神の剣 7

 アストは、父が倒れた場所に戻らなければならなかった。

 ただ一度だけ歩いた事がある道を辿り、父が眠る場所に戻る事は、難しいだろう。だが、やらねばならない。取り乱し、何も考えず、ただ本能に従って父の元から逃げ出した事を、今更後悔しても仕方のない事だった。

 すべての民が室内に避難するほどの豪雨の中、歩き続けたアストは、今朝がた父の背を追って歩いた道の途中に、人影を見つける。すぐに足を止めた。雨を除けるために深く被ったフードの中に、アストと同じ色の瞳が見えたからだ。

 今は亡き両親とアストを除けば、その色の瞳を持つ人物は、この大地にひとりしかいない。もちろん、リタだ。

 自分と共に父の最期の場所にいた彼女ならば、道を知っているだろうか? そう考えたアストは、雨の中でも声が届くよう、数歩リタに近付く。しかし、リタが何も言わず、手にした包みから布を剥いだ時、投げかけようとした質問が無意味なのだと知った。

 真剣な眼差しで立つリタの手の中にある、ひと振りの剣。それこそが、アストが求めるものだった。

 自ら光を放っているわけではないのに輝いて見える、白色と銀色が眩しい剣。柄の中心で静かに瞬く宝石は、失った父の瞳の色。

 その剣がかつては父であったものだと、アストは知っていた。自分のために生まれた、生まれ変わった剣である事も。

「持ってきてくれてありがとう、リタさん」

「礼はいいわよ。これが私の役目なんだから」

 リタが差しだす神の剣を、アストは受け取る。軽く、冷たい剣だ。かつて母であった鞘と対となるに相応しいと思った。

 過去に手にしていた光の剣よりも、はる遥かに大きな力を感じた。当然なのだろう。光の剣はアストひとりの力だったが、この剣には、アスト以外の力も宿っているのだ。命ごと飲み込んだカイの力。そして――

「リタさん、もう触れてくれたんだ」

「何に?」

「父さんの瞳に」

 リタはわずかに戸惑ってから肯いた。

 ならば、あとはひとりだけだ。アストはゆっくりと呼吸をしながら、白い剣を黒い鞘に納める。

 冷たいふたつは一瞬だけ、強い熱を持った。

 その瞬間に起こった事を、リタも感じたのだろう。リタの双眸はアストの手元に向けられたまま、動こうとしない。

「受け取ったよ。父さんと、母さんと、リタさんの力」

 アストは神の血族の力が融合した剣を勢いよく引き抜くと、両手で強く握り、高く掲げた。

 剣が放つ力は、切っ先に集まって光と化し、柱となって天へと昇っていく。光の柱は厚い雲を突き抜けると、まばゆい力へと戻り、空の中で広がった。

 凄まじい力が、灰色の雲を裂いていく。雨がやみ、青い空が広がった。遮るものを失い姿を現した太陽が、柔らかな光を地上へとそそいだ。

「これは……」

 太陽の光が秘める力に気付いたリタは、言葉を失う。ゆっくりと、だがめいっぱい、白い腕を左右に広げ、全身に光を浴びた。

 地上の民やあらゆる動植物にとって、雨上がりを照らす、優しく清々しい太陽光でしかないそれは、魔獣の眷属たちにとってだけは、まったく違うものだった。けして逃れようのない、強烈な毒なのだ。

 光は、やがて大陸すべての地上へ届くだろう。地上に届いた力は地中へと浸透し、すべての魔物の元へ。そして、今にも消えようとしているエイドルードの結界よりも確かに、魔物から地上を守るだろう――

「すごいわね」

「そうだね」

 アストが短い言葉で返すと、リタはフードを下ろしながら肩を竦めた。

「いくらなんでも感動が薄すぎない?」

「だって、すごくなかったら、死に損じゃないか。父さんも、母さんも」

「……その通りと言えば、その通りなんだけど」

 リタは光を浴びた手を、アストの頬に伸ばす。

 そこには、父を刺してからユーシスの屋敷に向かうまでの間、森の中をがむしゃらに駆けた時、木々の枝に擦れてついた小さな傷があった。同様の傷は、アストの体中にいくつもあるだろう。あの時は、自分の体に構う余裕などなかったのだから。

 見送るしかできないリタは、アストの体を気遣い、万全の状態で送りだしてやろうと思ったのだろうか。

 しかし彼女の手は、なんの力も産まないまま、アストの顔から離れていった。

 リタの中にはもう、特別な力はないのだ。すべてはアストの手中にあるのだから。

「謝らないで」

 小さく口を開いたリタが声を出すよりもはやく、アストは彼女の言葉を奪った。

「今、『何もしてあげられなくてごめん』とか、言おうとした?」

「言おうとした」

「さっきリタさん言ったんじゃないか。これは自分の役目だから、お礼はいらないって。それと同じだよ。リタさんから力を奪うのは俺の役目なんだから、そのせいでリタさんが謝る必要はないんだ――父さんだって、そうだったんだ」

 アストの言葉に反応して、リタの表情が悲しみに陰る。乾いた瞳が潤みだす事はなかったが、充分すぎるほど痛々しい。

 目の前の女性を包む悲しみの深さは、自分と同じか、それ以上かもしれないとアストは感じた。しかしその理由を探ろうとはせず、無言で太陽を見上げる。

「どこまでが、エイドルードの決めた運命だったんだろう」

 アストが呟くと、リタもアストと同じように視線を空へと向けた。

「母さんの死と、父さんの死と、俺がこの剣を手にして、リタさんに見送られる事は、確実にそうだったって判るんだ。でも、それ以外はどうなんだろう。俺がザールで育った事や、ザールで色々な人に出会った事も、エイドルードが決めた運命だったんだろうか」

 たとえば、ユーシスと出会った事は。

 生まれてはじめて、義務感でなく誰かを守りたいと思った事は。

 大いなる悲しみに負ける事なく、剣を手にし、今ここに立っている事は。

「すべてが運命だったとしても、エイドルードは私たちの心までは操れなかったと思う」

 太陽に向けた目を細め、リタは呟く。声は細かったが、自信に満ちていた。

「そうなのかな」

「そうよ。たとえば――カイとシェリアが結婚した時の話は、聞いた事ある?」

 アストは念のため記憶を丹念に辿ってから、やはり覚えがないと確信を持ち、首を振った。

「ない」

「そう。まあ私もカイ本人じゃないから、カイの詳しい心情を理解しているわけじゃないんだけど」

 緩やかな風が、リタの髪を揺らした。太陽の光を浴びて瞬く金の髪は、アストのものと同じだったが、ずっと優しい色に見えた。

「シェリアと私は、出会うべくしてカイに出会った。多分、状況とかはエイドルードの思惑通りじゃなかったんだろうけど、出会った事そのものは、間違いなく、エイドルードが定めた運命だった」

「うん。それは、なんとなく判る」

「けれど、カイがシェリアと結婚するって決めたのは、エイドルードじゃない。カイは、自分自身の心だけで、シェリアを選んだの。私はそれを知っているわ」

 ふと気が付くと、アストは自分自身の胸倉を掴んでいた。本当に掴みたいのはそこではなく、肉体の奥に隠れた、隠れていなかったとしてもけして触れられない、形を持たない場所だったのだが。

 多くの感情が淀むそこは、アストの目に映る事はなかったが、暗い色に支配されていると判っていた。けれど、ただひとつ――たったひとつだけ、小さく光る輝きが、アストの背を後押ししてくれる。

「もし、俺にとっての自由は心だけの話で、それ以外のすべてが決められていたんだとしたら――俺は、エイドルードを恨みきれないよ」

 リタは、すべてを悟りきったと言わんばかりの穏やかな眼差しで、真っ直ぐにアストを見上げた。

「俺はやっぱり薄情だ。運命が俺の両親を殺したって知っているのに。俺が知らないところではきっと、もっと多くの人たちが亡くなってるんだって、判っているのに」

「私もよ」

 力がこもるアストの拳に、リタの白い手が重なる。冷たい手だが不思議と温かく感じたアストは、ようやく手から力を抜いた。

「私は運命によって、ほとんどすべてを失った。けれど、一時とはいえ得た大切なもの、手元に残ったものも、やっぱり運命によって手に入れているの。それを思うと、運命を、エイドルードを、心から呪う事はできない。それでいいと私は思ってる。だって貴方や私たち、生き残った者は、失った大切なもののために生きるんじゃない。手元に残った大切なもののために、生きていくんだから」

「それを薄情って言うんじゃないかと思うんだけど」

 リタは力強く肯いた。

「じゃあ、薄情でいいじゃない。少なくとも貴方の両親は、薄情な貴方を望んでるわよ」

「まさか」

「本当よ。私は貴方の両親じゃないけれど、これだけは自信を持って言える。貴方は、貴方が守りたいと思ったものを――それがユーシスただひとりだと思うなら、ユーシスを守るためだけに、行けばいいの」

 発つ事への迷いを、ユーシスが掃ってくれた。

 迷わず発つ自分を、リタが肯定してくれた。

 ならばもう、立ち止まる意味はないのだろう。アストは強く肯く事でリタに応えると、歩き出した。

 リタの横を通り過ぎ、リタを背中の向こうへと置き去りにする。すれ違いざまにアストの肩を軽く押したリタの手に、勇気を分けてもらった気がした。

 振り返る事なく、アストは無言で歩き続ける。今よりもなお幼い頃、ただ一度だけ訪れた地を目指して。

 当時アストと共にあった、父やリタや多くの聖騎士たちは、今のアストのそばにはなかったが、不思議と、心細さや不安はない。

 ただ力強く、歩み続ければいいだけだった。

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