EPⅡ×ⅩⅢ【狼男の涙《werewolf×teardrop》】

 ロンダニア中で『化け物モンストルム』達が集い、騒ぎを起こしている夜。ライムシア劇場の前でも人間と『化け物モンストルム』はぶつかり合っていた。

 包丁片手に勇ましいおばさんが二足歩行の魚を追い返し、大きな耳が特徴の蝙蝠は赤子の泣き声だけで気絶している。大声を出す泣き女は耳の遠い老人相手に苦戦していた。

 相手によっては喜劇コメディのような光景が繰り広げられていたが、ライムシア劇場には狼男を先頭に選りすぐりの『化け物モンストルム』が集まっている。


 小さな妖精シーオーク妖精の取り替え子チェンジリング宝箱の小鬼ボーグルなど、様々な『化け物モンストルム』が一個中隊の如く動いていた。

 特にチェンジリングは元は人間の赤子であったはずが、妖精の悪戯による新生児交換によって『化け物モンストルム』側として行動する存在である。今も人間の姿のまま、人間ではありえない魔術を行使する。

 劇場関係者は目の前の光景に恐怖を抱き、しかし隠しきれない好奇心から柱の影から『化け物モンストルム』達を眺める。普段とは逆の、立場の入れ替え。


 逃げ場はない。ロンダニアの街全体で『化け物モンストルム』が暴れているのだ。警察ヤードが動いているとなれば、彼らに任せるのが一番だ。


 栄光あるコチカネット警察、世界で一番と名高い誇りが轟くからこそ、住民は彼らを信じる。たとえ目の前で牙を見せつける狼男がいたとしてもだ。

 シェーナは煙が立ち上っていく空を窓硝子越しに見つめる。不安で仕方がない、しかし飛びだしたい衝動にも駆られている。まるで『化け物モンストルム』の叫びに呼応するように。

 寂しい、人間がいなければ気付かなかった、人間なんか消えてしまえばいい、そうすれば孤独なんて知らなかった、好きという気持ちは芽生えなかった。体の奥底、腹の辺りに沸騰する血溜まりがある感覚。


 触れてみれば確かに臍が熱い。まるで煮え滾って抑えきれないほどの熱。純粋なほど剥き出しの感情。一瞬だけ、目の前が赤くなる。

 今はもう白魔法のおかげで消えた傷口が疼くように、苦しいほど訴えてくる熱はどこかシェーナと解離していた気がする。知らない他人の感情を受け止めているようだ。

 横にいるミレットはそんなシェーナの異変に気付きながらも、外から目を離すことができなかった。襲い来る『化け物モンストルム』の中に茶色の小人ブラウニーの姿を探す。


 ライムシア劇場の有名な柱に背を預ける双子の前、階段の踊り場で歯を見せて笑みを浮かべる青年が立つ。待っていたと言わんばかりに、狼男ワーウルフを目に映す。

 相手も同じことを考えていたらしく、狼の顔ながら器用に笑う。珍しい光景に道具係のドンタコスが近くで見ようとして、照明係のムルムに止められていた。


「ヤシロはいねぇのか……まぁいい。殺すんなら、お前の方が後腐れない。剣の墓場も必要なさそうだしな……」

「そんな痛い墓場はいらねぇよ。なんせ俺様は仕事ができるいい男、チビ助の代役なんかじゃ収まらねぇぜ」


 アルトは頭に乗せていたハンチング帽をブーケトスのように背後にいた麗しい美女のハトリに投げるが、伸ばされた手へと届く前にチドリが地面へ片手で叩き落とす。

 まるで汚れ物のような扱いに抗議を上げたかったが、ワーウルフがアルトの首筋を的確に狙って右手の爪を向けた。アルトは紙一重で躱し、すれ違いざまに膝を毛深い腹に埋め込む。

 ワーウルフは隠していた左手でその膝を受け止めており、瞬時に爪を伸ばして膝の肉を骨ごと抉り取ろうとした。しかし爪が通らないことに一瞬困惑する。


 服が千切れるのも構わずにアルトは膝を体全体の回転、強くワーウルフの腹に相手の左手ごと抉り込ませる。その場で距離の短い側転をしたアルトの動きを見極め、受け身の取れていないワーウルフも回転した。

 石畳に背中を叩きつけられたワーウルフは、アルトの服下に仕込まれていた薄い甲冑を見つける。しかも体全体ではなく、動きを阻害しない程度の関節部分に合わせた軽装の鎧だ。

 膝蹴りすらも囮であったことに気付いた直後に鼻面めがけて迫る靴底。ただの革靴ではなく、底には喧嘩用の鉄板が仕込まれた危険な代物である。


 転がるように避けたワーウルフを追いかけ、アルトはズボンのポケットに手を入れたまま石畳を蹴る。その眼前に、汚れた布が宙に浮かびながら腐った手足を伸ばしてくる。

 空洞であるはず布から伸びた腐臭を漂わせる手足を見てもアルトは動じず、ポケットの中に収めていた小型の箱らしきものを取り出す。鉄製の歯車と油を染み込ませた布が入ったブリキ製。

 手の平に収まるほどの大きさしかない箱でなにをするのかと、誰もがそう思った瞬間に箱の先から炎が噴出された。決して大きくはないが、火を熾すのはマッチと認識している者から見たら異常だ。


 飛び出た炎は宙に浮かんだ汚れた布に点火され、あっというまに火が全身を包み込む。それでも『化け物モンストルム』はそのままライムシア劇場へ向かおうとした。

 炎の塊が劇場に飛び込んでくると思った劇場関係者は叫び声を上げ、我先にと逃げ出そうと走り出す。しかし麗しい双子が堂々と前に立ち、一回お辞儀してから魔法を使う。


「――あらあら、駄目よん。悪い炎は井戸の中に投げ込まないといけないわん。お願いねん、海神のおじさま――」

「――底を覗き込むならば川になる覚悟を。貴方の領を犯す者には罰を。案ずるなかれ、いつかは汝の名前が川となる。しかして我らに慈悲の証しを体に――」


 二人の声に呼応するように葡萄の蔓が巻きつく古びた石井戸が現れる。炎の塊となった『化け物モンストルム』が触れた瞬間、炎が千切れるように引き裂かれ、溢れ出た水に押し流される。

 奇声を上げる『化け物モンストルム』は生きていた。だが布の体は引き千切られ、水流によって散らばったせいで集めることすらできない。それでも死ねない頑丈さに、絶望の悲鳴を木霊させる。

 喉の奥が乾いていくような声に、劇場関係者の誰もが恐怖した。簡単に死なないことがこれほど怖いのを知らなかったのだ。その思考も、邪魔されたアルトの舌打ちのせいで途切れてしまう。


「んだよ、せっかく狼の毛皮を燃やそうと小型発火装置を手作りしたってのに……これ結構作るの面倒だったし、改良の余地ありだな。もっと安定した炎、というよりは火を出せるようにしねぇとな」


 火を点けた相手のことも忘れたかのように、燃え焦げた発火装置を靴先で蹴り飛ばす。その姿は悪餓鬼よりも悪質なものであった。

 銃の火打ち石による原理を利用した物であったが、試作品は既にとある会社が作っていると言われている小型発火装置ライターを見た『化け物モンストルム』は充分に恐怖した。

 火とは最も原始的ながら悪も善も燃やす。なによりジャック・オ・ランタンが扱うのも石炭の炎である。その威力を知っている分、火は恐怖に値する物である。


「んー? おいおい、どうしたんだよ? 俺様達を燃やすんだろう? だったら来いよ。俺様達もお前達を迎え撃つ準備はできてんだよ」


 最早どちらが悪役かわからない台詞であるが、人間側である劇場関係者には心強い言葉であった。形勢逆転の兆候に、劇場から歓声が上がる。

 それ以上に大きな遠吠えが狼の口から夜空へと迸る。体の震えすらも強制的に止めてしまう音に、窓硝子も大きく揺れた。シェーナとミレットは慌てて窓硝子から離れ、同じ子役のシエルの横へと移動する。

 シエルは戸惑いながらも目の前の状況とミレットの横顔を何度も往復して見比べる。うっすらと浮かびそうになる笑みを堪え、狼の叫びに集中した。


「邪魔してんじゃねぇぞ、ごらぁっ!! お前達は好きなだけ人間を襲えばいい!! けどな、そいつは俺の獲物だ!! 俺が殺さなくちゃいけねぇ、最低最悪の男だ!!」

「うーわー、俺様でもちょっとくらい傷つくぞ。んだよ、襲撃してきたのはお前達だ……ならあの石像が壊れたのも、仕方のないこ……」


 アルトの言葉が終わる前にワーウルフは爪も牙も忘れ、拳を握って襲い掛かっていた。鉄板が仕込まれた靴底に骨がぶつかり、厚い毛皮から血が滴り落ちる。


「石像じゃねぇ……名前は知らねぇけど、あいつはガーゴイルっていう『化け物モンストルム』だ。どこかの男のために、努力して、報われなかった、大馬鹿野郎だ!!」

「そうだな。最期には最低なお前を助けるから命を犠牲にした……馬鹿だな」


 挑発するアルトの笑みに血管が切れそうになりながらも、ワーウルフは何度も握りしめた拳をアルトへと向ける。避けられ、鉄板で防がれても、何度も諦めずに。

 それは痛ましい光景だった。攻撃を仕掛けているのは『化け物モンストルム』であるはずなのに、傷つくのも『化け物モンストルム』だけなのである。

 狼の毛が血で薄汚れていく中、その血を見てシェーナは口元を押さえる。視線が血に集中してしまい、落ち着かない気持ちになっていた。


「くっそ、くそっ、くそがぁぁっっ!!!! 倒れろよ、燃えろよ、息絶えちまえ!! お前らなんか、生きていたって最低なだけだ!! だったら『化け物モンストルム』の方がましだ!!」


 その叫びは人間ではなく己へと突き刺していくような苦みがあった。最低な男が『化け物モンストルム』になっても、最低のままでいることを後悔するように。

 アルトはワーウルフの攻撃をいなし、時には受け止め、避けていく。ズボンのポケットに手を入れ続け、足の動きだけで捌いていく。口元は笑っているが、目だけは真剣である。

 一つの大きな銃声が響いた。それは銃というよりは大砲のような音であり、さすがのアルトも他の人間や『化け物モンストルム』と同時に空を見上げた。


 顔を上げたミレットは背中から押される感触に驚き、振り向こうとした。その前に段差で足が滑って、石畳の上まで抗うのも忘れて転がっていく。

 起き上がった時には目の前で顔を歪めた狼男が拳を振り上げていた。ミレットは瞼を閉じることしかできず、胸元で両手を握る。悲鳴も上げる余裕もない刹那。

 鈍い音がした。しかし一向に痛みが来ない違和感に、ミレットは恐る恐る瞼を開ける。立ち塞がるようにアルトがミレットに背中を向けていた。


 他人にも聞こえるほどの骨が折れて肉が潰れていく音。アルトの口から吐き出すような呻き声と血が飛びだす。ミレットは事態を把握しようとして、思考が動かないことに気付く。

 劇場では誰かが怒る声と言い訳するような金切り声が聞こえてくる。その金切り声は感情に任せている割には綺麗な逢語で、犯人は推理する必要はなかった。

 アルトの危機に双子は駆け寄ろうとしたが、アルトが背中越しで二人を強く睨みつける。まるで蛇睨みのようで、捕食される側の気持ちを味わう。


「く、んな……これは俺様と狼野郎の、もんだ、いだ。そう、だろ?」

「……ああ。本当にお前は最低だな。そう言いながら、ポケットから手を出さないんだからなっ!!」


 胸で拳を受け止めたアルトに対し、ワーウルフは吼えるが如く叫ぶ。誇りがあるのか、それとも侮辱されているのか。両方かもしれない苛立ちに、石畳の上から動けない少女を獣の瞳で強く睨む。

 ミレットはショックのあまり声も出なかった。同じ役者の子供に殺されそうになり、今も『化け物モンストルム』が牙と爪を隠さずに立っている。いつ死んでもおかしくない状況に、呼吸すら怪しくなる。

 そんな中、小さな足音が聞こえる。頼りないほど整っていない足音だったが、ミレットの耳にはどんな音よりも強く響いた。茶色の小人ブラウニーかと、ミレットは思わず振り向く。


「ミレットちゃん! ここは危ないよ!」


 死んだ者が生き返る奇跡は起こらないけれど、勇気を出した誰かが手を伸ばしてくれる。その事実に、ミレットは顔を俯かせてしゃくり上げたくなった。


「あ、ぶないの……そっちもでしょ? なんで……きちゃうのよぉ、ばかぁ……」

「……ちゃんと覚えてないけど、アタシも助けられたと思うから」


 血を見るたびに歯が疼く。腹の奥底でなにかが血を煮え滾らせるほど叫んでいる。それ以上に頭の奥で靄がかかって思い出せないことがある。

 赤を見れば思い出しそうなのに、指の間を通り過ぎてしまう記憶。だが一週間近く、なにかに助けられていた気がする。不思議に出会った気持ちが肥大化を続け、少しずつ靄が強くなる。

 ミレットがドレスの裾を握りしめている手を、シェーナは荒々しく引き寄せて立ち上がらせた。向かい合う形で、シェーナは決心したようにミレットに尋ねる。


「エリック・オペラ……思い出せないけど、大事だった気がするの! ミレットちゃん、覚えてる!?」

「ふぇっ? あ、アンタ……女神像炎上の容疑かけられた時、助けてくれた幼馴染みを忘れたの!?」


 あまりの突飛な質問にミレットは危機的な状況も放置して素っ頓狂な声を上げた。忘れるはずがない、ミレットの他にシェーナを助けた少年のことを。

 しかしシェーナは思い出せない。顔も、名前も。ただ一つだけ、助けてくれたという真実に目の輝きを強くした。そしてミレットの手を固く握りしめて、劇場へと走り出す。

 二人の少女が離れるまで、アルトはワーウルフの八つ当たりのような連撃を胸に受けていた。足の膝が震えるほどで、口から零れる血の量も尋常ではない猛攻を耐えた。


 そして遠ざかっていくいく二つの小さな足音を聞いて、口から血を流しながらもアルトは笑う。低く、どこまでも低音な笑い声を絞り出しながらワーウルフを睨む。

 荒れた毛並みが見る影もないほど真っ赤に染めたワーウルフの握り拳を、アルトは右手の平で受け止めた。その際に石畳へと落ちた紙に包まれた白い粉に、ワーウルフは黒い鼻を動かした。


「わりぃな……どうやらあの探偵、絶対使用するなと念押しした奴を使いやがったらしい……だからここまでだ」

「おま、まさか……」

「仲間の手口で燃えろ、狼野郎。ついでに姫さんの物真似付きだ、ありがたく思いやがれ」


 ワーウルフが一歩下がっても遅く、アルトが左手もポケットから出した瞬間に蓋が開けられた小瓶の中に入っていた石灰の粉を直に浴びてしまう。石畳の上に瓶から乾燥剤が零れ落ちた。

 血や口の唾液にすらも反応して高温が体を襲う。可燃物は体を纏う毛並みで充分であり、だがそれでもワーウルフはアルトを巻き添えにしようと両腕を伸ばす。


「――出番だ、水蛇!! 目の前のいけすかねぇ狼野郎を洗っちまえ!!――」


 口元を服の袖で拭いながら吐き出した言葉に宿った魔力が『異界レリック』に繋がり、水の奔流が八つの槍となって空から降り注ぐ。その勢いは唸りを上げる滝だ。

 不純物すら見当たらないような透明な水の中でワーウルフはもがく。熱いと冷たいが交互にやって来て皮膚を傷めつけ、最終的には痛いすらも超えた感覚へ。

 それでも狼男は伸ばした両腕を進ませるように滝のように体を痛めつける水中を動く。わずかに外気へと触れた鼻先と共に狼の口を動かして言葉を紡いだ。


「さ、いていな……人生で、それ、は『化け物モンストルム』になっ、ても……変わらねぇ」

「……おう」

「けど……な、んで……あいつ、は……俺を……」


 アルトの首に狼と人間が入り混じった形の手が届く。爪は焼け焦げ、毛並みも熱で燃えて無惨な黒になっている。それでも指先には力が込められている。

 今にも割れて欠けそうな爪先が薄皮を裂いても、アルトは動かなかった。ワーウルフは体の半分を火傷したような姿で水から抜け出す。片目は熱で濁り、見えてはいない。

 それでも残った左の片目でアルトの首を握りしめようと息を荒くする。震える体全部に魂を込めるように、一歩ずつ確かに獣の足で石畳を踏んでいた。


「……俺様はちゃんと言ったぜ? いい女が死んだら、いい男は泣くもんだって」

「そ、れが……わかんねぇんだよ……俺は最低な『化け物モンストルム』だ……」

「馬鹿だな、お前。元人間だろ? じゃあそれだけで充分なのが『人間好きの化け物モンストルム』じゃねぇか……本当にいい女を亡くしたな、お前。馬鹿狼」

「………………そ、うか。馬鹿、だな。さい、て、い……だ」


 なにかに納得した瞬間、ワーウルフはアルトの首筋に深く爪を食い込ませた。それは姿勢が崩れていく拍子の踏み込みによる、最後の足掻きでもあった。

 横へと体を傾けていくワーウルフの大きな図体を片腕で抱え、嫌そうな顔を隠そうともしないアルト。面倒そうに大袈裟な溜め息をつき、それでもワーウルフが惨めに倒れ伏すことがないように支える。

 両腕を力なく垂れ下げ、足にも力が入っていない。胸元をアルトが抱えていなければ、膝も地面に屈していただろう。しかしワーウルフは最後まで膝をつかなかった。濁ってしまって瞼が閉じられない右目から涙が一つ零れ落ちる。


「……おせぇんだよ、馬鹿狼。供養にもならねぇ。けど……いい男になったな」


 霧すらも出ない夜。煙が各地で立ち昇り続ける。星が輝こうにも、地上まで光が届かない。アルトはそんな空を見上げつつ、近づいてきたチドリとハトリに視線を向ける。

 そして重いと言わんばかりに雑な渡し方でチドリにワーウルフを持たせる。戦いを見守っていた『化け物モンストルム』達はワーウルフの敗北に動揺を隠せなかった。


「おーい、とりあえず馬鹿狼を人質にすっから一時休戦な。たとえ『化け物モンストルム』でも仲間は大事だろ?」


 嫌な笑みを浮かべるアルトは生き生きとしていた。悪役さながらの立ち回りに、さすがの劇場関係者も非道だと思ってしまう。しかし命の問題なので、文句は言えない。

 ミレットを突き飛ばしたシエルは縛られ、劇場の倉庫部屋へと放り込まれた。門番としてドンタコスを筆頭とした巨漢の男性数人が見張りと守護を兼任している最中だ。

 劇場の入り口でひとまず空気が変わったことに気付いた者達は、柱から体を乗り出す。アルトは白魔法で首の傷と胸の骨が折れた部分を応急で治していく。


「あいててて……余計な邪推しない分、あいつらのが素直で良いぜ……」

「ごめんねん、アルトくん。まさか劇場の方であんなことが起きるとは思わなくて、反応が遅れちゃったわん」

「んー、女神さんの胸の中で癒やしてくれるなら白魔法なくても治癒しそ、あだったたたたた!! 女神さん、胸を突かない!!」

「もう、男の子なのは結構だけど、こういう時はふざけないでよねん! それに……早期決着したのは、さっきの音が気になったからよねん?」


 動きを止めた『化け物モンストルム』の前で呑気な行動を繰り広げるハトリとアルトだが、最後の言葉にアルトは真面目な表情を作る。

 あれ以降、大きな銃声は聞こえていない。方向はレオファルガー広場。ルトランド通りを進めば辿り着ける場所。その意味をハトリは理解していた。


「行っていいわよん。アタシ達なら大丈夫だもん! アタシとチドリちゃんは揃えば無敵なんだからん!」

「……あんがと、女神さん。どっかの双子の無口で愛想のない色気だけが取り柄の弟とは大違いだぜ」

「一言も二言も多い。さっさと姉貴から離れて好きな所へ行け」


 余計なことを口走るアルトに対し、チドリは額に青筋を浮かばせながら素っ気なく移動するように告げる。アルトはチドリに対しては適当に返事しながら、レオファルガー広場への方角へ体を向ける。

 しかしその前にシェーナが立ち塞がる。アルトが去っていく気配を慌てて感じて走ってきたらしく、息は荒い上にまだ恐怖で足が震えている。それでも凛とした表情でアルトを見上げた。


「アタシも……連れて行ってください!! よく、わからないけど……行かなきゃいけない気がするんです!!」


 胸ではなく腹、臍の辺りを押さえながらシェーナは力強く頭を下げた。その勢いにアルトは目を丸くしながら、そういうことかと合点した表情で返事する。


「いいぜ。けど俺様は万全じゃないから命の保証はない……次は死ぬかもしれない。それでも?」

「……行きます。探偵さんが……真実を欲する気持ち、わかったんです。吸血鬼は……アタシを守ってくれた……それが理解できたから、もっと知りたいです!!」


 怖がって知らないまま震えるよりも、知って受け止めてからの方が胸の奥が熱くなる。忘れたことは思い出せないけれど、誰かの証言が、誰かの証拠が、真実を一つにしていく。

 今でも『化け物モンストルム』は怖い存在だ。なにも知らない、なにもわからない、だからこそ知っていきたい。倒れているワーウルフにも、大切な者を失った悲しみがあることを耳にしたから。

 街を燃やそうと企む『化け物モンストルム』の全てを理解できるとは思えない。それでも知りたい、受け止めたい、身勝手で我が儘な人間の欲望のように溢れ出てくる純粋な感情が今のシェーナを動かしていた。


「……わかった。じゃあ、ちょっくら抱えるぜ!」

「お願いします!」


 アルトは器用に片腕でシェーナを姫抱きし、白魔法を使って馬よりも速く駆けていく。落とされないようにシェーナは背中に手を伸ばしてしがみつく。

 ライムシア劇場が風と一緒に遠ざかるのを感じながら、シェーナはアルトの首筋に流れていた血の跡を見て生唾を飲み込む。何故か舐めたくなるが、脳裏に制止する声が聞こえたような気がした。

 少年の声のようにも、疲れた老人の声にも似ていた。それでも血を求める無意識と、押し留めようと理性らしき存在が働く。シェーナは慌てて片手で口元を押さえた。


「……アタシ、変なんです。血を見ると、歯が疼くんです……」


 呟かれた言葉に耳を澄ませながら、アルトは走り続ける。シェーナの身に起こっている異変を知っているが、その対策はアルトにもわからなかった。


「でも飲みたくない。だってアタシ、人間だから……」

「……美少女に首筋を噛まれるなら、俺様は御褒美だけどな! ま、シェーナちゃんはもう少し魅力的になってから出直してくれ」


 茶化すようなアルトの言葉に、シェーナは息を漏らすように笑った。慰めているのかわからない言葉に、気が抜けてしまったのだ。

 口から言葉を出して、感情を整理できたシェーナは空を見上げる。劇の練習中に聞いた上滑りするような台詞、その違和感の正体に気付いたからだ。

 感情から生まれた言葉が出てくる。そこに宿る息の熱さを、冷たい夜の空気の中に感じ取った。そういうことかと、シェーナは目が潤みそうになる。


「……話はおしまいだ。レオファルガー広場に入るぞ、シェーナちゃん!」

「っ、はい!!」


 見えてきた海戦の英雄ミレーショ・ナルソンの姿を模した記念碑を合図に、アルトはシェーナを抱えていない片腕で胸元を押さえる。定期的に襲う痛みが強くなる。

 鋤骨は確実に数本折られており、一本は肺に刺さっているのか血が喉を這いあがって来そうになる。それを白魔法と気力で誤魔化しながら、アルトは目の前の光景に絶句した。

 静かなレオファルガー広場で車椅子は破壊され、大砲並みの威力を持つ改造銃も部品一つに至るまで粉屑にされている。顔半分が吹き飛んだジャック・オ・ランタンは残った片側の顔をアルト達へと向けた。


 しかしアルトの視線は別に向いていた。案山子のような細長い片腕に首元の布を掴まれ、宙に浮かぶカナンがいた。両肩は衝撃で脱臼したらしく、動く様子はない。

 体中が汚れていることから地面に何度もたたきつけられたのがわかる。その拍子で広場の固い所に頭を打ったのか、額から少なくない血も流していた。

 半分にまで欠けた南瓜の中には青い炎が轟々と輝いている。薄暗い空洞を照らすように、炎は目となって乱入者を見据えていた。


「ああ、お仲間だぞ……探偵。貴様の黄泉路に付き添ってくれるようだ……良かったなぁ……」

「……シェーナちゃん、離れてろ」


 地面にシェーナを優しく降ろし、アルトは額に落ちてくる前髪をかき上げながらジャックへと近付く。背中から漂う気迫に押され、シェーナはその場から動けなくなる。


「わりぃが、俺様は美女以外のエスコートをするつもりはない……だが、そいつは俺様が認めた貴重なダチだ。返せよ」

「……いい目だ。かつての私と同じ目だ。ああ……だが我が目玉も時の流れで腐り落ちたのだったな……友が死んだ、あの日に」

「ごちゃごちゃ言ってねぇで……カナンから離れろ!!」


 飛びつくように跳躍したアルトだったが、その無防備な体に意識が朦朧としているカナンの体が投げ渡される。受け止めきれず、共に広場を転がっていく。

 ぶつかった拍子に胸の中で折れた骨の位置が変わったらしく、アルトは大量の血を口から零す。意地でもカナンにかけないように、顔の向きは横にして。

 上体だけ起こした状態で、膝の上にはカナンの体を乗せたアルトは目の前に浮かぶ幾千の青い鬼火ウィルオウィスプに見惚れた。どうしようもないほど美しくて、圧倒的な熱が肌に伝わる。


「それでは潔く……燃えてくれ給え」


 淡々とした言葉だったが、鬼火は勢いよく落ちてくる。数が多すぎるが故に細かい指示はできないとしても、あまりの多さに逃げ場はないと思えた。

 しかしシェーナがアルト達の前に両手を広げて立ち塞がった時、鬼火が動きを止めた。あえてジャックが動きを停止せよと指示を出したからである。偶然でも奇跡でもない。


「ま、って……アタシ、貴方のこと怖いけど……知りたいの」


 膝を大きく震わせ、今にも崩れ落ちそうになりながらもシェーナは顔を上げた。宙に浮かぶ、顔が半分に欠けても街を燃やそうとする『化け物モンストルム』に視線を注ぐ。


「いまさら……なにを言う? 知るのを放棄したのはお前達だ。今更なにも蘇らない、生まれない、変わらない!! 今日、ロンダニアの街は燃える!! 我が友の代わりに!!」

「……街を燃やしたいほど、好きな人がいたの?」

「そうじゃない。街を燃やしたくなるほど、お前達が我が友を燃やした。ああ、憎い!! お前達が、好きでいればいるほど、美しいほど、憎い!!」


 ぶつけられる言葉の中に宿る感情をシェーナは必死に掴もうとする。しかし複雑すぎて、一つ一つ紐解くことはできない。わかるのは、大きな悲しみ。

 一瞬ではない、長い年月をかけて成熟された感情。人では敵わないほど、果てのない月日が炎となって燃え上がっている。だが、その根底にあるのは誰にでも宿る感情。


「……苦しい」


 好きが大きければ大きいほど、失望と後悔が渦巻いて己を飲み込んでいく。深い海の底へと引きずり込まれていくような悲しみが、五体を引き裂いていく。

 辛い、苦しい、気持ち悪い。その奥底にあるのは純粋なほどひたむきな好意。ずっと腹の奥で沸騰しているような感情と同じ、誰かを好きになること。

 体が壊れるよりも苦しい感情に呑み込まれ、ジャックは街を燃やそうと動いている。その事実にシェーナは一筋の涙跡を作る。説得できるとは到底思えなかった。


「……吸血鬼も無駄死にだ。お前を守ろうと、私に噛みついた。なのに……自ら火中に飛び込むとはな」

「……そう、なの?」


 シェーナが吸血鬼エリックのことを覚えていないのをジャックは知らない。だからこそ愚鈍な人間だと怒りが沸き起こる。

 どんなに命を賭けても『化け物モンストルム』は報われないのを証明するような言葉に、青い鬼火はことさら強く燃え上がっていく。

 汗が出るほど熱い火の玉に照らされながら、シェーナはようやく言葉にできる実感に安堵を覚えながら、とある台詞を呟く。


「それでもアタシはあの人を友と呼ぶわ。たとえ世界全てが敵だとしても」


 記憶にもない幼馴染み、薔薇をくれた素敵な人。顔も、声も、髪の色すら忘れてしまったけれど、ずっと傍らにいてくれた吸血鬼へ贈る言葉。

 薔薇のお返しというには、とても小さな言葉と感情かもしれない。それでも誰かが教えてくれた真実が胸の奥を赤く照らす。まるで暁の空のように。

 もう二度と会えないかもしれない。街中ですれ違っても気付かないかもしれない。だけれど伝えたい感情が言葉になる。遅くなってしまった、大切な答え。


「だから……アタシは人間のまま待つの。いつか会いに来てくれることを信じて」


 迎えに行けないのを悔しく感じても、今できる精一杯を言葉に込めて。もう、血を見ても歯は疼かない。舐めたい衝動もない。

 この言葉を待っていたように腹の奥から熱が消えていく。残るのは冷たい空気が体の隅々まで行き渡る清々しさ。ようやく生きていると感じるような高揚感。

 晴れやかな笑みを浮かべながらも涙を流すシェーナに対し、鬼火が空高く舞い上がる。ジャックが片手を空に向けて掲げているからだ。





「それが最後の言葉で構わないか?」





 より高みからの飛来。それを行うための準備は整われた。どんなに逃げても間に合わない数の鬼火が空を埋め尽くしている。

 ジャックの決意は変わらない。そしてシェーナも言葉を変えない。大切な者への気持ちはお互いに述べ終え、後は圧倒的な蹂躙が始まるだけだ。

 アルトはシェーナとカナンだけでも逃がそうと思うが、胸の痛みが酷くて白魔法も充分に行えていない。逃げろ、という言葉さえ血となって消えていく。


 振り下ろされた手に従うように、青い炎の雨が降り注ぐ。シェーナは胸の前で両手を力強く握りしめる。生きながら燃やされるのはどれだけ辛いのだろうか。

 だが何度も助けられた命で、答えを見つけられたことに感謝する。だからこそ逃げるわけにはいかなかった。逃げてしまえば、嘘を吐いてしまう予感がしたからだ。

 それでも恐怖と死の想像で足が竦む。まだ生きていたいと叫びたくなるのを必死に堪え、迫る熱気に驚いて体勢を崩しそうになるのを我慢したが、避けられないと悟る。








「――ゆらゆらとゆらり、彼の者は破滅を導く竜として流れ星と共に落ちてきた者なり、その顎から漏れる吐息は太陽すら溶かし尽くす火蜥蜴、我が名のもとに竜の炎を汝に与えよう、破滅よ幸いなれ!!――」







 赤い炎の蜥蜴の大群が津波となって青い鬼火を食らい始める。凛とした声に、魔法の言葉に、アルトやシェーナだけでなくカナンも瞼を開ける。

 そしてジャックは忌ま忌ましそうに黒い杖刀を携えた少女を見下ろす。紫色の髪にはいつも通り黄金蝶の髪飾りが輝いている。それは炎の光を得て、さらに強く存在を主張していた。


「やはり……お前が邪魔をするのかぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「ええ、もちろん。さあ『化け物の親玉モンストルム』よ、わたくしを倒す準備はよろしくて?」


 石畳を突き破って姿を現した破滅竜を背に、紫魔導士ユーナは堂々とジャック・オ・ランタンと向き合うのであった。

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