ジオール(二部四章読了後推奨) 3

「ジオールさん。最近、夕刻ごろに庭で剣の訓練をしているとお聞きしましたが、本当ですか?」

 医療院における最後の夕食をジオールの前に置きながら、ウェリンが言った。

「誰に聞きましたか?」

「色んな方から目撃情報が入っています。退院直前とは言え、基礎的な運動程度ならともかく、しっかりとした訓練をする方は珍しいので、目立ちますからね。隠すつもり、ないのでしょう?」

 隠す事ではないと思っていたが、そこまで目立つなら隠しておくべきだったと反省しながら、ジオールは肯いた。

「はじめたのは医師の許可を得たあとです。特に無理もしておりません。問題はありませんよね?」

「ありませんけど――」

 ウェリンは唇をすぼめ、代わりにもの言いたげな視線をジオールに向けたが、そのような目で見られても、ジオールには意味が理解できなかった。

 目を合わせないように視線を下ろし、沈黙に理由を付けるためには食事をすればいいかと考え、匙を手に取る。すると、いつもどおり左手で持てるように置かれている事に嫌でも気付いてしまい、ジオールは深い息を吐く。

 一度目を伏せ、意を決してから、ふたたびウェリンに向き直った。

「ウェリン殿、今までありがとうございました」

 強い感謝の想いを、ありのままウェリンに伝えた。彼女には何度礼を言っても足りないが、とりあえずは1度だけ。

「いいんですよ。お世話するのは、私の仕事ですから」

「私が貴女に感謝しているのは、お世話をしていただいた件だけではありません。色々と気を使ってくださったでしょう。私がまだ左手での食事に慣れていない頃、食事中に私のそばに誰かがいた事はありませんでした。みっともなくて他人に見せられたものではない、との、私の密かな願いを形にしたかのように」

 ウェリンは目を反らしてから髪をかきあげた。

「ルスターさんまで部屋から追い出したのは、やりすぎかなと思ったのですが」

「いいえ。当時の私にとって大切な事だったと思います。食事中以外は、彼の明るさや素直さに救われる部分が大きかったのですが――貴女にもです、ウェリン殿。貴女の話は私にとってまったく予想がつかず、私は理解をするだけで精一杯でした。余計な事を考える余裕もなく――貴女やルスターがいてくれた間だけは、怪我を負った日の事を思い出さずにすんでいた」

 それに、もうひとつ。この先も聖騎士として生きるという選択肢を残してくれたのはウェリンだと、ジオールは思っている。

 意図してやっていたかは判らないが、ウェリンは起き上がれるようになってからのジオールをけして甘やかさなかった。彼女が「右手が使えないならば左手を使え」と無言で強要してくれなければ、先々の事を諦めねばと絶望しかけた時、たとえ険しくともまだ道が残っているという事に、気付けなかったかもしれない。

「一時的にでも、辛い事を忘れるお手伝いができたなら、嬉しいです」

 ウェリンは照れ臭そうに笑いながら言った。

「忘れて――いたのでしょうか、私は。たとえ一瞬でも」

「楽な気持ちになれたぶんだけ、忘れていたのだと思いますけど。忘れたくない事ですか?」

 ジオールは無言で左手を動かし、塞がってはいるが一生消えないあとを残した傷に重ねた。

 続いて、右手で頬を撫でる。記憶の中の男に刻んだ傷を、辿るように。

「忘れる事って、悪い事のような気もしますけど、私は必ずしもそうじゃないと思っています。覚えているだけで辛い事って、いくつもあるじゃないですか。だから、嫌な事はすべて忘れてしまいたいんです。そうしないと、いつか息が詰まってしまいそうで……辛いめにあって得た教訓だけは残さないといけないと思うので、難しいのですけど」

 ウェリンが浮かべた笑みは、いつも見かける明るいものにごく近いものであったが、奥底に潜む影がちらついていた。ジオールと比べて数年短い彼女の人生のどこかに、何かしら辛いものがあったのだろう、と悟るに充分だった。よく考えずとも彼女は、人の生き死にに触れる仕事に就いているのだ。当然なのかもしれない。

「人が忘却によって救われるならば、忘れる力を与えてくださった偉大なる存在に、感謝すべきですね」

「あ、そう、そうです。さすがジオールさん。上手くまとめてくださいましたね」

 小さくはしゃぐウェリンを横目に、ジオールは自身の両手のひらを重ね合わせる。

 静かに湧き上がる感情は、やはり憎悪と呼べるものだった。今もどこか遠い空の下で逃げ続けているだろう男への。

 少なくとも今はまだ、忘れようにも忘れられなかった。あの男の存在は、もしかすると何よりも強く、ジオールの脳と心に刻まれてしまっている。だからこそ這い上がる決意ができたのかもしれないと考えると、胸が痛むほどの憎しみに、癒される部分もあるのだ。

「今の私は、忘れたくないのだと思います。エイドルードの意志に逆らう男を神の御前に差し出し、彼が悔い改める様を見守る事によってのみ、自分が救われるのだと思えてならないのです」

「そうですか」

「ですが――そのうち、変わるのかもしれません」

「……そうですか」

 人それぞれですよね、と小さく続けて、ウェリンは儚げに微笑んだ。行き場のない視線が、ジオールの前に置かれたまま放置されている食事を捉えると、「冷めてしまいますよ」と軽く忠告して、踵を返す。

 扉に向かって一歩踏み出したウェリンは、足を床に縫いつけたまま動かなかった。

「どうしました?」

「いえ……訓練をはじめたという事は、ジオールさんはこれからも聖騎士を続けるおつもりで?」

 ジオールは即座に肯定した。

「はい。右手が駄目ならば左手で。そう考えられたのは、貴女のおかげだと思っています。いずれ、何かお礼をしたいのですが」

 ウェリンは小さく首を振った。

「お礼をしていただけるほどの事はしてませんから」

「しかし」

「あ、でも、そうですね。せっかくですから、やはりいただいてもいいですか? ものではなくて、約束、なんですけど」

 何を言い出すか判らない彼女にそう言い出され、やや不安を覚えたジオールだったが、わずかに間を空けてから、「私にできる事でしたら、なんでも言ってください」と答えた。

 振り返ったウェリンが見せた、いたずら混じりの華やかな笑みは、ジオールにとって一生忘れられないものとなった。


 周囲の人々に恵まれ快適な入院生活を送れたためか、月単位で居座ればどんなところにでも愛着が湧いてしまうためなのか、退院の朝は少し寂しい気がした。

 強い太陽の下で、大きく伸びをし、深く息を吸う。怪我をする前に完全に戻ったわけではない――医師の言う通りならば一生戻れないのだから――が、健康のありがたみをあらためて思い知り、清々しい気分になった。

「荷物、ひとりで持てますか? 宿舎まででしたら近いですし、運ぶのお手伝いしますけど」

 医療院の入り口まで送ってくれたウェリンが、大きな荷物を見下ろしながら言う。

「大丈夫です。なんとかなるでしょう」

「なりますかね?」

「おそらく――」

「ジオールさん!」

 遠くから名前を呼ばれ、ジオールは振り返った。ルスターだ。大きく手を振りながら、一目散に駆けてくる。蜂蜜色の髪は太陽の光を浴び、いっそうまぶしく煌めいていた。

「どうした。こんな朝はやくから」

「どうしたって……ジオールさんが退院するというので、お祝いを伝えたいのと、お手伝いしようかと思って来たんです。あれだけ長く入院してたら、着替えだけでも結構な荷物になりそうですし」

「そうか。それは助かる。ありがとう」

 ジオールは荷物をひとつ掴むと、ルスターの胸に押し当てた。ウェリンに対して大丈夫だと言ったのは強がりではないつもりだが、遠慮なく頼れる相手が手伝ってくれると言うならば、甘えてみようと思ったのだ。

「では、ジオールさん。また今度」

「はい。本当にお世話になりました」

 残った荷物を肩に担いだジオールは、ウェリンに対して深く礼をしてから歩き出した。ルスターもウェリンに会釈をしてから、小走りでジオールの隣に並ぶ。

 背中の向こうのウェリンが遠ざかってから、ルスターは言った。

「悪気はないんでしょうけど、医療院に勤める方に『また』って言われると、『また怪我しろ』って言われてる気分になってしまいますね」

「ウェリン殿はそのようなつもりで言ったわけでは……」

「それはもちろん、判ってます。けど、なんとなく。行かなくてすむに越したことはない場所ですから」

 ジオールは小さく微笑んだ。

「そうだ、ルスター。私から頼んだ事だというのに申し訳ないが、3日後の夕方に予定していた訓練を、休ませて貰えないだろうか?」

「え? はい、別に構いませんけど、どうしたんです?」

「ウェリン殿と夕食を共にする約束をしてしまったのだ」

「ああ、なるほど。それは外せない用事ですね。判りました」

 ルスターは納得してくれたようで、何度も肯いた。

 何やら嬉しそうな笑顔で、明るい歌を口ずさみながら、数歩足を進める。だが、ふと重大な事に気付いたような顔をして、突然足を止めると、素早く顔を上げてジオールの横顔を見上げ、何食わぬ顔で歩み続けるジオールを引き止めた。

「ちょっ……ジオールさん、どういう事ですか!」

「どういう事、と言われてもな。そういう事だ」

「やっぱり! やっぱり、最初から狙われてたんじゃないですか!? いえ、ジオールさんがそれでいいなら、別にいいんですけどもっ!」

 爽やかな青空の下に、ルスターの慌てた声が響き渡る。

 ジオールは久方ぶりに声を出して笑いながら、ルスターの手から逃れると、太陽の下を再び歩きはじめた。

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