封印 7
ついこの間、はじめて馬に乗ったばかりだというのに、またも馬に乗る機会に恵まれてしまった。
一度目のような興奮はさすがにもうなかったが、普段と違う視点はやはり新鮮で楽しい。うかれたアストは、父が手綱を操る馬の背で、のんきに空を見上げた。父の手綱さばきはリタと比べると安定しており、安心して揺られていられる――などと正直に言おうものなら、万が一リタの耳に入った時に何を言われるか判ったものではないので、口には出さないでおく。
見上げた空は晴れ渡っていた。そういえば、ユーシスと出会ったあの日以来、雨は降っていなかった。どうやら雨の季節はいつの間にか終わっていたらしい。
雲ひとつない真っ直ぐな青は清々しく、アストは鼻から胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
すでに魔物が出でもおかしくない区域に入っているが、今のところ、先頭を行く部隊が軽く始末できる程度にしか出ていない。アストの元まで喧騒は届かない上、温かに降りそそぐ日差しが心地良く、空気も気分も嘘のように穏やかだった。もし聖騎士たちが周囲を固めていなければ、父とふたりで遊びに来ているのだと、錯覚していたかもしれない。
平穏な空気を引き裂きさく一筋の雷光が天から落ちてきたのは、本当に錯覚しはじめた頃だった。
轟音に、アストは気分も体も引き締め、前方に目をやる。晴れた日に突然落ちる雷の原因はリタ以外に考え付かない。そして、リタが乗る馬は、隊のやや前方を進んでいるはずだ。
犯人はやはりリタだったようだ。アストがはるか遠くにリタを見つけるのと、リタが天に向けて伸ばしていた白い手を下ろしたのは、ほぼ同時だった。
リタの周囲の聖騎士たちが数人、リタに向き直って何かを言いはじめる。感謝の類か、自ら動きすぎる彼女を嗜める類か、この距離では当然聞き取れなかった――おそらくジオールは、嫌味の混じった注意の類を口にしているのだろうが。
「聖騎士たちが魔物たちと戦うより、まだ離れているうちにリタさんが雷を落としたほうが楽だし、誰も怪我しなくてすむんだから、怒ったりしなくてもいいのにね」
アストが正直に感想を述べると、父は苦笑した。
「俺もお前と同じ考えだけどな。でも彼女の場合は、放っておいたらひとりで魔物の中に突っ込んで、ひとりで大暴れしかねないから。ああやって周りの人間が多少小言を言って、日頃から牽制しておかないと、いざという時大変なんだろう」
「そんな無茶な」と思いつつも、確かにリタならばやりそうだと、アストは納得した。そして、隊が進行を止めるまでの間、両手では数え切れない回数の雷が落ちるたびに、口から勝手に飛び出そうとする笑い声を必死に飲み込んでいた。
隊全体の動きが止まったのは、洞穴を目の前にしての事だった。
伝令役の若い聖騎士が、馬を駆って姿を現し、アストたちと、すぐ横についていたハリスの間で足を止める。一度馬を下り、姿勢を正して一礼してから、語りはじめた。
「ご報告です。先頭部隊の者が目視できる距離まで洞穴に接近いたしましたが、洞穴の周辺に多数の魔物の姿が確認されています。このままいたずらに隊を進めるは危険との事です」
「それはジオール殿の判断か?」
「はい」
アストが父を見上げると、父はハリスを、ハリスは父を見た。互いに思うところは同じだったようだ。
「ジオール殿のところまで案内を」
「はっ」
止まった隊列の脇を、3頭の馬が賭けていく。そうして案内された場所は、隊のほぼ先頭だ。
前方に木が立ち並んでいるせいで視界があまり開けていないが、何人かの聖騎士たちが隙間から向こうを覗き、警戒している。彼らの後ろで、リタとジオールが難しい顔をしていた。
「ジオール殿」
ハリスが声をかけると、リタとジオールが振り返る。同時にジオールが手を軽く上げると、警戒をしていた聖騎士たちのひとりが身を引いたので、ハリスは木々に近付き、生い茂る葉の間から、前方を確認した。
「魔物が多くいるとの報告は受けておりましたが、昨日受けた報告よりもはるかに多いようですね。昨日の時点では、充分すぎるほどの戦力を用意したと思っていたのですが」
ハリスの声は落ち着いていたが、簡潔に語られた状況は落ち着いていられるものではなく、不安のあまりアストは、傍らに立つ父の服の裾を掴んだ。
「なんで都合よく……いや、私たちには都合悪いのか。まあ、どっちでもいいけど、なんで魔物たちはあんなに集まって来てるわけ? やっぱり魔物たちは、洞穴の近くにいたほうが強い力がもらえるの?」
「おそらくそうなんだろうな」
苦い顔をしつつ、落ち着いた口調で答える父を見上げ、アストは手に込めた力を強くした。
「じゃあ魔物たちは、今は力を蓄えている最中、ってとこか。はやめに動いておいて良かったわね。あいつら全部が充分な力を得てからザールに来たら、やっかいな事になってたかも」
リタは肩を落とし、長い息を吐いてから、腕を組んだ。空色の瞳は、不機嫌な光を秘めはじめる。
「魔物に怯えて引き返すって選択は絶対にないわよね。かといって、封印に回せる力を残した上で、私がここから減らせる数は限られているし。でもこのまま突っ込んだら、聖騎士たちが受ける打撃は大きいでしょうね。下手したらほぼ壊滅。お役目だからしょうがないと言っちゃえばそれまでだけど、無駄に命を散らしたくはないし。そこで、物知りなカイ様に、何か名案がないかお伺いをたてようって事になったのよ。どう? 何かある?」
「ずいぶん嫌味っぽい話しかたをするな。君らしくもない」
ハリスの隣に並んだカイが、木々の向こうを眺めながら言うと、リタの唇に歪んだ笑みが浮かんだ。
「貴方も10年以上嫌味な男と一緒にいてみなさいよ。嫌でも移る」
わざとらしいジオールの咳払いに、誰ひとり気付いたそぶりを見せないので、アストも気付かないふりをした。苦笑いをしながら一瞬だけ肩を竦ませた父が、再び木々の向こうに集中するのを見守った。
「誰かが囮になって別の場所に誘き寄せようにも、今のあいつらにとっては、下手な人間よりもあそこに居る事で得られる魔の気の方がよっぽどごちそうだろうから、動かないだろうな。アストやリタは他に重要な仕事があるから、俺が囮に――いや、そもそも、魔獣なりなんなり、頭が回るやつの指示がなければ、あいつらは俺がいい餌だって気付けないのか?」
聞いているアストがうろたえてしまうほど物騒な父のひとりごとを制止したのは、ハリスだった。
「カイ様、そのような策を使われるくらいでしたら、我らは今すぐ突入命令を出して玉砕するほうを選びます」
父が少し残念そうに肩を落とすのを、アストは見逃さなかった。
「って言うと思ったんだ。ま、無理を押し通しても大して効果はないだろうから、やめておこう。となると単純に、突撃前に手数を減らすか」
「私が?」
「いや、アストだな」
突然名前を出されたアストは、視線で父に縋った。
今日まで何もしてこなかったアストにとって、洞穴の封印を担うだけでも緊張すると言うのに、それ以上の役目を果たせるのだろうかと不安がよぎったのだ。しかも、失敗すれば、多くの聖騎士たちの命が失われるかもしれない。
「ごめんな、アスト。疲れると思うけど、そんなに難しい事じゃないから、力を貸してくれ」
アストは恐る恐る肯いた。
「うん、それは、いいんだけど」
「じゃ、ハリス、ジオール、そういう事で頼む。多分半数かそれ以上の魔物が倒れる。その後すかさず突入だ。時間を空けてしまえば、魔獣の力に惹かれた魔物がどんどん集まってくるだろうから」
「承知いたしました」
ハリスは来た道を戻り、ジオールはその場で振り返り、周囲に待機する部下たちに指示を飛ばす。聖騎士たちは素早く隊列を組み変えたり、武器や盾を構えたりと、すぐにでも茂みを乗り越え魔物たちに突撃できる態勢を整えていった。
「で、聖騎士たちが残った魔物を抑えている間に、アストとリタは予定していた配置に着いて、封印を完成させる、と。リタ、その間に余裕があるなら、雷落としててもいいぞ」
「言われなくても勝手にやるわよ」
「勝手にはやらないほうがいいんじゃないか」
何度目か判らない苦笑いを浮かべた父は、弱々しくリタに言い返した後、アストの背後に回ると、両肩に手を置いた。
「剣を抜いてくれ」
アストは肯き、父の指示通りに光の剣を鞘から抜き放った。柄を握った事はあったが、抜いたのは初めてであったので、切っ先まですべて輝く光によって完成している事実を目の当たりにするのは、当然初めてだった。
「鞘は俺が預かっておくな」
父はアストの腰から鞘を外し、右手に握りしめると、左手でアストの背中を優しく押した。
木々の隙間を縫い、生い茂る草を踏み分けると、急に視界が開けた。一面の平野は、短い草とまばらに生える木があるのみで、一ヶ所に集う魔物たちの姿がよく見える。アストは喉を鳴らした。
魔物たちの中心は、よく見ると小高い丘のようになっていた。そこに大きな穴が開いており、地中深くへ繋がっているのだろう。
「剣を構えて。落ち着いて、ただ一度、なぎ払えばいい」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ」
何がなんだか判らないアストは、父の指示に大人しく従った。てのひらから勝手に滲み出る汗を自身の服で丁寧に拭き取ってから、剣を中段に構える。
温かな熱がてのひらから腕に伝い、肩から首へ、頭へ、胸へ、全身へと伝わっていった。熱病にかかったかのようであったが、辛くはない。だが不思議だった。指先から足先まで、すべて自分の意志で動かせるはずだというのに、自分の体が自分のものではないような感覚がした。
剣が放つ光が強まっている事に気付いたのは、一閃した直後の事だ。
光の剣から新たな光が放たれ、空気を引き裂くように前方へと飛び去った。それはどんな刃よりも強く大きく、何も気付かず魔の力を喰らっていた魔物たちを乱暴に引き裂いていく。
魔物たちの奇声・悲鳴の大合唱が起こる。あらゆる色の体液が空へ向けて吹き出したが、空に届く事は無かった。命を失いただの肉塊となったものと共に積み上がり、緑と茶色だけだった大地を染め上げた。
背後から力強い男たちの声が上がる。それはアストの力を称えるものであり、聖騎士たちが飛び出して行く合図でもあった。
自分がやった結果を呆然と見つめていたアストは、自身の左右をすり抜けていく男たちの背中と、男たちが立てる猛々しい足音に気付く。
彼らの武運を祈りながら、アストはその場に膝を着いた。
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