封印 4

「失礼いたします」

 扉を開けた瞬間、ハリスの目に映ったものは、薄暗い部屋の中に立ちつくすカイの背中だった。

 カイは入り口に背を向けたまま、細長い形状のものを両手でしっかりと持っていた。手にしているものがなんなのか、暗い事も手伝って、ハリスの位置からはよく見えない。だが想像するのは容易かった。彼がひとり、悲哀の感情を色濃く表しながら見つめるものなど、他に考え付かないからだ。

「兵士長やジオール殿と話はつきました。予定通り、ザールの警護はすべて兵士たちに任せ、私の隊とジオール殿の隊で、アスト様、カイ様、リタ様を護衛いたします」

「そうか。判った」

「あろう事か、留守を後継者に任せて着いていきたいなどと、聞こえよがしにひとりごとを呟いていた者がおりましたが、無視をしておきました」

 ハリスは名前を出さなかったが、カイはすぐに誰の話だか理解したようだった。吹き出し、「ルスターさんらしいな」と優しい声で呟くと、ようやく振り返る。

 カイが手にしているものは、ハリスが事前に予想していたものとだいたい同じで、金の縁取りと空色の宝石で飾られた鞘だった。想像と違っていたのは、その鞘に、光り輝く剣が納まっていない事だ。

「剣はいずこに?」

「ここにある。今は見えないが、正当な持ち主の手に戻れば見えるようになる」

「アスト様へお返しになるのですか」

「ああ。この剣がなければ封印できないが、剣を使えるのはアストだけだからな。そろそろ返すべき頃合いかと考えていたから、ちょうどいい」

 カイの手が優しく鞘を撫でる。その手付きは、かつて妻であったものに触れていると考えるには、少しぎこちなさすぎる気がした。

 青年の手の中にあるものは、本当はシェリアではないのかもしれない。シェリアの体が引き裂かれる瞬間も、光と化して剣を包み込む瞬間も、光が鞘として具現化する瞬間も、はっきりと記憶に焼き付いているというのに、「神の奇跡」との言葉で片付けるにはあまりにも悲惨すぎる光景が夢であってほしいと望む心が、ハリスを一瞬だけ血迷わせた。

「リタは、こうなりたかったんだろうか」

 鞘を見下ろすカイの言葉に、ハリスは一瞬息を詰まらせる。半ば呆けたカイの目を見る限り、彼が言葉の中に余計な意図を込めていないと判るのだが、意識の中でリタの名をシェリアに置き換えてしまったハリスは、静かに責められた気になっていた。

 ハリスはシェリアの幸福を望んでいた。そのためには、シェリアの望みを叶えればいいのだと思っていた。そしてシェリアの望みは、神の娘としての役目を果たす事だった。

 けれど今のハリスには、役目を果たす事によって人ではないものへと化したシェリアを目の前に、「これが本当にシェリアの幸せだったのだ」と言い切る自信がない。選定の儀を前に、神の娘としてではない、シェリアとしての心を、わずかに垣間見てしまったがために。

「違うのでしょう。けれど私は、リタ様のお心が、わずかばかり理解できる気がしております」

 ハリスが呟くと、カイは顔を上げた。

「カイ様やシェリア様のように、神の御子としての大陸を守る使命を果たせないならば、かつての生活を捨て神の御子として生きる事を決意した意味はどこにあるのかと、迷っておられるのではないでしょうか。その迷いの中で、貴方がたを羨む心が産まれたとしても、いたしかたない事かと」

「リタは大神殿で、俺たちが放棄した神の御子としての役割を、ひとりで果たしているんじゃないのか?」

「もちろんです。それでも、仲間はずれにされたような、複雑な感情を抱いておられるのでしょう――これは、リタ様のおそばにある、ジオール殿の見解ですが」

 カイは鞘を緩く抱き締めた。

「それが本当だとしたら、リタは馬鹿だな。俺たちはみんな、それぞれに孤独だってのに」

 囁くような呟きの中には、途方もない寂しさが抱え込まれていた。王都に残ったリタの、人ではないものに姿を変えたシェリアの、地上を救う役割を背負うアストの、ひとり地上の運命を知ってしまったカイの。

 カイたちと自分との間にある見えない壁が、いっそう高く厚くなった気がした瞬間、ハリスが思い出したものは、エイドルードが定めた運命に抗おうとした末に命を落とした男、エア・リーンの存在だった。

 神の一族に救われる日を待つだけの、無力な地上の民として、エア・リーンの生き様を肯定する事はけしてできない。けれどハリスは知っているのだ。彼が、彼だけが、神の一族を孤立に追いやる壁を破ろうとしていた事を。

「準備がございますので、私はこれにて失礼いたします」

 ハリスは一礼し、退室するためにカイに背を向けてから、長い息を吐いた。新たに吸い込む空気によって、想いを押し潰すために。

「ハリス」

 呼び止める声に、ハリスは動きを止める。扉へと伸ばした手を下ろし、カイに振り返った。

「何か?」

「ずっと、お前に訊きたい事があった。だが俺は、お前に何を言っていいのか、どうしていいのか、判らなかったんだ」

 表面上は静かだが、何か強い力が内側から強い揺さぶりをかけ、カイを責めているようだった。見開かれた瞳は乾ききっているというのに、今にも泣き出しそうに見える。

「お前はシェリアを愛していたか?」

 突然の問いかけは、ハリスから思考能力を奪い去るほどに唐突で、恐ろしいと言えるほどの内容だった。「ご冗談を」と軽口を叩き、なかった事にしてしまいたかったが、カイの視線はハリスを捕らえて逃そうとはしない。

 即座に答えを見つけられなかったハリスは、直立したまま、向けられた視線に応じる事が精一杯だった。

「今もさほど立派になったとは思わないが、昔の俺は本当に子供だったと、今は判るよ。以前の俺はお前の真意に少しも気付けなかった。お前が嫌なやつだと思い、そうじゃなければ、お前が俺を嫌っていると、本気で信じていたんだ」

「突然どうなされたのです?」

「お前はシェリアのために憎まれ役を演じてたんだよな。シェリアの望みを叶えるために、俺の中にあったシェリアへの嫌悪を消そうとしたんだ。お前は本当に上手くやったと思うよ。俺はお前を不愉快に思うあまり、一度は殴ろうとしたほど腹を立てていたシェリアを、好意的に思えるようになったんだ。好意的と言っても、ほとんどが同情みたいなものだったけれど」

 カイは近くにあった棚の上に、優しい手付きで剣を置いた。剣を見つめる眼差しも、同様に優しかった。シェリアと夫婦として過ごした一年弱の日々の中、よく見せていた温かさだ。

 その優しさが、妻に対する愛情ではない事を、ハリスはとうに理解していた。あえて言うならば兄妹愛のような――同じくエイドルードを父に持つという点において、彼らは本当に兄妹なのだが――ものであったが、それが悪だとは思っていない。カイはよくやってくれた。シェリアを精一杯慈しんでくれた。その点において、ハリスは今でもカイに感謝している。

「先ほどのご質問にお答えいたします」

 ようやくまともな思考力を取り戻したハリスは、考えをまとめると、意を決して口を開いた。

「カイ様がもし、ひとりの女性として、との意味で問われたのでしたら、判りませんとお答えするしかありません。私がシェリア様へ最も強く抱いたものは、罪悪感でした。もちろん、大切に想う、愛情に似たものも抱いておりましたが、それはどちらかと言えば、エ……ジーク殿が貴方に向けた感情に近いと思います」

「そうか」

 カイは剣から手を放し、ハリスを見上げる。

「だが、シェリアはお前を愛していたよ。抑圧された心で、お前を選ぶほどに」

 声の静けさと反比例する、大きな力を秘めた言葉は、ハリスの心を大きく揺さぶった。

 シェリアが自分の事を特別に思っていた事は知っていた。愛情を知らない娘が、懸命に創りあげた不器用な愛情かもしれないと、思った日もあった。だがハリスは、それはもはや罪と呼んでよいほどの自惚れなのだと心の中で笑い飛ばし、今日まで生きてきたのだ。

 なぜ今更、よりによってカイの口から、語られるのか。これでは否定する事ができないではないか。

「シェリアはやがて、解放された心でお前を素直に愛し、生きる事ができたはずなんだ。それに気付いていながら、俺は」

「お止めください、カイ様」

「お前は俺を恨んでい」

「お止めください」

 ハリスは語気を強め、カイの声を遮った。

「貴方は、私が何を望んでいたかすべてを知っていると告白したあとで、何をおっしゃるのです。断罪されたいのでしたら他を当たってください、と言わざるをえません。仮に私が、シェリア様の運命を嘆き、シェリア様にこの運命を強いた者を呪詛する日が来たとしても、呪うに最も相応しいと選ぶ相手は、貴方とシェリア様が結ばれる事を誰よりも強く望んだ者――他ならぬこの私自身です」

 ひと息で言い切ったハリスは、必死で空気を肺に取り込んだ。

 カイは上下するハリスの肩を見守る目を細めた後、片手で目元を覆った。何も言おうとはせず、体重のいくらかを棚に預けた格好で、微動だにしない。

 目を塞いでいる以上、見ていないだろうと思いつつ、ハリスはカイに礼をして、退室するために再度扉へと近付いた。

「悪かったな。ひとりよがりの感傷に付き合わせて」

 カイの声がハリスの耳に届いたのは、部屋を出て扉を閉め切る直前だった。

 ハリスは首を振る。カイの目に届かない事は判っていたが。

「おそらく、ひとりよがりではないのでしょう」

 神の血族と、ただの地上の民との間には、見えない壁が確かにある。彼らの使命の重さ、辛さ、計り知れない孤独を、ハリスには一生理解できないだろう。

 だが、理解できる事もいくらかある。久方ぶりに再会した人物に、呼び起こされた感傷。等しく抱いた罪の意識。

 そして、喪失の悲しみだ。

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