ジオール(二部四章読了後推奨) 2

「ジオールさんの担当の女性のお名前って、ウェリンさん、でしたよね?」

 ジオールが食事を終えるのを見守ってから、見舞いと称して持ってきた果物の皮を器用に剥きつつ、ルスターは言った。

 ジオールは特に果物を好物としていなかったが、好意をむげにするような人間でもない。ルスターが差し出した皮を剥き終えた果物を、迷わず口に入れる。口内に広がる程よい酸味と甘みは久しぶりの味わいで、子供時代を思わせる懐かしさだった。

「そうだが、何か問題が?」

「いえ、問題と言うほどではないのですが……私はここに通うようになって、入院中の聖騎士と知り合いになったのですが、ウェリンさんの噂をよく聞いたので」

「噂?」

「ええ。ここで将来出世しそうな聖騎士を物色して、玉の輿を狙っているとかなんとか。もし誰かが悪意をもって流した噂なのだとすれば、出所を探ったほうがいいですかね?」

 ジオールは口の中のものを飲み込んでから、ゆっくりと首を振った。

「出所を探る意味はないだろう。おそらくウェリン殿本人だ。そもそも噂は真実であるしな」

「そうなんですか?」

「私は本人からそう聞いた」

 久々に食べると存外美味しかったので、ふたつめをもらおうと手を伸ばしたジオールが見たものは、間抜けに口を開いたままジオールを凝視するルスターの顔だった。

「大丈夫なんですか?」

「どういう意味だ」

「ジオールさん、狙われてませんか?」

「そういう意味ならば、大丈夫だ」

「本当ですか? 気付いていないだけじゃないですか?」

「私が彼女ならば、狙った男に魂胆を知られるような真似はしないと思うが。それに――」

 狙ってもらえるほどの価値がそもそもないかもしれない、と続けようとして、ジオールは言葉を飲み込んだ。

「それに?」

「いや」

 短い言葉で続きを語る事を拒否すると、ルスターは黙り込んだ。素直で善良な彼の事だ、それ以上聞いては悪いと判断したのだろう。

 しばらくは、果物をかじる音がときおり響くだけの静けさが続いた。

 無言の気まずさをごまかすためか、ルスターが果物を口に運ぶ速度が上がった。せっかくルスターが自分のために持って来てくれたというのに、自分よりもルスターのほうが量を食べるのも変な話だと、最後のひとつにジオールが手を伸ばした時、ルスターは突然顔を上げる。

 見上げる瞳は、期待に満ちていた。

「ジオールさん、右手、使えるんですね!」

 ジオールは肯き、その通りだと示すために右手で掴んだ果実を口に運ぶと、ルスターの笑顔が急激に明るくなる。

「傷は塞がったし、痛みはもうない。医師からも普通に右腕を使っていいと許可が出た。念のため数日様子を見て、問題なければ退院だそうだ」

「本当ですか!?」

 こんな事で嘘を言ってどうすると、軽口で返そうとしたジオールだったが、ルスターが「良かったですね」「嬉しいなぁ!」などと短い感想を次々と発しながらはしゃぐので、何も言わずに微笑みで返した。

 微笑みながら、ジオールは手で口元を覆った。上手く微笑めている自信がないからで、それをルスターに悟られないよう、隠したかったのだ。

「ルスター」

「はい?」

「時間が許すならば、少々付き合ってもらえないだろうか。少しくらいならば外に出てもいいと、許可を貰っているのだが」

「構いませんけど?」

「久しぶりに体を動かしたい。もちろん軽く、だがな」

 ジオールの視線を追う事で、部屋の隅に立てかけてある剣を視界に入れたルスターは、元気のいい返事をし、力強く肯きながら立ち上がった。

 ジオールも寝台を出た。右腕の傷は塞がっていると言われていたが、入院生活中にすっかり癖がついてしまい、立ち上がるために頼るのは主に左腕だった。

 久しぶりに剣を鞘から抜いてみる。最後に切りつけた相手の血は綺麗に拭われ手入れされており、光を反射して鈍く光った。最後の戦いからこちら、剣に触れる機会がなかったジオールは、気を使ってくれた誰か――ジオールをセルナーンまで連れ帰ってくれた同僚たちか、ルスターだろう――に心から感謝する。

『君の右腕は……』

 昨晩聞いた医師の声が脳裏にちらつくと、ジオールは振り切るために右手で剣の柄を握った。

 かつてそうした時の記憶と比較して、強烈な違和感を覚えたが、数ヶ月ぶりに触れるせいなのだと何度も自分に言い聞かせた。


 金属が撃ち合う音が高く響く。ジオールの手を放れた剣は、風を切りながら少し離れた地面に突き刺さり、次の瞬間静かに地面に倒れた。

 ただ1度切り結んだ結果がそれだった。ジオールとルスターの過去の力関係を考えればあり得ない結果で、ジオールは激しくうろたえた。心の中で、「嘘に決まっている」と否定した。

 右腕の不調を事前に知らされていたジオールですらそうなのだから、何も知らなかったルスターが受けた驚愕は計り知れないのだろう。彼は見開いた目をジオールと剣に交互に向けながら、唇をわずかに震わせていた。

 震えているのは、ジオールも同じだった。ルスターのように唇ではない。握りしめていたものを失った右腕が、直前にルスターから受けた衝撃によって震えている。

 いや、本当に、衝撃によってなのだろうか。

 心を巣食う不安によって震えているだけではないだろうか。

「あ、えっと……ごめんなさい。ジオールさんが本調子じゃないのは判りきっていたのに、つい本気を出してしまいました。軽く、軽く運動するんでしたよね、今日は」

 ルスターは倒れた剣に駆け寄り、軽く土を掃うと、ジオールに差し出した。「ありがとう」と小さく礼を言い、ジオールは再び剣を構える。

 見下ろすと、腕はまだ震えていた。永遠に震え続けるのかもしれないという恐怖が、ジオールの中に産まれた。

 もう一度、剣を打ち合わせる。ルスターが先ほどよりも力を抜いてくれているのは明らかだったが、結果は同じだった。

 強まる不安を抑えるため、ジオールは取り落とした剣を再び拾い上げ、動揺するルスターに向けて振り下ろしたが、今度は軽くはじかれただけで剣を落とした。

「ジオール、さん……?」

 もはや完全に戦意を喪失したルスターは、剣を振るおうともしなかった。だがジオールが、何度も剣を拾い、何度も切りかかるので、構えは解かず立っていた。

 繰り返すうちに、ジオールもルスターも理解せざるを得なかった。この右腕は、少なくとも戦士として使いものにならないのだと。

 だがジオールは、驚愕に見開かれた緑の瞳に宿る、まるでジオールの心を写し取ったかのような動揺を、どうしても否定しなければならなかった。そうしなければ、脳裏に蘇る医師の言葉に飲み込まれて、息ができなくなる気がしたからだ。

 右手が使い物にならないのは、今だけだ。長い時間訓練を怠っていたせいだ。鍛え直せば、また元のように戻れる。きっと、きっと――

「ジオールさん!」

 ルスターが叫んだ。悲痛な叫びだった。顔を見ると、繰り返し、細かく左右に振り続けている。ジオールが動きを止めると、軽く顔を反らしながら固く目を伏せ、剣を鞘に収めた。

「治ったばかりなんですから、あまり無理しないほうがいいです。今日は、このくらいにしておきましょう?」

 そう言われてしまえば、ジオールはもう何もできなくなった。ゆっくり、長く息を吐き、剣を収める。

 自由を手に入れた右腕を、じっと見下ろした。長い時間、そうしていた。しかし右腕にかかる重みや弱い痺れは、薄れる事はあっても消える事がなく、湧き上がる衝動を抑えきれなかったジオールは、右腕を壁に叩きつけ、その場に膝を着いた。

 ルスターが息を飲んだのが判ったが、構う余裕はなかった。できる限りの力を込めて握った拳に宿る力の弱さに、失望していたからだ。

 静かな世界で少しだけ冷静になれば、自分にとって都合のいい思い込みと、昨日の医師の言葉と、どちらを信頼すべきか、判断するのはたやすかった。

 きっと医師の言うとおり、この右腕に先はないのだろう。

 言葉にならない感情が、記憶を鮮明にする。振り返った男が突き出した鋭い一撃を避けきれず、右腕が受けた激痛。血と共に流れ出て薄まっていく意識。咄嗟に振り上げた剣が抉った男の頬。幼子を抱いて走る男の頬を伝う、まるで涙のような血。

 あの男が、エア・リーンが、ジオールの右腕と未来を奪ったのだ。

 息を吐き出すと、喉が焼ける気がした。腹から込みあがる感情は、それほどに熱かった。

 判っている。負けたのは、癒えない傷を負ったのは、対峙した相手と比較して自分がより弱かったせいなのだと。責めるべきは己の無力さであるのだと。だが、弱い心は勝手に呪うのだ。あの男さえいなければ、あの男がすべてを裏切らなければ、自分は今このように空しい停滞をせずにすんだはずだと。

 いまだだ大神殿にはエア・リーンが捕まったとの報告は届いていない。つまり彼は今もまだ、誰かを傷付けながら、望むように生きているという事なのだろう。

 悔しいとの感情が強く働いている事を、ジオールは自覚していた。自分から未来を奪った男は、望む未来に向けて走り続けている。もしかすると、この先も永遠に。

 許せなかった。奪い返してやりたかった。今度こそ捕まえ、神の前で懺悔させてやりたかった。

 だがジオールは、そのために必要な力を既に失っている。どうしようもないのだろうか。同僚の誰かが、あるいは運命が、望みを叶えてくれる日を待つしかないのだろうか?

 ジオールは歯を食いしばり、左手で顔を覆った。涙も出ない目元を覆い、薄闇の中に浮かぶ憎い男の顔を、拳を作る事で握りつぶした。

「……?」

 しばらくして、左手を広げる。何もないてのひらをしばらく見つめていたジオールの脳裏に、突如、医療院で過ごした日々が駆け巡った。

 ジオールはおもむろに立ち上がり、右手で剣を抜く。だが、すぐに左手に渡した。柄を握り締めると、右手よりもずっと強い力がそこにあった。構えてみると、持ち慣れないせいか重く感じたが、右手のように無様に震えはしなかった。

 簡単な事ではないと判っている。だが、どうしても諦められない――ならば、困難を承知で突き進むしかない。

 時間がかかるだろう。左手で綺麗に食事を摂れるようになった時よりも、長い長い時間が。

 けれど、望みのない右手と共にすべてを諦めるよりは、ずっとましな気がした。

「ジオールさん……?」

 確かめるようにジオールの名を呼ぶ声が弱く響く。ジオールはその声に答え、ゆっくりと肯いた。ここに来てようやくジオールは、ルスターが自分の代わりに泣いてくれていたのだと知った。

「ルスター、すまない。迷惑をかけるが、頼みがある」

 ジオールはルスターが泣いていた事に気付かないふりをして、頭を下げた。

「なっ……やめてください、ジオールさん。頭を上げてください。なんでもききますから!」

「時間がある時だけでいい。これからしばらく、剣の鍛錬に付き合ってくれないだろうか」

 ルスターは完全に言葉を失っていた。

「昨日医師に言われた。私の右手は、これからどれほど鍛えようとも、以前のようには使えないと。聖騎士の道は諦めたほうがいいと。信じたくはなかったが、信じるしかないだろう――だがルスター、私にはまだ左手があるのだ。今はまだ無理だが、いつか、以前の右腕と同じように剣を振るえるかもしれん」

 勝手を言っている事も、夢見がちな事を口にしている事も、自覚していた。だが、止められなかった。ジオールは頭を下げたまま、ルスターの返事を待った。

「右手が今まで通り使えなくても、それでも、これからも聖騎士を続けられるという事ですか?」

「ああ」

 ジオールは力強く肯定してから続けた。

「聖騎士団から切り捨てられなければだが――たとえ切り捨てられたとしても、再度試験を受け、もう1度戻ってくる努力をする。いや、戻ってくる」

 返事はなかった。頭を下げた状態ではルスターの表情は覗けず、彼が迷っているのか、断ろうと決めながら優しさゆえに返事が言えないのかは判らなかった。

 ジオールは強く目を瞑る。

 祈るしかなかった。ジオールにとっていい返事が来る事を。

「部屋に戻りましょう、ジオールさん」

「ルスター……!」

「明日からなら、いくらでもお付き合いしますから、とにかく今日は休んでください」

 ジオールが顔を上げると、ルスターは背中を向けていた。胸に手をあて空を見上げ、何かを神に祈っている。あるいは、隠しきれていない涙をジオールに見せないように、祈るふりをしているのかもしれない。

「ありがとう」

 溢れる感謝はこんな短い言葉にすべて込められるものではない。だがジオールは、言わずにはいられなかった。

 ルスターが見ていないと判っていながら、想いを込めた笑みを浮かべずにはいられなかった。

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