芽生えたもの 10
人の影がかかった。はじめは横たわるユーシスの上に。やがて、アスト自身の上にも。
長さや形から、よく知る人物の影である事に気付いたアストは顔を上げ、影の主の瞳を見つめる。自身と同じ色を持つそれは、アストにとって最も頼もしいものだ。途方に暮れかけた今、縋るに最も相応しい相手が目の前に現れてくれた事が、たまらなく嬉しい。
どうしてここにいるのだろうと考えたが、周囲の喧騒が激しくなった事によって答えを知る。ハリスが後から来るように指示した援軍と共に現れたのだろう。城で聖騎士たちが派手に人集めをしている様を見れば、何かが起こったのだと察して当然だし、何かが起こっているというのに、黙ってじっとしている性質の人間ではない。ハリスがここにいる今、強気で制止できる者も城にはいないだろう。
「父さん」
アストは父を呼んだ。根拠は何ひとつなかったが、父ならば今の状況から自分たちを救ってくれるだろうと、アストは信じていた。
しかしカイはアストの声に返事をくれない。ひと目で状況を察したのか、厳しい眼差しでユーシスを見下ろすだけだ。
応じるユーシスの笑みは、相変わらずだった。
「父さ……」
再度呼びかけようとしたアストの声は、途中で途切れる。地響きが遠くから伝わってきたためだった。
はじめは雑草が微かに揺れる程度の小さなものだったが、ほぼ一定の間隔を空けて響くたびに強くなっていく。地面に着いた部分から全身へと伝わる振動も比例して強まり、アストは頭の中が痺れていくように感じていた。
「ようやく来たんだ。遅いよ」
ユーシスの呟きは気にかかったが、右手の方向を見上げた父に倣う事を優先し、アストは顔を上げた。それだけで、地響きの正体は明らかになった。
並の人間のゆうに5倍はあるだろう大きな生物が、一歩一歩近付いてきているのだ。何かに――おそらくはユーシスに――呼ばれて。
アストたちからはまだ距離があるが、前線で戦っている聖騎士たちは、巨大な魔物と接敵したようだった。アストは魔物の足音の中に、人の騒ぐ声が混じるのを聞きつける。
魔物が長い腕を乱暴に振る。障害物を排除しようとしたのだろうか。魔物の前に生える木が一斉になぎ倒され、逃げ遅れた者の体が宙を舞った。
リタは巨大な魔物を指差し、聖なる言葉を唱える。轟音が響き、魔物の上に雷が落ちた。雷は確実に魔物の皮膚を焼いたはずだが、何事もなかったかのように、魔物は平然としていた。
「何よ、あれ」
遠くの魔物を睨みつけながら、リタが不満げにこぼす。
「どう見ても魔物だな」
「そのくらいは判ってるわよ。なんであんなに大きいのかって事」
「俺は巨大化して人よりも大きくなった蟻の魔物を見た事がある」
「私もよ。貴方と一緒にね」
「それを思い出せば、おそらく元は熊の類だと思われるあれが、あそこまで大きくなったとしても不思議はない」
「……判りやすい答えをありがとう」
雄叫びが聞こえる。多くの聖騎士たちが、魔物の巨体に群がり、一斉に切りかかった。
大きさと比例した耐久力があるのか、それとも単純に皮膚が厚いのか、魔物は聖騎士たちの攻撃によって致命傷を受ける様子はなかった。前に進む足を止める事なく、前方にいる者、あるものを、差別なく蹴散らした。
魔物は動き自体はさほど速くないのだが、巨体ゆえに一歩が大きい。驚くほど早く目の前に迫られ、アストは息を飲んだ。
逃げなければ、と思った。だがそれ以上に、ユーシスを逃がしてはならない、とも思った。
ユーシスの腕を捉えたまま立ち上がったアストは、ユーシスの腕を引いて走り出そうとする。しかし、強い抵抗によって、思う通りに動かなかった。
「アスト!」
カイの手が伸びる。アストとユーシスの両方に。だがここぞとばかりに小さな魔物がカイに体当たりをしたので、カイの左手は一瞬だけユーシスを逃してしまう。
たかが一瞬が、その後のすべてを変えた。迫る巨体の一撃を避けるためにカイが引き寄せられたのは、アストの体だけになったのだ。
アストとユーシスの間を引き裂くように、大きな拳が空を裂き、地面を抉る。土が、草が、粉々に砕けた枝が飛び上がり、アストたちの上に雨のように降りそそいだ。
激しい土煙によって目の前すらろくに見えなくない状況の中、アストはユーシスの姿を探した。ようやく見つけた時には、舞い上がったもののほとんどが地上に戻っていて、ユーシスの体はすでに手の届かないところへと移動していた。
ユーシスが地面の上に置かれたままの魔物の前足を撫でると、魔物は一度頭を下げたのち、アストのほうに向き直った。前足を高く上げ、咆哮する。空気が震えるとはこの事だとアストは思った。耳が痛いだけではすまず、皮膚まで刺激を受けているような。
魔物の足が、アストたちを狙いながら、再び地面を突いた。避ける事は、相手に集中していればさほど難しくない。再度降りそそぐ事となった土や木切れの雨は鬱陶しかったが。
アストは光の剣を構えた。聖騎士たちが振るう、金属で作られた剣による攻撃の効果がほとんどないとすれば、まさしく自分の出番だと感じていた。このために力を温存していたのだと。
4年前のように、思う存分薙ぎ払って力を放出すれば、簡単に片付くのかもしれない。だが、アストの個人的な心情として、ユーシスを巻き込む事はやはりできなかった。となれば、先ほどまでと同じように、あくまで切れ味が鋭すぎる剣として使うしかないだろう。
緊張のあまり、自身の体の動きが鈍っているような気がして、アストは1度だけ、力を抑えた剣を振り払おうとした。
存分に振りきる前に手首を強く掴まれる。アストは驚いて動きを止め、剣は勢いを失った。
「邪魔をしないで……」
文句を口にしながら振り返ったアストは、途中で言葉を飲み込んだ。アストを止めたのは、カイだったのだ。妙に真剣な顔をしている。カイの隣に立つリタが、不審な目で凝視するほどに。
「無意味に振り回すな」
「意味がないわけじゃないよ。体を慣らそうと思って」
「それでも、あまり乱暴に扱うな。途方もない力を持つものだ」
父の言い分はあまり納得できないものだったが、アストはおとなしく従い、魔物に向けて剣を構える。
「体力に余裕はあるか?」
「どういう意味?」
「剣の力を解放できるか、と聞いている。以前、洞穴の封印を行う前にやったように」
「それは……」
アストは口を噤んだ。
父は体力的にできるかできないか、と問うている。ならば、答えは「できる」だ。しかしアストはそう答えたくなかった。できると答えてしまえばやらされるだろうが、アストはやりたくないのだ。
「できないよ」
「ずいぶん下手な嘘だな」
即座に看破され、アストは羞恥のあまり唇を歪めた。
「だって、俺がそうしてしまったら、ユーシスは……」
再度魔物の前足が迫った。素早く反応し、際どい位置で避けたアストは、剣をかざし、魔物に切りかかろうとする。
自分の考えがいかに浅はかであったか、アストは知った。魔物は攻撃の度に、アストの視界の大部分を塞ぐ。切りかかろうにも狙いを定める事ができないのだ。
相手が動くよりも先に切りかかるしかない。そう決心したアストが走り出そうとした瞬間、背後から声がかかった。
「落ち着いて思い出せ、アスト」
父の声は妙に冷静で、こんな状況で落ち着けるものかと腹が立ってくる。背中に触れた大きな手から伝わってくる温もりがなければ、怒鳴りつけていたかもしれなかった。
「何を思い出せって言うんだよ」
「お前の持つ剣の力だ。光の剣は、何を滅ぼす」
「魔物を」
即答すると、父は短い沈黙の後答えた。
「――まあ、そうだな」
「それがなんだって言うの?」
「逆に考えてみろ。光の剣が滅ぼせないものはなんだ?」
今度はアストが沈黙を呼び込む番だった。
父は、アストが最も欲していた答えを教えてくれている。アストはそれに気付きながらも、素直に受け止めて従う気にはなれず、落ち着きはじめた砂煙と魔物の巨体の向こうに隠れた、ユーシスの姿を探した。
「光の剣で、人は殺せない」
いつだったか、父が教えてくれた事を口に出してみる。だから、魔物と戦う際には周りを巻き込む事を恐れる必要はないのだと、父は続けたのだったか。
父の教えを忘れていたわけではない。だからこそアストは今日この日まで、剣を振るう事を、剣の持つ力を、恐れなかった。ただ魔物を倒す事に専念すればいいのだと、信じられたのだ。
「判っているじゃないか」
父の手が両肩に触れる。軽く押しているようだった。アストを勇気付けようとしているのかもしれない。
「お前が斬るものが魔物ならば滅ぶ。人ならば助かる」
「でも……」
「ユーシスは魔物か?」
「ち、違うよ」
「なら、人か?」
アストは即答できなかった。今のユーシスを目の前にして、ただの人だと言い切る自信がなかった。
「ユーシスが人である事を信じられないか?」
肩に触れる父の手に、力がこもる。
「俺は……俺は、たとえ人じゃなかったとしても、ユーシスに生きていてほしいよ。それに俺は、守るって約束をした」
「落ち着け、と言っただろう」
カイはアストの頭を柔らかく包み、俯きがちだった顔を上に向けた。
「周りを見ろ」
魔物が暴れている。狙いをアストだけに絞るのを止めたようだ。近付くものに対して手当たりしだい、乱暴な攻撃を加えている。乱戦になっていた。悲鳴があちこちから響いた。誰もが戦い、誰もが傷付いていた。
その中でただひとり、ユーシスだけが、涼しげな顔をして立っている。
「今のユーシスはほとんどの者の目に魔物として映っている。これまで表立ってユーシスを擁護してきた俺やナタリヤだって、今のユーシスをただの人だと主張して庇う事などできはしない。しても、誰も信じやしないだろう。アスト、判るか? もはや、ザールの領主の一族や、神の子の言葉が、力を持たないところまで来てしまっている」
父の手が離れると、アストはしぶしぶ肯いた。
「だが、お前の力は、ユーシスが人である事を証明できる。流れを断ち、変える事ができるかもしれない力を、お前だけが持っている」
「でも」
「このままでは、お前ではない誰かがユーシスを殺す。お前は、ユーシスを生かせる可能性を秘めている」
可能性などという不確かな言葉は嫌いだった。昨日までと同じ幸せな日々が、明日からも確実に続く事を望んでいた。だがそれは無理な望みなのだと、冷酷に感じてしまうほど冷静な父の声が語る。
自分はユーシスを救えるかもしれない。しかし、救えずに自らの手で殺してしまうかもしれない。
逃げ出したい、が、アストの本音だった。自分ではない誰かによってユーシスが救われれば良いのにと、心から願っていた。それが自分の弱さだと気付いていながら、気付かないふりをして。
「無理強いはしない。どうするかは、お前が選べ」
父の言葉は突き放すように冷たい。
「選べ」などと、酷い言葉だとアストは思った。どう考えても、一方しか選びようがないではないか。アストに選べるのは、いつ迷いを断ち切り、決行するのか、それだけではないか。
「くそっ……!」
アストは唇を噛みながら光の剣の柄を強く握りしめ、ゆっくりとした動作で剣を振り上げた。
振り下ろせば、何かが大きく変わるのだろう。良い形になるのか、悪い形になるのかは、やってみなければ判らないが。
『僕だって、いつまでもこのままでいたってどうしようもないって事くらいは判っているつもりなんだ』
いつかに語った、ユーシスの声が聞こえてきた気がした。
あの時のユーシスも、今のアストのように、大いなる迷いの中に身を置いていたのだろうか。平然としていたように見えた彼に、自分はなんと返しただろうか。
『いざ行ってみれば、想像していたよりもずっと気楽な――』
ごめん、ユーシス。
俺は、とても無責任な事を言ってたんだな。
アストは気楽とは縁遠い心境の中で、音にせず謝罪の言葉を繰り返した。
深呼吸をする。それから一瞬だけ目を伏せ、再度目を開ける。別人のように強い眼差しで、ユーシスを見つめるために。
「ユーシス!」
だって、こうするしかないんだ。
こうするしか。
言葉にならない音を叫びながら、アストは剣を振るう。
心に秘めて繰り返した言葉を、音にして伝えられる時が来る事を祈りながら。
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