユーナは少女の体をコージに預けつつ、地面にしゃがみこんでから栞を拾い上げる。シェーナはその栞を手の平に載せて、涙が滲んでくるのを我慢できなかった。


「……ずっと、持っていたのか? そんな吸血鬼が残した些細な痕跡を!?」


 起き上がったジャックは石炭の欠片も消えたことに戸惑いながら、魔術で青い鬼火を空中に浮かばせる。しかしその勢いは石炭があった頃に比べれば圧倒的に弱い。

 ユーナは杖刀を手に戻しながらジャックと向き合う。一切の戸惑いも迷いもなく、自信満々な声で堂々と返事する。


「当たり前ですわ。わたくしが今宵、貴方の前に立ち塞がった理由はこの栞があったからです。だからわたくしは『美しい化け物モンストルム』が好きなのです」


 大きな銃声で目覚めた時、最初に感じたのは右手が痛いこと。強く握りしめすぎて、爪跡が手の平に残っていた。鬱血の跡よりも濃厚に鮮やかな赤い花。

 その花言葉は世界一有名で、誰もが言葉に酔いしれる。しかし少女に贈られた花言葉は、もっと深い意味があった。伝えられない気持ちを、花で表した少年。

 カナンが読んでいた花の本を開いて調べてみれば、簡単にわかること。しかし指先でなぞればなぞるほど、文字に宿る美しさに心が浮きたってしまう。


 赤いバラの葉には無垢の美しさ、貴方の幸福を祈る。五本の意味は貴方に出会えて本当によかった。次に色を探っていく。

 黒赤色には決して滅びることのない愛、永遠の愛。帯赤には私を射止めて。桃色には美しい少女

 蕾は二つ。赤に純潔、貴方に尽くします、純粋な愛、愛の告白、若さと美しさ。白には少女時代、愛するには若すぎる。


 カナンはこれを噛み砕いて文章にした。帯赤の部分に関して黄色の薔薇と混同されたようで、珍しく間違えた私立探偵の顔を思い浮かべて笑みが零れたくらいだ。

 だから正確には、愛するには若すぎる美しい少女。君の幸福を祈り、尽くそう。決して滅びることのない愛と共に、私を射止めてほしい。君に出会えて本当に良かった、である。

 もしかしたらわざと間違えてシェーナに答えを探させようとしたのかもしれないが、ユーナは吸血鬼にとって少女がどれだけの存在であったかを思い知った。


「……わたくしがおばあ様黄金律の魔女に拾われたのは赤子の頃。クイーンズエイジ1666の九月三日」

「いきなり、なにを……いや待て、その年は……日は!?」

「誰もが火から大事な物を守ろうとダムズ川に投げ、流れ着いた用水路の先に赤子の声。炎が逆にわたくしを守っていた」


 悪魔の年とも呼ばれる、ロンダニア大火が起きた年。そして九月一日からの四日間でロンダニアの街の多くが燃えたことは、アイリッシュ連合王国は多くの記録で残している。

 ジャックもよく覚えていた。友が死んでから数十年後に、結局街は燃えた。火薬など使わずとも、パン屋の小火ボヤで多くの家屋が燃え、再建されたのを間近で見ていた。


「わたくしは幼い頃から言い聞かされました。決して忘れるな、と。そしてロンダニアが石造りになった理由も、人々の努力も、病が消えたことも全部」

「ユーナくん……」

「だからわたくしはこの街が好き。人々が炎に負けず、立ち向かうために再建されたから。それを美しいと思うから……わたくしは貴方に何度だって立ち塞がります」


 何度も聞かされた大昔の火事。生後間もないユーナが用水路に流れ着いた理由は推測でしかないが、火から逃げる人々にとって水は救済の一手だった。

 木の箱内部に精密に編まれた籠の中へ布を敷き、赤子は衝撃にも守られていた。布の上にはどこから落ちてきたのか、それとも身分の証明なのか。黄金蝶が泣く赤子の胸の上に。

 小さい頃はブローチに。大きくなってからは金具を付けて髪飾りに。ユーナにとって自分の始発点ルーツを探る物理的な証拠はそれしか残っていなかった。


 ただユーナは黄金に光る蝶よりも、石畳の街並みが好きだった。通り過ぎる人々が前を向いているのが好きだった。ダムズ川を赤くしてしまう夜明けや夕焼けも好きだった。

 しかし一番好きなのは夜空。太陽が沈みきる前の青と赤が混じった紫色の空で、一際強く輝く一番星が好き。まるで人の輝きが空を照らしているようで、星空に何度も手を伸ばしたことがある。

 好きな物全てを表現するのにふさわしい単語は一つ、美しい、だった。いつしかユーナは美しい物が好きと公言するようになった。美しい物のために動ける自分がいることを知った。


「もしも諦めないというなら、わたくしに立ち向かいなさい。何度だって、何百年でも、嫌と言うほど付き合って差し上げますわ」


 杖刀の剣先をジャックに向け、ユーナは確固たる意志を言葉に宿した。二百年、少女の姿で生きてきた最高位魔導士の白魔法を疑う余地はない。

 来年も、再来年も、いつまでも。目の前にいる少女はジャックが街を燃やそうと思うたびに邪魔をしてくる。大好きな物を、美しい物を、守るためだけに。

 声にもならない叫びをあげてジャックは鬼火を引き連れてユーナへと突進する。考えがあったわけではなく、我武者羅に目の前の脅威に挑もうとした無謀。


 青い鬼火が頬の横を通り過ぎて焦がすことも気に留めず、ユーナは杖刀でジャックの胸上を突く。呆気ないくらいに軽く、ジャックは石畳の地面を転がる。

 半分以上欠けてしまった南瓜頭から嗚咽が零れ、それでも立ち上がろうと震える木の手足を動かす。しかし力が入らずに泳ぐような姿勢のまま起き上がれない。

 鬼火も主の勢いが失ったのと同調するように弱まって消えた。ロンダニアの街は最早赤い炎に照らされ、青い炎が一切ないことを確認している。


「わ、私は……うう、燃えろ……燃えてくれ……頼むから、動け!! 我が友に、誓っただろう!! 動け、動け、動け!! 木偶の坊よ、動け!! そして燃やせ!! 全部、全部ッ!!」


 言うことを聞かない体の代わりに声を出して力を入れようとするジャックだが、もう両腕に体を支える力は皆無だった。足だけが壊れた操り人形マリオネットのように不様に藻掻き続けている。

 コージはカナンに頼まれてその体を背負い、ユーナの横へと近寄る。殴られて傷だらけの顔のまま、カナンは足掻くのを止めないジャックへと話しかける。


「そして『化け物モンストルム』が集う夜を作って……自分ごと仲間を燃やすつもりだったん?」


 ジャックの動きが止まる。コージは大いに驚いた表情を浮かべたが、ユーナは承知していたのか油断せずにジャックの一挙一動を見つめていた。


「最初から僕言うてたやん。吸血鬼エリックんも、茶色の小人ブラウニーも……全部意味ないって。朝には全部消すつもりだったんやろ? 青い鬼火も、自分自身すらも」

悪逆なる偉大な鬼火イグニス・ファトゥス……不死身すらも燃やす大魔術。死ではなく、焼失。死ねない貴方が、唯一残された手段だったのですね」


 どうすれば死ぬことができるだろうか。それは『不死身の化け物モンストルム』がずっと考えて悩んでいた。この世界は不死身には醜いくらいに眩しすぎる。

 人間は好きだ。しかし置いていかれる。嫌われることもあって、全てが善ではない。それなのに夜明けに照らされた人間の横顔を美しいと、何度だって感動してしまう。

 大切な友人が明日には世紀の犯罪者として殺されるかもしれない世界。明日には火事で全てが煙で見えなくなるかもしれない。明日には可愛い赤子が生まれて、老人になって死んでしまうかもしれない。


 死ぬなら人間と一緒に死にたい。人間と同じように死にたい。人間に見られて死にたい。何度も、何度も、何度も、死にたいと願って叶わない。

 とある吸血鬼は死ぬことを諦めた。しかしジャックは諦めなかった。他の方法を探し続け、人間への恨みを募らせながら、たった一つの結果に辿り着く。

 消え失せる。体も、命も、魂も、存在全てを消す。天国にも地獄にも歩めないならば、無へと進む。苦しいも、楽しいもない。だけれど悩まなくていい一種の到達地点。


「だから首なし騎士デュラハンは協力したんや。赤帽子レッドキャップをいざという時に殺せないとしても、アンタが燃やしてくれる思ったん」

「他にも死ねないと悩む『不死身モンストルム』は多かったでしょう。もしくは自殺する勇気がない、自死するには愛されてしまったことを思い出してしまう『化け物モンストルム』もいた」


 最低な人生を生き抜いた狼男。とある修理工に愛されるようにと願われてしまった雨樋像。悩んで、疲れて、それならば最後に大きな火の祭りを。

 大好きな人間と一緒に燃えて消えてしまおう。最低な人生に派手な最期を飾ろう。大切な思い出を胸に抱いたまま、一つの街を燃やして共に消えて行こう。

 道中に意味はない。全ては結果次第。理由も理屈も道理も全てを燃やして、誰も知らない祭りの夜明けへ。全て消えた朝が地獄のような夜をさらってくれる。


「エリックんに拘ったのは、そういうことやろう? 一緒に消えようって。でも……エリックんは死ぬのは諦めても、生きるのだけは諦めきれなかった」


 カナンが横目でアルトの横に立っている少女を見る。吸血鬼が最後まで守った、小さな命。彼女のために吸血鬼は生きたいと願った。

 たとえ『化け物モンストルム』でも。ライムシア劇場の灰光灯を浴びて輝く少女を眺めて、薔薇を贈るだけでもいい。そんなささやかな幸せを望んだ。

 目の前から消えても血に残った魔力で少女の命を繋いだ。その執念は、奇跡というには恐ろしいくらいで、偶然と済ますのは物足りない。


「だから、なんだ? ならばわかるだろう!? 死ねない私の絶好の機会を奪い、あまつさえ友の仇も討たせてくれない! それがお前達の正義か!?」

「違います。わたくし、ちゃんと貴方に名乗ったでしょう? その南瓜頭から抜け落ちてしまいましたの?」


 ――人助けギルド【流星の旗】の一員ユーナ・ヴィオレッド――


 ジャックの頭の中に魔法の呪文のように浮かぶ名乗りの口上。正義でもなく、大義でもなく、ただ美学に従って動き続けた最高位魔導士がいた。

 しかし最高位魔導士が自らそうだと名乗ったのはライムシア劇場だけ。ジャックの前では魔導士ではなく、人助けギルドとして。


「わたくしは人という星を輝かせる紫暗しあんの空。望むならば『どんな化け物モンストルム』も助けます。ジャック・オ・ランタン、わたくしは」

「やめろ!! 聞きたくない!! 人間の綺麗事などうんざりだ!! 耳を傾ければ心地いいだけの、戯言なんか!!」

「……わたくしは友を想う貴方を美しいと思います。ですので、ここまでです」


 そう言ってユーナは杖刀をすっかり荒れた石畳に力強く突き刺した。同時に街の中心で姿を現していた破滅竜も霧に紛れて消え、火蜥蜴達も陽炎のように揺らめいて消失する。

 カナンとアルトが苦笑いし、コージとシェーナは目を丸くする。要は戦闘放棄。深々と突き刺さった杖刀を再度引き抜くことは簡単ではなく、南瓜頭に手を添えていたジャックが目の奥の青い炎を点滅させた。


「どうせ貴方にはもう街を燃やす手段も、道具も、魔力もありません。ならば後は好きにしなさい。ただし誰かへ危害を加えるというならば、わたくしはもう一度立ち塞がります」

「な、な、ななななな!? ば、馬鹿、なのか? それとも私を騙すための策か?」

「いやー、ユーナんの場合これが本気やからなぁ。困ったもんやわぁ」


 あまりのことに動揺して思った内容をそのまま口にするジャックに対し、カナンは力のない笑みで眉を八の字に下げる。コージすらも肩から力を抜いている。

 腕組みして仁王立ちしているユーナの姿を見上げ、ジャックは混乱が治まらない。ただし一つだけ、不覚にも嬉しいと思ってしまった。美しいと言われたのは人生初めてだった。

 人間の頃は大嘘つきで、人を救っても感謝されることはなかった。それで良いと考えていた。ジャック・オ・ランタンとなった後は、罵られる方が多かった。


 ただ美しいと言われたならば、きっとなにも思わなかった。しかし友を想うと言われた際、ジャックは二百年ぶりに泣きたい気持ちが溢れてくる。

 死刑の光景を見てからずっと忘れられなかった大切な友人の思い出。たとえ世紀の犯罪者と罵られ、幾度の祭りで彼を模した人形が燃やされても、ジャックは覚えていた。

 こんな『化け物モンストルム』と友人になってくれた人間。溌溂としていて、人望も厚く、少し熱血漢な男。彼のために、そして自分のために、街を燃やそうとした。


「グイ……あいつを、もう燃やされたくないのに……畜生。街を……燃やそうとしても、邪魔が入って……私は……」

「貴方、グイ・バッカスに助けられたのでしょう? その命を大切にしなさいな」

「だけどっ!! あいつが燃え続けていい理由にならない!! 人形とはいえ、あいつはただ……うう……」


 無力な自分を呪うように、ジャックは嗚咽を零し続ける。大好きな人間、大好きな友人。なのに十一月五日の祭りは忌ま忌ましいままだ。


「……だったら、こういうのはどうでしょう?」


 溜め息をつきながらユーナはジャックへと近付き、案山子のように軽い体を抱え上げる。欠けた南瓜頭に入ってきた言葉は、考えもしなかった言葉だった。






 多くの『化け物モンストルム』が、体の半分が動かせない狼男に肩を貸す南瓜頭についていく。青い鬼火を宿す石炭はどこにもなく、人間の勢いに負けてしまった。

 横目で剣が無尽蔵に突き刺さった路地を見る。元は人間であった『化け物モンストルム』達の遺体が無惨に刃に貫かれている。この道を選んだ者は全滅であるという証し。

 運良く、もしくは運悪く生き残ってしまった彼らに、いまさら文句を言う力すら残っていなかった。ただ南瓜頭から零れる青い鬼火を灯りとして、行列となって街を去るしかない。


「おい……何処に行くんだよ? 計画は失敗……死ねないまま、何処に?」


 憑き物が落ちたように、それでいて疲れた声で狼男は南瓜頭に尋ねる。少しずつ遠ざかるロンダニアの街を、懐かしいと思うことはない。

 失っただけの戦いと計画だった。褒美となる結果は得られず、また最低の道を歩むのかと狼男は深々と息を吐いた。

 しかし狼男は自殺しようとは思わなかった。どこかの意外とお人好しだった雨樋像に救われた命を、いまさら捨てることはできない。


「世界に」

「あん?」


 聞こえてきた単語に狼男は耳を疑った。それは背後を歩いていた多くの『化け物モンストルム』も同じで、大きくざわめいた。


「世界を巡って、一年後の十月三十一日ハロウィーンに……人間を脅かそう。合い言葉も広めるんだ。全世界に、どんな祭りにも負けないくらい賑やかに恐ろしいほど」

「頭おかしく……なってたな。半分以上欠けて、ひでぇもんな」


 青い鬼火が燃え盛り、髪の毛のように広がり始めた南瓜頭を見て狼男は低く笑う。背後にいた『化け物モンストルム』の中には行列から離れる者も少なくなかった。

 それでも長い道のように、行列は維持されたまま海へと向かう。世界を巡るには、島国であるアイリッシュ連合王国から大陸へと航海に出る必要がある。


「そして十一月五日グイ・バッカス・ナイトを塗り潰すんだ! 秋の祭りは『化け物が集う夜ハロウィーン』だって、全ての人間に思い知らせるんだ!!」

「……そりゃあ最高だな。本気で狂ってやがる。最低な気持ちが吹き飛ぶほど、馬鹿な計画だ。乗ったぜ、大将!!」


 楽しそうに笑う狼男に、ジャックは笑顔を返す。その笑い声に連れられて行列の長さが少しだけ増えていく。愉快な話は『化け物モンストルム』も大好きだ。

 世界には多くの『化け物モンストルム』が人間の傍らにいる。王家の墓にも、井戸の中にも、誰も住んでいない屋敷や屋根裏にも、どこにでも。

 ジャックは魔術を使って外見を整える。南瓜頭の上に青い鬼火で王冠を作り、黒い襤褸切れは貴族服をわざと荒れた形へと。手には白い手袋、靴は石畳によく響く靴底を用意する。


「待っていろ、人助けギルド【流星の旗】よ……来年、最初に尋ねる家はお前達の借家だ」

「ああ、そりゃあいいな。ヤシロはレシピさえあれば美味いの作るからな……あらゆる人間から菓子を奪ってやろうぜ!」


 包帯を体半分に巻きながら狼男は背後にいる『化け物モンストルム』達を活気づける。堂々と、祭りと称して、大好きな人間と遊べる一日。

 それは人間を襲うよりも魅力的な言葉で、仲間を失うこともない。街は南瓜の提灯ランタンで燃えているように明るい夜、それを想像するだけで浮き足立つ。

 大型船を魔術で作ったジャック・オ・ランタンは、夜明けが迫るアイリッシュ連合王国から立ち去る。不死身であるならば、焼失以外の道もある。


 気が遠くなるような年月が必要かもしれない。しかし二百年よりは短い間に、世界中に広げられるだろうと私立探偵も太鼓判を押している。

 何故ならば飛ぶ鳥を落とす勢いでカメリア合衆国が十月三十一日ハロウィーンで盛り上がっている。蒸気機関の発達、海中ケーブル、技術の発展により世界は小さくなっている。

 一つの祭りを世界中に広げることも夢ではない。特に世界中に存在する『化け物モンストルム』の祭りならば尚更に。そして巨大な祭りの灯りが、いつかは人形を燃やす祭りを潰す。


「グイ……待っていてくれ。私の祭りで、君の祭りを失くす。これが今の私にできる祭りへの小さな反逆イグニス・ファトゥスだ」


 海鳥が鳴き声を上げる青空から逃げるように、夜空が浮かぶ海洋へと向かう。星がまだ残る暗闇の中へ『化け物モンストルム』達は舵を取るのであった。

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