封印 14

 大粒の汗が白い肌の上を急ぎ足で滑り、地面へと零れ落ちていく。土は湿る事で一瞬だけ色を濃くしたが、すぐに水分を吸収し、他と変わらない色へと戻った。

「リタ様。何度も申しますが、無理はなさらないでください」

 リタの手から放出していた光は、リタの目の前に横たわる男の傷を治しきるよりも前に消えた。それでも、太腿の肉を食い破って外へと飛び出した骨は正しい位置に収まり、出血や痛みがなくなった事で、男の顔色は明らかに良いほうへと変わっているた。

「私だって限界は弁えてるわよ。全員治そうなんて思っていないし、全部の傷を治そうとも思っていないもの」

「骨の1、2本折れたところで人は死なないとも、理解していただけると助かります。この程度でしたら、彼らにとっては名誉の負傷、言わば勲章代わりです。リタ様を煩わせるほうが辛いのですよ」

「そんなものなの?」と目の前の聖騎士に訊こうとして、やめた。聞いたところで、リタに正直な想いを答えてくれる聖騎士など、そうそういないだろう。正直にものを言うジオールの言葉を丸ごと信じたほうが、よほど信憑性がある。

 リタは自身に残された力を計り、望まれようと望まれまいと、これ以上無差別に治すのは無理だと悟ると、大人しく立ち上がった。ジオールに従っているようで気に入らなかったが、無言で彼の隣に並び、歩きはじめる。

「でもね、小さな怪我で死ぬ人もいると思うのよ」

「ほう」

「だから、名誉の負傷とか言われても、できる限り放置したくないのよね。若ければ治りもはや早いだろうけど、違うし」

 リタはジオールの腹部に手をかざし、小さく唱える。最後に残った力は、リタの持つすべての力の前にはわずかと言えるものだったが、ひとりの人間が鎧の奥に隠した負傷を癒すには充分だった。

 最後の光が消えると、ジオールは自身の腹に手を置いて、リタに小さく微笑みかけた。

「お気付きでしたか」

「貴方が歳を負うごとに意地っ張りになってる事くらいはね。あの程度の魔物たち相手に怪我した自分が不甲斐ないとか思った?」

「多少は思いましたが、老いて痛覚が鈍ったのかもしれません」

「それが意地っ張りだって言うのよ」と言ってやるのも面倒で、リタは肩を竦めながら顔を反らした。

「まだまだ引退できないと思うなら、自分の体を労わりなさい」

 リタは鎧を軽く小突くと、小走りでジオールのそばを離れた。ジオールが隊の現状を細かく確認するために様子を見て回っている事は知っていたが、それに付き合う気力も体力も残っていなかったのだ。

 リタは自分たちのために用意された休憩場所に戻った。用意されたと言っても、所詮は露営だ。しかも、宿泊する予定はないため、他よりも柔らかで平らな土の上を選び、上等な敷物を敷いてあるだけである。

 敷物の中心に、折りたたんだ毛布を枕代わりにしたアストが横たわっていた。その傍らには当然、カイが腰を下ろしている。

 カイは時折、静かな寝息を立てる息子の髪を撫でていた。大きさの割りに繊細な手つきに、途方もない愛情を込めて。

 疑いのない強い愛情の奥に隠れる苦痛が見て取れた。他に手がないからと、誇り高い役割だからと、言い訳じみた慰めはあっても、結局のところ子供を酷使しているだけとの事実に、思うところがあるのだろう。

「ちっとも変わってないのね」と、嫌味っぽく言い捨ててやりたい気分を必死に押さえ込んだリタは、アストの足元付近に腰を下ろした。カイとは、アストを間に挟んだ配置になる。

 カイは当然リタの帰還に気付き、一度はリタを見たが、それだけだった。慈愛を込めた眼差しを、息子に捧げ続けている。

「ねえ、カイ」

 抱えた膝に顔を埋め、何も見ないようにしながら、リタはカイの名を呼んだ。返事はなかったが、気配の変化を肌に感じる。リタを見てくれたか、少なくとも、意識は向けてくれたのだろう。

「ずっとね、貴方に訊きたかった事があるの」

「ずっと、か」

「うん。ずっと。具体的に言うなら、10年くらい」

 空気が少しだけ張りつめた気がした。

 カイは察しただろうか。リタがこれから口にしようとしている質問の内容を。察する事で、動揺したのだろうか。

 もしそうならば、リタにとって嬉しい事だった。少なからず動揺できる程度に、引きずっているのだとすれば。

「今の貴方が、他の誰よりも多くを知っているのは判ってる。選定の儀の晩に、エイドルードから言葉を得たって事も人伝に聞いた。その上で私が訊きたいのは、ある運命についてよ」

 リタは膝から顔を離した。

 明るくなった視界には、少し離れた場所でせわしなく動く聖騎士たちの姿が映る。それから、寝転がるアストの足や、脱いだっきり放り出されたままの靴。カイがどんな顔をしているのか確かめるには、まだ勇気が足りなかった。

「選定の儀の前に知っていたの? アストの母親となる人が辿る運命を」

 知っていてシェリアを選ぶ事と、知らずにシェリアを選ぶ事。そのふたつの意味が大きく違う事は、誰にでも判る。

 カイはあの夜何を選んだのだろう。先の人生を共に生きる相手であったのか、近い死別を内包しながらも今を共有したい相手であったのか――抗えない運命の犠牲にする相手であったのか。

 リタは答えを知りたかった。知って、胸の中心に濃く広がる霧を晴らしたかった。選定によってカイの心にどのような変化が起こったのか。もしその変化に、激しい痛みを伴ったのだとすれば――

「今更答えを知ってどうするんだ?」

「今更、ねえ」

「違うか?」

「違わない。ただ、私の問いに答える前に新たな問いを重ねてくる貴方の態度が気に入らないだけ」

 リタはからかうように小さく笑った。

「いいわ、答えてあげる。『今更どうもしない』わよ。今の私には、貴方の答えがなんであろうと、関係ないもの。貴方の言葉になんの意味もないからこそ、単純な好奇心で訊けるんじゃない」

 ひと息で言い切り、深呼吸をすると、リタはカイに振り返った。

 突然目が合った事に驚いたカイが、細めていた目を急に見開く。息を飲み、無言でリタを見下ろす様には、リタが知る少年の頃のカイの面影が強く残っていた。

「私にだけ答えさせるなんて、卑怯な真似はしないわよね?」

 カイは固く目を伏せ、わずかな困惑とためらいを見せた後、真摯な眼差しをリタに向けた。

「その時は知らなかったよ」

 乾いた声が、リタの問いに簡潔に答える。

「俺の妻になる人が辿る運命を、エイドルードは教えてくれなかった」

「だからこそシェリアを選んだんだ」と、「知っていたら君を選んだ」と、残酷な言葉をあっさり吐きだしそうな口調でカイが言った。昔の事を穿り返すリタを責めるような、呆れ混じりのため息と共に。

「そう」

 だからリタは、「それはよかった」と軽く続けても違和感のない、淡白な相槌を打った。

 長い間、ふたりは無言で見つめ合っていた。リタにはなんの意図もない。体が自由に動かせず、目を反らせなかった、それだけだ。

 すべてを笑い飛ばしたいのに、唇を動かす事すらできない自分自身に、リタは腹を立てていた。答えに意味がないなどと、よく言えたものだ。こんなにも心を揺らして、無様な姿を見せていると言うのに。

 時間をかけ、ようやく詰まっていた息を吐き出したリタは、意志によって体を動かせるようになった。真っ先にした事はカイから顔を反らす事で、次に選んだ行動は素早く立ち上がる事だった。

「どうした?」

「少し休んだらだいぶ楽になったから、また行ってこようかと思って。何人かは治せる気がするから」

「そうか。気を付けてな」

 労りの言葉は嘘臭く感じるほど気楽で、けれど本当に労わってくれている事が判った。振り返る事なく強く肯いたリタは、乱暴なほどに強く大地を踏みしめながら、カイを背中の向こうへと遠ざけていく。

 俯きながら歩くうちに、目頭が熱くなっていったが、気付かないふりをした。顔を上げられないぶんしっかりと足元を見て、聖騎士たちにぶつからないよう気を付けて突き進む。何度か呼び止められた気がしたが、無視をした。足を止めたところで、何もしてやれないのだ。力が戻ったなどと、あの場を離れるためだけの方便でしかないのだから。

 やがてひとりの聖騎士が現れ、リタの進行方向を塞ぐように立ち止まる。リタは逃げ道を失い、聖騎士の前で立ち尽くした。

 顔を上げて確かめなくとも誰だか判った。ジオールだ。ご丁寧に、リタの顔が他の聖騎士たちから見えない位置にさりげなく立っている。妙な所に気が回る男だと思いながらも、他に甘えられる場所が見つからず、リタは両手で顔を覆うと、我慢する事をやめた。

 溢れる涙が両手を濡らし、その熱さに驚いた。とめどなく流れる感情は、こんなにも熱いものだったのか――自分はまだ、カイのせいで泣けるのか。

「カイ様に……?」

 リタは涙を拭わず、震える声で答えた。ジオールには11年前にもさんざんみっともない所を見られている。今更隠す気にはならなかった。

「ええ。訊いたわよ。訊いたらしれっと、『知らなかった』って言われた。それでこのざまよ。情けない」

「カイ様が素直に真実を言葉にされたとは」

 リタは強く首を振り、ジオールの言葉を遮った。

「嘘とか本当とかは、関係ない。どっちだってよかった。私はただ、『知っていた』って言って欲しかっただけなんだから。それで、シェリアを殺した罪を共有したつもりになって、納得したかっただけなのに」

 自身に失望したリタは、声を飲み込む。

 質問を投げかけたのはリタで、答えを出すのはカイだ。カイがどのような答えを出すか、リタが決める権利などどこにもない。それを判っていながら、勝手に答えを期待し、期待に沿わない答えが返ってきたから泣くなどと、あまりにも情けなさすぎる。

 いつからこんなに弱くなったのだろう。

 リタは嗚咽を飲み込みながら、己の内に問う。

 明日の事ではなく過去の事ばかり考えるようになったのは、いつからなのだろう――

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