選定の夜 4

 運命の時がゆるやかに近付いてきている。中天の月を見上げながらカイは、自身の体がわずかに震えるのを感じていた。

 心はもう決まっている。迷いはどこにもなく、時が迫る事に重圧を感じる必要はなかったが、未来を定める重要な選択を前に平静でいられるほど、カイは大物ではなかった。

 もっともそれはカイだけではない。昼前に見かけたリタはカイよりも動揺している様子であったし、聖騎士たちや大司教も、朝から緊張感がみなぎっていたように思う。いつもと変わらないように見えたのはただひとり、シェリアだけだった。

 カイは床に膝を着き、胸の前で手を重ねてから、もう一度空を仰いだ。大司教やルスターから説明を受けた、選定の儀の手順のひとつだった。天上に最も近い部屋で、膝を着き、空の中心にある月に祈りを捧げる。静まった心で決断を下し、塔を降りる。そして無言で通路を進み、選んだ伴侶の待つ塔を昇るのだと。

 今更祈りによって心を静めずとも、決断は下せる。だが、形式には従っておいた。

 目を伏せると、優しく降りそそぐ月光を肌に感じる。子供をあやす母親の手のように柔らかい光は、緊張を和らげる力を有しており、母の記憶がないカイの胸に、くすぐったい想いを抱かせた。

 ずっと続く事を願うほどに心地よい、穏やかな空気。しかし、それはあまりにも唐突に消失した

 瞼の向こうから届く淡い光が、失われていく感覚。耐えきれず、慌てて目を開けたカイが見たものは、夜空を切り取る窓枠の中心で変わらず輝き続けているはずであった満月が、徐々に闇に飲み込まれていく様だった。

「……!?」

 カイは即座に立ち上がり、窓に駆け寄った。枠に手をかけて身を乗り出し、少しでも月に近付こうとしたが、そうしたところで消えゆく月を引き止める事はできない。

 月は毎夜姿を変えるものだ。時には雲に隠れ、姿を見せない晩だってある。だが、一夜のうちに形を変え、消えていく光景を、カイはこれまで見た事がなかったし、そのような現象が存在している事も知らなかった。

 闇に侵食されていく黄金を眺めるしかなかったカイが体感したものは、大切なものを奪われる恐怖だった。生まれてから今日この日まで、月に対して強い思い入れを抱いた事など、一度としてなかったはずなのに。

 カイは無意識に、自身の肩を強く抱いていた。気温は変わっていないはずだが、凍えるように寒かった。体が強く震え、このままではいけないと月に背を向けると、頭に鈍い痛みが走り出した。

 それは月が消えると同じ速度で強まっていき、夜空から完全に月が失われる頃には、立っている事すらできなくなっていた。カイは床に身を放り出し、頭を押さえ、走る激痛が消えゆく時を待つしかなかった。口からは獣のようなうめき声が漏れ、勝手に暴れる体は床を転げまわり、振り上げた足が何かを蹴倒したのか、崩れ落ちる音が部屋中に響き渡った。

 カイの目に映るものは、めまぐるしく変わっていった。床。天上。いつも眠っている寝台の足。倒れた椅子の背もたれ。じわりと広がっていく染み渡る水や、上に倒れた花と陶器の破片。机の上に雑に積み上げられた本。父の形見の剣が床に倒れる瞬間。星しか輝くもののない夜空――そして、視界が闇に覆われた。

 星の瞬きも映らない、完全なる闇に飲み込まれ、カイは悲鳴も上げられなかった。

 これはなんの現象なのか。なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、理由は判らなかった。いや、この時のカイには、疑問に思う余裕すらなかった。

 闇の中に人の声が聞こえる。遠い声ははっきりとは聞き取れなかったが、男性の声だ。擦り切れそうな叫びは、おそらく言葉にすらなっておらず、心を裂かれた者の泣き声に聞こえた。

 知っている、とカイは思った。この声を、近くで聞いた事がある。この声の主を、よく知っている。

 ああ、そうか。この、泣いている男は――

 なぜ、泣く? かつて味わった悲しみ以上に、心を振るわせ事などは――

 黒しかない世界に、突如、赤がはじけて消えた。ほんの一瞬、噎せ返るような匂いと共に。

 口角が裂けるほどに口を広げ、カイは力の限り叫んだ。命を燃やす叫びだった。切れるような痛みが喉を走り、意味のない乾いた声だけが響き渡る中でだけ、カイはわずかな安らぎを得る事ができた。

 声が涸れるころ、ふと気付くと、得体の知れない恐怖の波は通り過ぎていた。

 手足をだらしなく放り投げた格好で、カイは床の上に倒れていた。空ろな目に、窓枠の向こうに優しく輝く満月が映り、カイはこみあげてくる安堵に、深いため息を吐いた。

 首を傾け、自身の右手を見つける。軽く動かしてみた。少し動きが鈍かったが、思い通りに動く。間違いない、これは、自分の体だ。

 全身に汗をかいていた。風に撫でられ、寒さを感じるほどだった。冷えた体を守ろうと、重く感じる体を起こしたカイは、喉が痛みを訴えたので、数回咳き込んだ。

 痛みは、カイに教えてくれた。ついさっき体感したものは、けして夢ではない、と。

 まだ歩くだけの気力と体力が蘇らず、カイは足を引きずって窓に近付いた。穏やかな光を地上に落とす残酷な月を、少しでも近くから睨みつけるために。

「そういう、事か」

 掠れた声を吐き出すと、かすかに血の味がした。だがその痛みも、味も、カイが知った事に比べれば、苦いものではなかった。

「そのために、俺を、リタを、シェリアを……みんなを、巻きこんだのか」

 使命、運命、神のさだめ。

 抗えない言葉と力で縛りつけ、人を操り、利用した存在への焦燥に似た諦めを、カイは夜空の象徴へ向けて解き放った。

「地上の民を、愛するがゆえに、なのか?」

 カイは長い息を吐いた。肺の中を空にして、月を見上げる目を両手で覆ってから、大きく息を吸う。

「いや。感謝、するよ。エイドルード」

 窓に背を向ける。そうしてカイは、ゆっくりと両手を落とす。すると、両目に、部屋を出るための扉が映った。

 カイはその扉を潜らなければならない。塔を下り、伴侶と決めた相手の塔に登らなければならない。

 心は決まっている。迷いは、欠片もない。

 しかし、扉を開ける勇気が持てず、カイはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

 やがて窓から吹き込んできた強い風が、カイの背中を押した。力が抜けていた体は、勝手に半歩、前に踏み出していた。

「判ってるよ。行けばいいんだろう。エイドルード」

 愛する大地を、大地に生きる人を、守るために消滅した存在。

 残された神なき地を守るために、自らの子に運命を託し、消えた存在。

 その名を呼んでから、カイはゆっくりと歩き出した。

 眼前に広がる階段に、果てがなければよいのに願いながら。

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