ユーシス(三部終章読了後推奨)

 成長を周囲に伝えるがごとく低くなりはじめたアストの声と、張りのあるリタの凛とした声が、重なりながら神聖な言葉を響かせる。ふたりは神の言葉で、祈りを捧げていた。

 ふたりがなんと祈っているのか、ユーシスにはすべてを理解できない。ユーシスはある程度神聖語を習得しているが、大量の本を利用して独学で学び、判らないところをアストに訊く事によって、読み書きを覚えただけである。難解といわれている発音までは、完全な理解にいたっていないのだ。

 なんとか聞き取れた部分から、許しを請うているだろう事は理解できた。おそらくは、永遠の眠りについた者に与えられるはずの安らぎを、一時的に妨げる罪に対して。

 不思議な事だ、とユーシスは思った。わざわざ神の言葉を紡ぎ、誰に許しを請うているのだろうと思ったからだった。神であるエイドルードは、すでに空にない。ならば、地上の民が神と呼び祈るべき存在は、アストかリタのどちらかでしかないのだ。だというのに、よりによってそのふたりが祈りの言葉を口にするとは。

 祈りを捧げる相手は静かな眠りを妨げられた人物で、神の言葉は形式上のものでしかないという事か――そう自分を納得させたユーシスは、目を伏せ、胸の前で組む両手に力を込めた。その祈りは、ユーシスこそが一番強く捧げるべきものだからだ。

 やがてアストとリタの声が止まると、ユーシスは顔を上げ、目を開けた。

 振り返ったふたりが目で合図すると、ユーシスよりも後ろで待機していた男たちが、アストたちのそばに近付き、土を掘り起こしはじめる。深い森の入り口近くに立つ、聖十字の下――そう、ユーシスの母、レイシェルが眠る場所を。

 ザールでは、死者は火葬する。そして灰を、空に抱かれる事を祈りながら風に乗せる。最後に残った骨は、天上の神が地上の民へと送った豊穣なる大地に埋める。獣や雨に掘り起こされない程度に、できる限り浅く。あまり深いと、魔獣の力に飲み込まれると言われているからだ。

 今、ユーシスの目の前では、10年近く前に埋葬されたレイシェルの骨を掘り返す作業が行われていた。

 基本通りに浅く埋葬されているはずであるから、大の男たちが作業するならば、さほど時間を必要としないだろう。その間、黙って見守るつもりでいたユーシスは、しかしふと気になって、左隣を見上げた。

 奇妙というか、くすぐったいような、落ち着かない気分になるため、できる限り左側を意識しないでいたユーシスだが、やはり意識せずにはいられない。そこには、存在だけは感じながらもこれまでまったく面識がなかった、伯父が立っているのだ。

 はじめて会うわけではないのだろう。ユーシスは赤ん坊の頃、母と共に城に住んでいた。その頃は毎日のように顔を合わせ、もしかすると抱かれた事もあったかもしれない。だが当然、その当時の事はユーシスの記憶にないため、つい最近初めて出会った人、との印象が強かった。

 ユーシスの視線に気付いたのか、伯父であるルスターは、ユーシスを見下ろす。若草色の柔らかな眼差しが、微笑む事で細まり、いっそう優しくなった。

『髪も目も同じ色だし、顔立ちも、お前と結構似てるよ』

 いつだったか、アストはルスターについてそう説明した。頼んでもいないのに。

『でも、ルスターさんはお前よりずっと優しそうな顔してるけどな』

 ユーシスが何かを返す前に、アストはそう付け足して笑ったのだったか。

 当時のユーシスは、余計な説明はいらないよ、と思っていた――そもそも、伯父の説明自体を必要としていなかった――が、今こうして伯父と対面すると、アストがわざわざ付け足したくなった気持ちがよく判る。アストが言っていた通り、自分と伯父の顔立ちは、血族である事を疑えない程度に似ているのだが、重ねた年齢以外にも、決定的に違っているような気がした。

「ありがとうございます」

 黙ったまま目を合わせているのが気まずく、ユーシスは無理に話を振る。顔を反らせばよかったのだと気付いたのは、声に出した後だった。

「なんの事だ?」

「まずは、母の事です。こんなにはやく一族の墓地に移してもらえるなんて思わなかったので」

 ユーシスを見下ろしていたルスターの視線が、聖十字へと向かった。

「君が礼を言う必要はない。これは、私の望みでもあるのだから」

「母の事だけでなく、これまでの事もです。伯父上は僕の生活を守るために、色々な事をしてくださった。感謝しています」

「私がした事などいくらもない。君のために尽力したのは、カイ様やアスト様だ。ここ最近は、ナタリヤもだな」

 もちろんユーシスは、ルスターが語った人々にも感謝している。だが彼らにはこれまでにも幾度か、想いを伝える機会があったのだ。今日がはじめてとなるルスターへの感謝の言葉を、彼らのために流されてしまうのは、少し違うような気がした。

「母はよく、伯父上とカイ様の話をしていました。こんな孤立した場所で暮らしていては、新しい話題を入手する手段がなかったんでしょうけれど、たとえそんな特殊な環境でなかったとしても、恩人である伯父上やカイ様の話は、飽きるほど繰り返したと思います」

 ルスターは静かな横顔をユーシスに見せたまま、何も言わなかった。しばらくして、ようやく口を開いたが、「そうか」と短くこぼしたのみだった。

 だがその短い言葉の中に、万感の想いが込められている事を、ユーシスは感じ取った。中でも強く感じたものは、後悔と歓喜。優しい眼差しの中に切ない色が混じる様を、ユーシスは見逃さなかった。

「レイシェルは、弱い娘だったと思う」

 突然、思い出したように、ルスターは言った。

「だがそれは、私たち家族のせいだったかもしれない。両親にとっては遅くにできた子供、私や兄にとっては歳の離れた妹であったから、レイシェルの、ひとりでは何もできないところすら、可愛いらしく、愛しく思えた――今思い返すと、誰ひとり、レイシェルのひとり立ちを後押しする者はいなかったな」

「……はあ」

「レイシェルは周りに逆らう事を知らなかった。望みを貫き通す事はもちろん、何かを望む事すら、できない娘だった」

 ルスターは再びユーシスを見下ろした。

 自身のものと同色の瞳を見上げながら、ユーシスは不思議に思う。ルスターが語る母の印象と、自分が覚えている母の印象が、いくらか食い違っているからだ。

 確かに母は儚げで、か弱い人ではあった。けれど、ルスターの語る、まったく自分を持たないような女とは、少し違っていた気がした。

「それが、君を得るまでのレイシェルだ」

 ユーシスが問うよりもはやく、ルスターは答えを提示した。

「私が君の父親を討とうとした時、レイシェルは初めて私に逆らった。君を産んでから初めて、自ら生きる道を提示した。君とふたりで、穏やかに生きていく場所が欲しいと、私に懇願したのだ」

 ユーシスとルスターは、どちらからともなく振り返り、最後の住人をも失った小さな屋敷を仰ぐ。

 屋根の向こうの木々の隙間から見える太陽のまぶしさに、ユーシスは目を伏せた。

「君への愛情が、レイシェルを強くしたのだろう」

「はい」

「だからレイシェルは、何よりもそれに縋るべきだった。私の話などを繰り返す時間があったのなら、君への愛情をより強く示すために、使えばよかったものを……」

 ユーシスは静かに首を振った。

「ご心配いただかなくとも大丈夫です。母はそちらも繰り返していましたから。愛していると、母は何度も何度も僕に言いました。数え切れないほど――母亡きあとも、夢に見るくらいに」

 だからこそ、母が命を落とし、ユーシスのそばにいなくなってからも、母の愛情は消え失せる事も、色あせる事もなかった。そしてユーシスは、孤独であっても虚無に落ちる事はけしてなかった。

「母は、伯父上たちの協力を得て望みを叶え、望み通りに生きました。そのおかげで、僕はアストに出会えました」

 再び見上げた伯父の笑顔は、はじめに見た時の柔らかさ優しさを取り戻していて、ユーシスは負けじと、できる限り優しい微笑みを伯父に向けた。

「ありがとうございました」

 感謝を伝える言葉を、もう一度口にする。

 今度こそルスターは、何も言わずに言葉を受け取ってくれた。そうする事によってユーシスの想いに応えてくれたのだ。

「ユーシス!」

 アストが呼ぶ声がする。ユーシスは伯父に会釈する事で挨拶すると、地面を蹴った。アストとリタが待ち受ける墓前に、可能な限りの速さで移動する。

 男たちの手が止まっている。どうやら、伯父と言葉を交わした短い間に、墓を掘り起こす作業は終わったようだ。ユーシスは遠慮なく、穴の中を覗き込んだ。

 土にまみれた箱が見えた。母の骨が納められたものだ。

 ユーシスは地面に膝を着き、両腕を伸ばし、土を掃いながら、飾り気はないが質のいい材木を使って組み立てられた頑丈な箱を取り出し、目の高さに掲げた。

 幼い日のユーシスを一番支えてくれた人物が、箱の中で眠っている。目の前にいる。こんなにも近くに。

 ユーシスは少しだけ緊張した。もう相手は命を持たず、言葉は届かないと判っていても。

「母上」

 母が魔物の子として忌み嫌われたユーシスを見捨てず、深く愛してくれた事。それはユーシスにとって幼い頃からの拠りどころだった。そして今のユーシスにとっては、何にも変えがたい、感謝すべき事柄で、他の相手に対してと同じように、「ありがとう」と告げるのは、簡単な事だった。

 しかしユーシスは、あえてその言葉を選ばなかった。母には、感謝よりももっと、伝えなければいけない言葉がある。生前の母には伝えられなかったから――まだユーシスは幼くて、その言葉の意味をよく知らなかったから。

 土で汚れる事を気にせず、ユーシスは箱を抱きしめた。そして、そっと耳元で囁くように、他の誰の耳にも届かないように、抑えた声で箱に語りかけた。

「愛していました、僕も。貴女を、心から」

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