四章 追想

追想 1

 車輪が回り続ける音やかすかな風の音が外から届いてはいたが、それでも静かすぎる。カイが吐いたため息は、空間ごと凍りついたかのように沈黙を保つ馬車の中に、大きく響き渡った。

 トルベッタを発った日から、数え切れないほど吐いてきたため息だ。いいかげん耳障りに感じたのだろうか、それまで微動だにせずに座り続けていたシェリアが、カイの表情を覗き見た。彼女が動くと思っていなかったカイは、突然目が合った事に驚き、慌てて顔を反らす。

「お疲れですか」

 相変わらず感情の篭っていない可憐な声が、カイを気遣う言葉を紡いだが、シェリアに気遣う意図はないのだと、カイは知っている。

 トルベッタを発ってから今日までの10数日、ずっと顔をつき合せている内に、カイはほんの少しだけ、シェリアの事を理解した。彼女は、彼女自身の偏った常識で、ためらわずものを語る――つまり、シェリアの中の常識で、ため息は疲れた時だけに吐くものと決まっているのだろう。

 不可解で、不愉快で、気持ちが悪い少女だと思っていた。しかし、冷静になって対面すると、これほど判りやすい人間も居ないのではないか、と思える。

 それが好ましいかと問われれば、否としか答えられないのだが。

「ただ座っているだけだから、別に疲れてはいない。体が鈍りそうで不安なくらいだ」

「では、どうして」

「ただ座っているだけで何日も過ぎているからな。退屈……つまらない時にも、俺はため息を吐くんだ」

「そうですか」

 冷たい声に秘められた思考は読めず、説明が少しでも彼女の糧となれたのか、カイには知る事ができなかった。

「失礼いたします。シェリア様、カイ様」

 再び沈黙が呼び込まれるはずであった馬車の中に、ひとりの男の声が届く。カイは反射的に身構え、強張らせた顔をやや俯かせた。

 応えようとしないカイの代わりに、シェリアが動いた。窓から顔を覗かせ、馬車と並走させた馬に乗る男と目を合わせる。

「どうしました」

「もうすぐ王都セルナーンに到着です。街の門をくぐる際と、大神殿へ繋がる門をくぐる際、手続きのために合わせて2回ほど停車いたします。御者には万全の注意を払わせますが、万一の事がありえますので、お気を付けください」

「判りました」

 シェリアは肯き、小窓から離れた。

「カイ様も、よろしいですか?」

「そんな事をいちいち報告するな。鬱陶しい」

「失礼いたしました」

 やつあたりじみたカイの言葉をさりげなく受け止めたハリスは、それ以上何も言わなかった。顔を見る事も不愉快なので、窓から覗く事をしなかったカイに真実は判らないが、おそらく穏やかな笑みで、何事もなかったかのように流したのだろう。

 腹が立つ男だ。穏やかな物腰や温かな笑顔で相手を油断させて、やすやすと懐に入ってくる。彼はいい人だろうと、父の良い友人なのだろうと、一時でも信じていた自身が情けなく、カイの内で煮えたぎる苛立ちが、余計に勢いを増した。

「君は、ハリスと長い事一緒に居るのか?」

 カイの問いかけに、シェリアはしばらく考え込んでから口を開いた。

「ハリスがわたくしの護衛隊長に任命されてから、3年ほど経過しております。わたくしが生まれてからこれまでの、5分の1にすら満ちませんので、長いとは言えないでしょう。同様に、短いとも言えませんが」

「3年か。俺なら、3日も耐えられそうにない」

 皮肉めいた笑いを混ぜながら吐き捨てるように言うと、シェリアの空色の瞳が一瞬だけ窓の外のハリスに向けられ、再びカイを捉えた。

「ハリスに何か不満でも?」

 責めるでも嫌味でもなく、純粋な疑問として紡がれたからこそ余計に不愉快なその問いに、「まあな」とぶっきらぼうに答えたカイは、シェリアの視線から逃れるように目を背けた。

 窓の向こうにハリスが居る。目が合うと彼は優しく微笑みかけてきたので、カイは睨み返して顔を背ける。目を向ける先が見つからず、仰ぐように天井を見上げた。

 カイの良心やトルベッタを想う気持ちを利用して脅しをかけてきたハリスに、不満が無いわけがない。今となっては胡散臭く見える彼の優しげな微笑みはひたすらに気味が悪く、悲しみに暮れるカイに冷たい言葉を投げかけたシェリアの無表情が、可愛く見えてしまうほどだった。

 以前、シェリアに殴りかかろうとしたカイに、ハリスは言っていた。悪いのはすべて自分だから、代わりに謝罪する、と。

 あの時は、シェリアを守ろうと適当に言いつくろった言葉だと思っていたが、意外に真実なのかもしれない。神に仕えるものがみなハリスのように歪んでいるのだとすれば、シェリアは人として大切なものが欠けている者たちに育てられたという事で――つまりはこの娘も犠牲者なのだと判ってしまうと、父の亡骸のそばで抱いた憎悪は、緩やかに解けはじめた。喪失の痛みが強く残る今はまだ彼女を許せそうにないが、いつか許さなければ、と思えるようになった。

 許したからといって、この少女を愛せるわけではないのだけれど。

 カイは意を決して、視線をシェリアに戻した。シェリアはカイが視線を泳がしはじめる前とまったく同じ格好で、カイを見つめていた。

 綺麗で、哀れな娘だと思う。ただ、それだけだ。

 ハリスと取引を交わし、そのためにこの馬車に乗り込んで大神殿に向かっているのだと判っていても、この娘と結婚する実感は湧いてこない。冷めた頭は、義務としてシェリアを受け入れなければと思うだけで、心から受け入れようとの気持ちにはなれなかった。

「このまま何事もなく大神殿に到着すれば、俺たちは結婚する事になる。君は本当にそれでいいのか?」

 聞いても無駄だと思いながら、カイは少女に問うた。

「なぜ、そのような事を問うのです? カイ様も、わたくしも、結ばれるために産まれたのではありませんか」

 やはり、聞いても無駄だった。シェリアにとってこの運命は良いも悪いもない、当たり前の事で、生まれてきた意味そのものなのだ。

 期待を抱く意味を失い、自分を取り巻くすべてを諦めると、胸の奥底から笑いが溢れてきた。大声を出して笑いたい気分になったカイだったが、よりによってシェリアに妙な目で見られるのは堪えるので、欲求を何とか押しとどめた。口元に浮かぶ笑みは抑え切れないので、手で覆ってシェリアの目から隠す。

 そう間をあけず、馬車が動きを止めた。並走していたハリスが馬車よりも前方に進み、誰かと会話している声が聞こえてくる。セルナーンに到着した事を悟ったカイは、窓枠に切り取られた風景では判らないものを確認するために、扉を開けた。

 カイが育ったトルベッタは、常に魔物の襲撃に備えなければならないため、通常の街に比べて防塞設備が充実している。だが、セルナーンのそれとは比べものにならなかった。高く厚い外壁が延々と長く続いていく様は、圧巻としか言いようがない。

 しかも、頑丈であるだけではなく、白く美しかった。王都としての美観にも重きを置いているセルナーンと、街の防備だけを考えているトルベッタとの大きな違いを見せ付けられ、カイは圧倒される。

「いかがされました?」

 手続きを済ませたハリスが、身を乗り出しているカイに気付いて問いかける。カイは応えず、扉を締めて元通り座り直した。

 馬車は再び走り出し、トルベッタの中央通りの倍はあろうかという大通りを、ゆっくりと進む。これまで進んできた街道に比べて小さくなった揺れは、石畳が綺麗に整備されている事をカイに教えてくれた。

 小窓から見える街並みは賑やかだ。通り沿いには無数に店が立ち並び、人も馬車もひっきりなしに行き交っている。

 近くの商店で買い物をしていた娘が振り返り、悲鳴に近い声を上げた。すると声につられて顔を上げた店主が、通りすがりの青年が、こちらを見るなり満面の笑みで歓喜の声を上げる。その様子は徐々に広がっていき、しばらく進むうちに大通り中の者の視線がカイたちの乗る馬車に集まった。

 何事だとうろたえたカイだが、セルナーンの民が「女神様!」「シェリア様!」と口々に叫ぶ声が届くと、彼らが呼ぶ人物が誰であるかを察し、正面に腰を下ろす少女を見下ろした。

 カイにとって異常としか思えない状況だが、シェリアは平然と受け入れている。うろたえるカイのほうがおかしいとでも言いたげに――真実、そうなのかもしれない。カイとて天上の神エイドルードの子として大神殿で育っていれば、神の一族として称えられる事を当たり前に受け入れていただろう。

「あの人たちは、君に何を求めているんだろう」

 感情のない空色の瞳がカイを映した。

「わたくしにも、カイ様にも、我らが父にも。地上の民が求めるものはただひとつ、救済です」

 カイはわずかに目を細める。

「君にとってそれは重荷……不安では、ないのか? 少し特別な力があるだけなのに、地上の救済なんてものを求められるなんて」

「神の子供なのだから命を賭して魔獣と戦え」だの、「神の子供なのだから民を楽園の地に導け」だのと、無茶を言われているわけではない。目の前の人物と子供をつくるという、特別な力などなくても可能な事をいわれているだけだ。

 しかし、課せられた責任の重さを除いても、シェリアには相当な負担ではないだろうか。シェリアは、母にならねばならないのだ。その腹の中で命を育て、苦痛と共に産みださなければならず――カイの母のように、命を落とす事になるかもしれないではないか。

「おっしゃる意味が判りません」

 カイの心労を払いのけるかのように、シェリアは迷わず答えた。

「地上を救済する事こそが、わたくしの生まれてきた意味です。重荷や不安を感じる必要が、どこにあるのでしょう」

「それはそうなのかもしれないけれど……」

「わたくしが恐れる事があるとすれば、ただひとつ。エイドルードの娘としての役割を果たせない事です。わたくしがエイドルードの娘として生まれてきた意味を、失う事です」

 カイはしばし間を開けて、「そうか」と短く答えた。

 迷わないシェリアが悲しいと思う。それは彼女の強さでも意志でもなく、迷う事を教えられなかったからだと判るからだ。

 カイは押し付けられた使命に苦悩できる自身の幸福を噛み締めながら、涼しい顔で座り続ける少女をわずかに羨んだ。運命に抗う事が叶わないのならば、シェリアのように迷わない潔さがあったほうが、きっと楽なのだろう。

 だが、一時的に楽をするために、父の死の悲しみやリタへの想いを消し去る気には、到底なれなかった。

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