神の子と魔物の子 5

 大人たちは時折、「大きな仕事をしたあとの酒や食事は特別に美味い」といったたぐいの台詞を口にするが、昨日までのアストにはさっぱり理解できないものだった。

 だが、今日からのアストは違う。大人たちのような仕事はしていないが、朝から昼まで動かして疲労を蓄積させた体には、いつもの食事がいつも以上に美味しく感じられ、「ああ、こういう事なのか」とおぼろげに理解できるようになった。口に出したら笑われそうなので言う気はないが、少し大人になった気分だ。

「今日はこのくらいにしておこう」と言って父が訓練を切り上げた時は、倒れそうなほどに疲れていて、すぐにでも部屋に戻って休みたい気分だったが、残った気力と体力を振り絞って食堂まで歩いてきて良かった。一旦休んでしまってからでは、この味は判らなかっただろう。

「よく最後までついてきたな。途中で根を上げるかと思っていたが」

 アストは口いっぱいに頬張っていたものを咀嚼し、飲み込んでから返事をした。

「あたりまえじゃん。そんなにすぐに諦めるくらいなら、あんなにしつこく頼んだりしないよ」

「そりゃそうか」

 1年前の、暇さえあれば「剣を教えて」と言いながら付きまとっていた頃のアストを思い出したのか、父は複雑な笑みを浮かべた。当時のアストは、仕事の邪魔こそしないように心がけていたが、休憩や睡眠の邪魔は多少なりともしたので――だからこそ父は根負けしたのだろうが――あまり良い思い出ではないはずだ。

「ま、かなりきつかったけどさ。で? 次はいつ!?」

「そうだなあ。特に問題が起こらなければ、昼前はいつでも暇なんだが」

「あ」

 アストの隣の席で、淑女らしく静かに食事を進めていたナタリヤが、短く声を上げた。

「本日の朝、多くの聖騎士や兵士たちが各地に派遣されましたが、カイ様の元に報告はございましたか?」

 カイは瞬時に表情を引き締め、視線をナタリヤに移す。

「いや、何も」

「そうですか。緊急に何が起こるというものではなかったので、おふたりのお邪魔にならないよう報告を後回しにしたのかもしれません」

「何かあったのか?」

 難しい話になりそうだ。アストは話に口を挟まず、食事を進める事に決めた。見上げる父は、完全に仕事の顔で、冗談でも言おうものなら、叱られてしまいそうだ。

「昨日の朝、見回りをしていた兵士たちが、これまで魔物たちの侵入限界とされてきた地域よりも内側に魔物の姿を発見したそうですが、その話はお耳に入っておりますか?」

「もちろん、昨日のうちに」

「父は当然、魔物を発見した区域の警戒を強化したのですが、昨晩から今朝にかけて、他の安全区域でも魔物の姿を発見したとの報告が相次いだため、見張りの強化と調査を行う事に決めたようです。あ、ですが、ご安心ください。今のところ、ザールの町や城まで入り込んだとの話はないようです」

 父はとうとう、食事の手を完全に休める。

 難しい顔をする父を上目遣いで見つめながら、アストは最後のひとくちを飲み込んだ。

「詳しい話を聞いてみたいんだが、ルスターさんたちは余裕がないかな?」

「問題ないと思います」

「そうか、じゃあ後で会いに行ってみよう。報告をありがとう」

 素直な礼を伝えると、父はアストに振り返った。

「アスト、今日はみんな忙しいだろうから、部屋でおとなしくしてろよ」

「わざわざ言われなくても、動き回る体力なんか残ってないよ。ごちそうさま」

 食事を終えたアストは、父やナタリヤをその場に置いて、自室に戻る道を進んだ。ナタリヤの報告の内容は気になったが、詳しく聞いたところで自分には理解できない部分が大きく、眠くなるだけだと判断したからだった。アストが動き回る範囲では問題ないようだし、とりあえず「今までより危険な範囲が広まった」とだけ認識していれば充分だろう。

 部屋に戻ると、4半日前に離れたばかりの寝台が、妙に恋しいものに見え、扉を閉めると同時に飛び込んだ。枕に顔を埋め、柔らかさを堪能したのち、仰向けになって天井を見上げる。

 瞼はすぐに重くなった。けだるさが気持ちよく、一度眠ってしまおうかと目を伏せたアストは、まどろみの中、ひとり町外れで生きる少年の事を思い出した。

 一気に目が覚め、飛び起きる。

 魔物がこれまでよりもザールに近いところに現れるようになった、とナタリヤは言っていた。ザールの町や城はまだ大丈夫だとも。だからアストは安心していたのだが――町はずれの森は、森の中にある屋敷は、同様に安全なのだろうか?

 やはり詳しく聞いておくべきだったと、ついさっきの自身の行動を後悔したアストは、急いで食堂に戻ってみたが、父の姿もナタリヤの姿も見つからなかった。他の誰かに訊ねようかと考えたが、詳しいだろう兵士や聖騎士たちの姿は周囲に見当たらず、たまたま通りかかった女官は、アストと同程度の知識しか持っていなかった。

 では、父やナタリヤを探そうかと考えたが、食事中の会話を思い出し、思いとどまる。おそらく父たちは今、領主ルスターや兵士長たちと、今後の対策について話しているだろう。それこそ、アストには理解できない難しい話で、ただの邪魔者になってしまう。普段から、「父の仕事の邪魔だけはしないようにする」と決めているアストにとって、許されない選択だった。

 ならば最後の手段だと、アストは城を出る道を進んだ。自分の目で確認に行こうと思ったのだ。本音ではそうしたかったアストにとって、都合のいい状況だった。

 表から出ては目立ってしまうだろうと考え、裏口のほうへ進んだアストは、小さな門を目の前にした頃、

「どちらに向かわれるおつもりです、アスト様」

 突然声をかけられ、身を硬直させる。

 心臓が大きく鳴った。ぎこちない動作で振り返ると、見る者を威圧するほど冷静なハリスの視線が、アストだけを捉えていた。

「ちょっと、気になるところがあるから、見に行こうかと思って」

「どちらです?」

「な、なんでわざわざ聞くんだよ。今まで、町の中ならどこに行こうと、いちいち訊かなかったじゃないか」

「平時における町の中ならば、アスト様がいずこにおられようと、常に聖騎士たちの目が届き、緊急の際もお守りする事が可能であるからです。ですが今は事情があり、万全の体勢でアスト様をお守りできる状態ではございません」

 外の警戒に人を裂くため、町中の見回りや防衛を担当する者の数が減っている、という事なのだろう。

 問題はアストが思っているよりも深刻なのかもしれないが、「別に見守ってくれなくてもかまわない」と内心思っているアストにとって、ハリスの主張はどうでもいい事だった。

 アストは軽く唇を尖らせた。

「判った。言うだけ言うよ。町外れの森の中に屋敷があるのを知ってる?」

「生前のレイシェル殿が暮らしていた屋敷の事でしょうか」

「そう。そこを見に行きたいんだ」

 ハリスは薄く開いた唇を一度引き締めてから、新たに言葉を紡いだ。

「森周辺は、現在聖騎士たちが、結界の限界点を探る調査をしております。安全かどうか確認されておりませんので、どうかご遠慮ください」

「安全かどうか判らないから行きたいんだよ。屋敷に住んでる人が、大丈夫かどうか」

「問題ありません。ザールの兵士たちが警戒にあたっております」

「でも、兵士たちが警戒してるのは森の周りで、常に屋敷を見張ってくれるわけじゃないんだろ? 魔物は、聖騎士たちが別のところを見回っている隙を突いて、屋敷を襲うかもしれないじゃないか。もしそうなったらどうするんだ? たったひとりくらいなら、ザールの民の命を見捨ててもいいって思う?」

 ハリスはアストを見下ろしたまま、短い沈黙を作った。睨まれているのか、彼なりに何か考え込んでいるのかが判らず、アストはすっかり怯えていた。

「判りました。では、私が見て参りましょう。お望みでしたら、調査が終わるまでの間、常に屋敷周辺に待機し、警戒の目を光らせます」

「ハリスが? 直接? ひとりで?」

「はい」

「俺を城に残して?」

 再び沈黙が訪れた。無言のハリスが向ける視線はやはり少し怖かったが、アストは負けじと見つめ返した。睨み返す、と言ってもよいほどの強い目つきで。はたから見れば明らかにアストのほうが弱いのだろうが、負ける気はしなかった。

「自分の目で見に行きたいんだ」

「ですから、安全が確認されるまではお待ちくださいと」

「俺は『自分の目で見に行きたい』って言っているんだよ、ハリス」

 必死なアストが吐き捨てた言葉は、もはや命令だった。聖騎士であるハリスには、よほどの事でもないかぎり、拒否できないものだ。

 普段のアストは、皆があまりにも簡単に言う事をきくのが気味が悪く、滅多に命令をしない。だが今は、とにかく行きたいとの想いが強く、願望を叶えるための方法が他に考え付かなかったのだ。

 ハリスは抵抗を示す間をわずかに空けたのち、アストの前に跪き、頭を下げた。

「ご命令とあらば。ですが、私のそばをけして離れないでいただく事と、万が一魔物が現れた場合は即座に引き返していただく事を、お約束いただけますか。我らはアスト様の御身をお守りするために存在しております。我らにとって、アスト様をお守りする事は、アスト様のお言葉よりも絶対なのです」

 正直なところを言えば、ハリスが同行するのは息苦しい気がして嫌だったが、いざ魔物が現れた時、自分ひとりではユーシスを守れないし、何より自分の目で直接確かめにいける喜びが大きい。

 アストは納得して頷いた。

「判った。ハリスの言うとおりにする」

「ありがとうございます」

「じゃあ、すぐに行こう」

「はい」

 ハリスが頷き、立ち上がるのを確認してから、アストは再度歩き出す。

 歩くよりは少し速い、小走りに近い形で。脇目もふらず、町外れの森までの道を。

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