終章 決意の朝
決意の朝 1
まぶたを開くと、あたりはまだ薄暗かった。
カイはわずかに首を巡らせ、あたりを見回す。視線が窓を向いた瞬間、大聖堂の向こうから陽が昇った。あまりのまぶしさに、カイは目を細める。
薄闇に覆われ灰白色に見えていた建物が、一瞬にして白く輝きだした様は圧巻だ。カイは喉を鳴らして息を飲んだ。まるで太陽が生まれた瞬間に立ち会ったかのような感動だった。
夜明けに立ち会うのは初めてではない。トルベッタで魔物狩りをしていた頃、夜明けより前に叩き起こされる事はしょっちゅうだった。眠い目をこすって家を飛び出し、魔物と戦い、くたびれた体を休ませながら太陽が昇る姿を目にしたのは、よくある日常の風景だった。
それなのに、なぜ今日の自分は、こうも感じるものが違うのだろう。
何もかもが変わってしまったのだろうか。かつての自分と、今の自分――いや、きっと、昨日までの自分と、今日の自分では、すべてが大きく違っているのだ。まるで、生まれ変わったばかりの赤子のように。
カイは窓の外に向けていたまなざしを、傍らに眠る少女へ落とした。
目の奥が疼き、涙したくなる。きっと、痛いほどに眩しいからだ。少女の柔らかな金の髪が、生き生きとした朝日に照らされ輝く様が。
カイは右手で目元を覆った。ほどよい重みと温かさ、何より暗さが、双眸にかかる痛みを少しずつ癒してくれる気がした。
再び視界を明るくすると同時に、未だ眠る少女の長い睫が小さく揺れた。窓から流れ込む優しい風が揺らしたのかと考えたが、少女は風に背を向けている。第三者によってではなく、少女自らが動いたのだ。
やがて、金の睫に縁取られた空色の瞳が、カイの姿を映す。
これは夢ではないのだと、カイは自身に言い聞かせた。逃れる事のできない現実であり、2度と選び直せない未来の象徴なのだ、とも。
カイは不器用な手付きで金の髪を撫でながら、精一杯の微笑みを創った。それは少女を労わるためでなく、虚勢を張るためだった。
「おはよう」
笑みと共に投げかけた声が、少し震えて聞こえたのは、きっと気のせいなのだろう。
胸の奥に垂れ込めるものが飛び出してこないよう、ゆっくりと息を吸い込むと、カイは少女の名を呼んだ。
「おはよう、シェリア」
カイがシェリアの手を取って現れると、待ちわびていた男たちはみな、一様に息を飲んだ。選定の夜の翌朝、カイが伴って現れる少女はリタだと、誰もが思い込んでいたのだろう。
それでも、大司教や騎士団長、ジオールあたりは、平静を装えたほうである。ルスターはカイとシェリアが並ぶ姿をしばらく呆然と見つめ、もの言いたげに唇を開いたままだった。ハリスは目を見開いたまま、無言でシェリアを見下ろしていた。
カイの足は、ハリスの前で自然と動きを止めていた。
「何か、驚く事があるか」
カイは厳しい声でハリスに言った。
確かに、驚く事ではあるのかもしれない。だがそれは、大司教たちと同じように、一時的なものであるべきだ。すぐに歓喜で驚愕を抑え込み、嫌味たらしく勝ち誇った笑みを浮かべるべきではないのか。
ハリスは目にしたものが信じられないといった様子のまま――いや、信じたくない、と表現したほうが近いかもしれない。見るものすべてに強い動揺を伝える表情のまま、微動だにしなかった。
「俺は、お前との約束を守っただけだ」
吐き捨てると、ようやくハリスはカイを見る。驚愕というよりは、裏切りに衝撃を受けたような顔に近かった。カイの選択を信じられないのも無理はないが、だからといって裏切り者扱いされる事は我慢ならず、カイはハリスの胸を押した。
「何を呆けている。シェリアに言うべき事があるだろう」
ようやくハリスは、笑顔で感情を覆い隠す事に成功した。トルベッタで初めて出会った頃のように、優しい微笑みを見せ、優雅な動きでシェリアの前に跪く。
「積年の願いが叶われました事、心よりお祝い申し上げます」
シェリアはいつも通りの冷たい声で答えた。
「わたくしは、偉大なる父に与えられし役割を、果たす事でしょう」
いつも通りのふたりと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。だが、今までとは違う、触れれば伝わる優しい感情が存在していたように感じたカイは、ふたりに向ける眼差しに憐憫の情を交えた。
いまさらだ。
カイやリタの心以外に、カイとシェリアが結ばれる事を祝福しないものがあったとしても、もはやどうしようもないのだ。カイは選んでしまった。ためらいはしたが迷う事なく、シェリアを選んだのだ。
たまらずふたりから顔を背けるカイの耳に、小さな足音が届いた。
カイはわずかに戸惑った後、足音に振り返った。誰が近付いてきたかは判っている。少女のものとしか考えられない軽い足音の主は、シェリアがここにいる以上、ひとりしかありえないのだから。
肩に触れる金の髪が、小さく揺れていた。眠れなかったのか、泣いていたのか、赤くなった目は真っ直ぐにカイだけを捉え、強い憎悪を視線に込めていた。
覚悟はしていた。詰られる事も、恨まれる事も、憎まれる事も――嫌われる事も。
リタはカイの前で足を止めた。それまできつく引き締められていた愛らしい唇は、少女にしては低い声を吐きだした。
「どうして、とか。いまさら聞く気にも、ならないけど……」
枯れた声。やはり、泣いていたのだろうか。
夕暮れが迫りくるあの時、カイとリタは互いを選んだのだ。強制された未来を自分たちの未来として生きて行こうと決意したのだ。
だからカイの昨晩の選択は、リタに対しての裏切りでしかなく――裏切りに腹を立てるにしても、悲しむにしても、少女が泣いて一晩を過ごす理由としては充分すぎる。
「謝る気とかは、ない」
我が事ながら不思議なほど、冷徹な言葉が自然と口をついた。
「誰だって、俺の立場に立たされて、君とシェリアのどちらかを選べと言われたら、同じ答えを出す。俺は、当然の選択をしただけだ」
リタの手が振り上げられ、直後、カイに向けて振り下ろされた。
強烈な平手が、カイの頬を打つはずだった。しかしリタの手は、抗いきれない強い力に遮られ、カイに触れる事無く宙に浮いていた。
目を伏せるか、あるいは反らしたかったが、カイは己の弱い心が呼ぶ欲求に抗うため、逆に目を見開く。
現実から目を背けてはいけない。
これが、自分で選んだ道なのだ。
「リタ。俺は、君ではなくシェリアを選んだ」
「な……んで、こんな」
「俺はもう、シェリアのものなんだ。だから俺と君は、もう2度と、触れあう事はない」
2度と、触れ合う事は、ない。
自身の心に刻み付けるためにカイは、吐き出した言葉を、頭の中で何度も繰り返す。
「っ……!」
軽い足音が乱暴に床を蹴り、遠ざかっていく。
また、泣いているのだろうか。細い肩を丸めて、誰の慰めの手も借りる事なく、ひとりで泣くのだろうか。
追いかける事はできなかったし、するつもりもなかった。カイは去りゆく少女の背に向けて伸ばしかけた右手を、左手でしっかりと押さえつけながら、その場に残った者たちへ振り返った。
「昨晩、俺はエイドルードが残した最後の言葉を得ました。エイドルードの遺言に従い、俺とシェリアはザールへ行きます」
力強く、短く告げると、その場に居た全員が身を強張らせた。
みな、当然知っているのだ。カイが今口にした名を持つ地に、何があるのか。神の子がその名を口にする事に、どれだけの意味があるのか。
「ルスターさん」
呼ぶと、ルスターは真剣な眼差しでカイに応えた。
「ようやく俺から解放されるところだったのに、またしばらくお世話になる事になりそうです。すみません」
「光栄です」
力強く肯くルスターへ、満足げに肯き返したカイは、続いてジオールを見上げた。
「ジオールさん。リタはここに残り、神の子として民の支えになる役割を、ひとりで果たす事となります。これからも彼女を守り、支えてあげてください」
「承知いたしました」
姿勢よく礼をするジオールを見守った後、カイは最後にハリスを見た。
「ハリス」
「はっ」
「お前は、俺たちと共に来い。そして見届けるんだ」
「かしこまりました」
見届ければいい。望んだものを、求めた者を――エイドルードが定めた未来を。
深く礼をするハリスから目を反らし、カイは無言でシェリアに手を差し出した。シェリアはすぐに、無言で応えてくれた。
添えられた手は不思議と温かく、やはりリタの手ではないのだと思い知る。
思い知ると同時に胸に湧き上がったのは、深い安堵。カイは波立たない己の心に驚きながらも、救われていく気がした。
そうだ、これでいい。
これでよかったのだ。
これが、よかったのだ――
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