封印 8

 聖騎士たちが飛び出すと同時に、アストたちの元へと向かったリタの目に、今にも崩れ落ちそうなアストが映る。続いて、小さな体を支えるために、優しい腕が伸びる様も。

「大丈夫か?」

 アストを抱きとめたカイがうかべる苦悶の表情は、強い後悔の象徴だ。親子の世界に介入し辛くなったリタは、ふたりから2、3歩離れたところで足を止める。問いかけへの反応としては鈍すぎるほど間を空け、アストがゆっくりと肯くのを確認すると、強く安堵した。

 アストは当初、完全に父親の腕にもたれかかっていた。やがていくらか気力と体力を取り戻したのか、顔を上げる。父親の体を支えにして自身の体を立たせると、ようやく言葉で答えた。

「大丈夫。だけど、なんか、すごく、疲れた」

 切れ切れにこぼれる声は、明らかに弱っていた。普段の健康的な様子が嘘のように青白い顔には、大粒の汗がいくつもうかびあがっている。まだ幼いアストが急激に負った疲労の大きさを計るには充分で、リタは今すぐアストのそばに駆けつけ、抱きしめ、繰り返し謝りたい気になった。

 だが、その役目を負うべきは自分ではないと、理解できないリタではない。

「疲れて当然だ。ごめんな。完全に俺が読み違えた」

 カイの大きな手がやや乱暴に、だが優しく、アストの頬と頭を撫でた。

「でも俺、まだやれるよ。みんなが魔物を抑えてくれてるうちに、早く行かなきゃ」

「それはそうなんだが、お前は少し休んでおけ」

 温かな声で囁いてから、カイは鞘をアストに向けた。説明がなくとも父親が意図するところを理解したアストが剣を納めると、剣が放つ光は力はすぐに弱まった。

「リタ、剣のところは触らないようにな」

 剣を納めた鞘を、カイはリタに投げてよこした。

 突然の事だったので驚き、反応が遅れてしまったが、リタはなんとか取り落とさずに受けとめた。ひと息吐いてから、きつくカイを睨み付ける。

「何よ、突然」

「悪い。俺はアストを連れて行くから、君は剣を持っていってくれるか。他の人には頼めないんだ」

「どうしてよ」

「その鞘に触れられるのが俺たちだけだからだ。ああ、剣には触れないようにな。それはアストだけのものだから」

 カイの語る「俺たち」がどの範囲を示しているのか、察するのは容易で、ならば断る事などリタにはできなかった。

「判ったけど……荷物持ちとして使われるなんて、何年ぶりかしら」

 嫌味を混ぜた口調で言いながら、本音は違う事を示す笑みを浮かべると、カイは苦笑しながら小さく肩を竦める。

 カイはアストを背負うと、同時に駆けはじめた。本来ならばカイのほうが足が速いはずだが、並んで走るにちょうどいい。リタに気を使って合わせてくれている、わけではないのだろう。背中にいるアストへの気遣いと、荷物としての重みが、カイの足を自然と遅くしているだけだ。

 喧騒の中走り続けると、地面がよく揺れるようになった。命を失った魔物の巨体が、地に倒れた衝撃によるものが主だ。時に、体から何十本もの矢を生やした空飛ぶ魔物が地上へ落ちてきて、その時の衝撃はより強く、転びそうになる事もあった。

 洞穴に近付くほどに、進行は困難になっていく。アストが大幅に減らしたとはいえ、洞穴を死守しようとする魔物たちはまだ多く残っており、リタたちを洞穴へ届けようとする聖騎士たちの戦いが、苛烈を極めたからだった。やや優勢にある聖騎士たちが、魔物たちを押しやり、こじ開けてくれた道を進み、リタたちはようやく洞穴の前へと辿り着く事ができた。

 洞穴を見るのは初めてで、リタは息を飲んだ。鞘を掴む手に、勝手に力が入る。大の大人が何人も並べるほど大きい入り口から漂う濃い魔の気は、今にも人間たちを飲み込んでしまいそうで息苦しく、無意識のうちに姉に縋っていたのだった。

 洞穴の中は、外の光がかろうじて届く入り口付近を除くと真っ暗で、先がどうなっているかまったく見えない。どれほど長く続いているのだろう、魔獣が眠る地底まで――アストはいつか、この不確かな道を、ひとり進まなければならないのか。

 未来のアストが辿る運命を想像し、リタの胸は強く痛む。

「アスト、疲れてるのにごめんな。もうひと仕事だ」

 アストは小さく肯き、カイの背中から降りた。

 同時にリタが剣を差し出すと、アストは剣を引き抜き、カイが鞘を手に取る。剣が再び強く発光しだすと、周囲の聖騎士たちから歓喜の声が上がった。

 光の眩しさに、魔物たちは先ほどの惨劇を思い出したのか、なんらかの危機を感じ取ったようだった。地上の魔物は聖騎士たちを蹴散らそうとより強く暴れだし、空の魔物はそれまで攻撃を加えていた弓部隊に見向きもせず、アストに向かって飛んでくる。

 鋭いくちばしを持つ魔物が、アストの小さな体を貫こうと急降下した時、アストはぎこちなく剣を構えた。

 素人同然の構えでも、彼と剣の力があれば、魔物一匹くらい倒すのは簡単だろう。しかし、これ以上力を使っては、封印を施す前に倒れてしまうかもしれない――そう考えたリタは、止めなければと思った。アストが力を使う前に、自分が魔物を倒さなければと。

 リタは腕を伸ばす。聖騎士たちがアストを庇おうと駆け寄ってくる。それらすべてを存在で制止し、カイはアストの前に立ちはだかった。

 カイは剣を抜かなかった。剣の代わりに鞘を構え、魔物を待ち受けただけだった。

 それだけで充分だった。黒い鞘は傷ひとつつく事なく、光を浴びて輝く優雅な姿に不似合いなほど強烈な力で、魔物を弾き飛ばしたのだ。

 不自然な態勢で地面に叩き付けられた魔物の、骨が折れる鈍い音を聞き届けてから、リタはカイに振り返った。

「その力は、対魔物専用? それとも、私たち以外全部に対して?」

「後者が正解だな」

「そりゃ、私を荷物持ちに使うわけよね。でも、もう少し大切に扱ってもいいんじゃないの? それは……」

 カイの視線が、鋭くリタを貫く。

 一瞬怯み、言葉を飲み込んだリタは、すぐそばにいるアストが何も知らない事を思い出した。迂闊な事を口にしかけた自分を頭の中で罵倒し、止めてくれたカイに心の中で感謝する。

「……封印にも役立つ、特別な鞘なんだから」

「特別だからこそ、ここぞという時に使うものだろ」

 直前の眼差しが嘘のように優しく微笑んだカイは、アストに向き直った。

「アスト。それからリタもだが、今から封印が終わるまでの間、魔物の事は一切考えるな。お前たちは必ず俺たちが守るから」

 即座にアストが肯き、続いてリタも肯いた。

 不安は元よりない。少なくとも現時点では、聖騎士たちの戦力が魔物たちの戦力を上回っていたし、そうでなかったとしても、聖騎士たちは命をかけ、必ずアストとリタを守るだろう。たとえ最後のひとりになろうとも。

「そして、何があっても振り返る事なく、封印の完成を優先すると約束してくれ」

 リタは即座に肯いたが、アストはしばらく動かなかった。

 アストはまだ幼く、戦いに馴れていない。人が目の前で倒れても平静としていられる自信がなかったとしても、仕方のない事だ。名も顔も知らない、王都から来たばかりの聖騎士たちならば耐えられたとしても、幼い頃から知っている聖騎士たちが倒れたとしたら? 比較的近しい位置に居るハリスが、命の恩人であるジオールが、最愛の父親が倒れたとすれば。

 不安に硬直するアストの背中を、カイが軽く叩いた。

「俺たちを信じろ」

 力強い言葉を残し、カイはその場を立ち去った。残されたアストはしばらく父親の背中を見つめたのち、強く肯いた。もうカイは見ていなかったが、カイの言葉への答えだったのだろう。

 リタもカイに倣い、アストの肩を軽く叩いてから、アストのそばを離れた。アストを頂点とし、洞穴の入り口を塞ぐ三角形をつくる位置で足を止める。目の前は土や岩で盛り上がっており、向こう側は見えないが、カイが鞘を置いているはずだ。

 リタは目を伏せ、胸の前で手を組んだ。視覚を塞ぐ事で研ぎ澄まされた聴覚が、周囲で繰り広げられる戦いの音を強くリタに伝えてきた。大地を駆け、踏みしめる音、剣と魔物の硬い皮膚がぶつかり合う音、矢が風を切る音、悲鳴、唸り声、雄叫び――

 組んだ手にいっそう強い力を込めてから、リタは目を開け、視線をアストに向けた。

 アストは震えながら天上に向けて剣を掲げた。剣が放つ光が更に強まり、アストの体を包み込んでいく。

 剣がアストに力を与えているように見える光景だったが、違うのだと、リタは感覚で知っていた。剣が強い力を秘めているのは事実だ。だが、アストの中に眠っている力はそれ以上で、剣はアストの力を解放するための媒体にすぎない。

『天上には神、地上には人。地中に眠りしは、悪しき魔獣――』

 アストが声を紡ぎはじめた。周囲に鳴り響く音にかき消され、リタの耳には届かなかったが、事前にカイに教え込まれていた、神聖語による祈りの言葉だろう。

 失われた封印を復活させる、力ある言葉が放たれると、アストを包んでいた光が、リタの元まで伸びてきた。

 光は、真夏の太陽のごとき熱さとなって、外側から内側からリタの体を責める。熱いと同時に息苦しくなり、体が揺らいだが、両足に力を込め、倒れる事を拒絶した。剣は、光は、アストだけでなく、リタの力をも引き出そうとしているのだから、負けるわけにはいかない。

 乱れかけた呼吸を整える事で、体と同時に揺らぎかけた心も引き締めると、周囲が静かに感じられるようになった。集中ゆえ、だろうか。必要な感覚だけが研ぎ澄まされたかのように、アストがたどたどしく音にする神聖語のみが耳に届くようになっていた。

『我は誓う。偉大なる天上の神の名の下、集いし命の平安を』

 幼い少年独特の、柔らかな声が途切れる。リタは大きく息を吸い込み、静かに吐き出してから、再び発せられたアストの声に重ねた。

『我らは今、地底と地上を繋ぐ道を、遮らん』

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