約束 3

 得体の知れない足跡は、山の麓から長く続いていた。

 振り返って確認すると、自身の足跡がくっきりと残っている。黒色が強いこの山の土はかなりの柔らかさで、ふた晩以上前――おそらくは――の足跡が視認できる程度に残っているのも、不思議ではなかった。

 カイは青年の案内に従いながら、足跡を目で追う事を忘れなかった。ふと顔をあげると、リタもカイと同じようなところを見ている。彼女も足跡に気付き、おそらくは蟻に似た魔物のものであると予想したのだろう。

「あそこです」

 やがて青年が立ち止まり、洞窟の入り口を指し示すその時まで、足跡は途切れる事も、別の方向へ進む事もしなかった。

 洞窟に飲み込まれていく足跡を追い、入り口に1歩ずつ、慎重に近付く。距離を詰めるにつれ、足跡の量が多くなっていった。新しいものから、今にも消えそうに薄れたものまで、似たような跡が密集しているのだ。

「間違いなさそうだね」

 リタの言葉にカイは肯いた。

 青年が見た魔物も、おとといアシェルを襲った魔物も、おそらくは最初にアシェルを襲った魔物も、すべてこの洞窟から出てきたに違いない。

 カイは歩みを止め、地面にばかり向けていた視線を持ち上げた。

 まだここが巣であるとの断言はできないが、巨大蟻が出入りしているだけあって、入り口は縦にも横にも大きく広がっている。奥へと続く暗闇と静けさは、今にも自分を喰らおうとする意思に感じた。その感覚は、強い魔物を目前にした時の緊張に似ていた。

「入ってみる?」

 リタはカイに歩み寄りながら言った。口調は問いかけだが、返答を聞くつもりはなさそうだ。彼女の中で、カイの返答は確定事項なのだろう。

「オレはもう、帰ってもいいですかね?」

 一緒に中に入るのも、ここでひとり待たされるのも嫌だと、口調と眼差しで強く訴える青年に、カイは応えるべき言葉をすぐには見つけられなかった。代わりに足元を見て、残された足跡から一番新しいものを探す。

「貴方が見た、洞窟に入っていった魔物は、どっちから来ました?」

「ええと……確か奥の方からだったと思いますけど」

 青年が指し示す方向と、洞窟の入り口を繋ぐ足跡こそが、カイが探していたものだった。

「一番新しい足跡は貴方が見た時のものみたいなので、そいつは中にいるでしょう。でも、他にも仲間が居て、その辺をうろついている可能性もあるので、戻るなら充分に気を付けて」

「は、はい。じゃあ、後はよろしくお願いします」

 青年は素早く一礼し、カイたちに背中を向けた。歩む足は徐々に早足になり、背中が小さくなった頃には走りだしていた。よほど恐ろしかったのだろう。

 カイは洞窟を目の前にして、剣の柄に手をかける。意志や、決意といったものを手のひらに込め、柄を強く握り締めた。

「あたし、先行くけど、いいよね?」

 慣れた手付きで素早くランタンに火をつけたリタは、カイの返事を待たずに洞窟の中を照らす。暗闇が橙色の明かりによって晴れていくと、暗い色をした土や岩が視界に広がった。

 あの巨大な蟻が出入りできるのだから、足場も天上も壁も充分な強度があるのだろうと思いながら、ふたりは念入りに1歩ずつ確かめ、足を踏み入れていく。ときおり見える苔の濃い緑色が華やかに思えるのは、暗い色ばかりの中に居るからだろうか?

「けっこう広そうだなあ」

 慎重に確認してから、カイは岩が削られてできた壁に触れた。皮手袋越しだが、刺々しい手触りと陽の光を知らない湿り気が伝わってくる。空気は湿気が強いせいか重く、息苦しく感じられた。

 人間には不快な環境だが、魔物たちにとってはこれが最良の環境だとすると、いかに相容れない存在であるかが身に染みる。人間にとって魔物が恐怖の対象であり、魔物にとって人間が餌のひとつである限り、敵対し続けるのだろう――エイドルードと、遠い昔に封印された魔獣のように。

 ふと気が付くと、黙々と前進を続けるリタの背中が少し遠ざかっていた。カイは慌てて、小さい、けれど長く伸びた影を追った。

 道は広く、ふたりが横に並び両手を広げたとしても、まだ余裕があるだろう。それが一度、わずかに狭まったかと思うと、すぐに何倍にも膨れ上がった。これまで歩いてきた道を通路とするなら、まるで広場だ。

「あの巨大蟻が、こんなところにわらわら居たら、嫌だな」

「冗談でも言わないで欲しいよ、そんな事。あたしまだ死にたくないんだから。あ、そこらへんから、足元気をつけてね」

 注意を受けたとほぼ同時に、びっしりと生えた苔の感触が、靴ごしに足の裏から伝わってきた。空気と同様に苔も水分を含んでおり、体重のかけ方を少しでも間違えれば、滑ってしまいそうだ。しかも、洞窟に入ってすぐは緩やかな下り坂だったはずだが、今はだいぶ角度を増している。こんなところで足を滑らせたら、ずいぶん先まで転がり落ちてしまいそうだ。

 苔で転んで怪我をするなんて、あまりに格好が悪い。カイは苔を乗り越えるまではと、岩壁に手をつきながら慎重に進んだ。

 カイに比べて身軽だからだろう、リタは器用に足場を確保して進んでいる。しかも余裕があるのか、たびたび振り返り、真剣な顔で1歩ずつ進むカイを見ながら小さく笑った。

「笑うなよ」

 カイが不服を告げると、リタの笑い声が強くなる。

「気をつけてって言ったのはあたしだけど、気をつけすぎなんだもん」

「ここで足を滑らせて転がり落ちて、たまたま岩壁の尖ったところとかに頭をぶつけて死亡、なんて間抜けな事になったら、情けなくて死んでも死にきれないだろう」

「そんな可能性は無い、とは言わないけど、そこまで悲観的にならなくても」

「悲観的なのと注意深いのは違う」

「それはそうだけど……ま、万が一そんな死に方をしても、魔物に殺されたって形で報告してあげるから、安心し――」

 再び前に向き直ろうとしたリタの頭の位置が突然下がり、カイは咄嗟に腕を伸ばす。急激に遠ざかろうとしたリタの二の腕を、なんとか掴む事に成功した。

 引き止める力によって落下が止まった直後、リタは腕を伸ばしてカイに縋りつく。カイがもう一方の手も使って支えると、体勢を立て直し、深く安堵の息を吐いた。

「誰が悲観的だって?」

 滑った足に削り取られた苔の跡と、リタの靴に付着した苔を、交互に見比べながらカイは問う。

「う、うるさい!」

 リタは顔中を朱に染めて言った。

 素早くカイに背中を向け、落としかけたランタンを持ち直す。壁を蹴って靴に着いた土を落とす仕草は乱暴で、照れ隠しにしか見えなかった。

 カイは声を殺して笑いながら、リタの肩に手を置く。

「安心しろ。万が一転げ落ちて死んでも、魔物に殺された事にしておいてやるから」

「結構、根に持つんだね」

 リタはカイの手を乱暴に掃うと、先ほどまでに比べて慎重な足取りで進みはじめた。カイが忍び笑いをもらすと、一度だけ振り返り鋭い視線を投げかけてきたが、それきりだった。

 それきり無言のまま、ふたりは広場のような空間を横切る。再び通路のように狭まった道へと足を踏み入れると、苔の生え方がまちまちになり、角度も若干だがやわらいだ。

 カイは壁に手をつくのをやめた。

「そう言えばさ、さっき、ちゃんと考えて動いたの?」

 問いかけの意味が判らず、カイは問いかけで返した。

「何の事だ?」

「手袋しているから触っても大丈夫だ、とか、ちゃんと考えてあたしに手を伸ばしたかって事。朝の稽古の時はちゃんと考えてたみたいだけど、今はすっかり油断してる感じがする」

 カイは返す言葉が見つからず、無言を貫いた。沈黙から答えを察したリタは、わざとらしく肩を落としてため息を吐く。

「めんどくさくて悪いけど、この仕事が終わるまでは気をつけて。もちろんあたしも気をつけるけど、あたしだけが気を付けたからって、どうにもならない時もあるから」

 リタの指摘はもっともだ。「判った」とか、「これからは気を付ける」とか、素直に受け入れるべきだとカイは思う。

「面倒くさいとか、自分で言うなよ」

 だが、真っ先に口をついたのは、自分の事を「面倒くさい」と言い切る、リタへの文句だった。

 どうしてそんな事を言ってしまったのかは、よく判らない。ただひたすら、胸の奥で不愉快な感情が渦を巻いていて、それが勝手に憤りの形を取り、飛び出したような感覚だった。

「大丈夫だよ、正直に言っても。あたし、いまさらそのくらいで傷付いたりしないから」

「そんなわけがない」

「そんなわけないって、なんであんたが言い切るの。あたしの事でしょ。あんたにあれこれ言われなくても、あたしが一番良く判ってる」

 判っているわけがない、とカイは思った。

 リタは見ていないはずだ。カイが距離を置いた時、謎の力や過去の事を語った時、彼女自身が浮かべた表情を。健やかな強さで、背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、己の運命を享受しながらも、複雑な想いを抱いている事を隠しきれなかった眼差しを。

 強い娘だと思った。尊敬に値する人物で、見習わなければならないとも。

 だが、それとこれとは別問題だ。

 カイの拳は、苛立ちで震えた。

「痛みを乗り越えられる人が、すべての痛みを感じないわけじゃないだろう」

 リタの強い眼差しが、急激に力を失った。しかし、いや、だからこそ、カイを真っ直ぐに貫いた視線は、逃れるように反らされる。

「黙って」

「いや、黙らない」

「じゃあ黙らせる」

 体ごとカイに向き直ったリタは、両手に身に付けていた手袋をはずした。

 魔物と戦う事を前提とした探索の中で、魔物に対して有効な能力をわざわざ封印していたのは、カイへの気遣いだったのだろう。その封印を解いてカイと向かい合うほど、今のリタは腹を立てている。

 だが、怒っているのはカイも同じだ。

「理由も、意味も、よく判らないけどな、なんか嫌だ」

「自分でも判ってないような怒りを、あたしに押し付けないでくれる?」

「君のせいだってのは判ってるんだ」

 カイは振り上げられたまま動かないリタの腕を取った。剥き出しの手首をしっかりと掴み、逃れようとする力に抗う。無理に引き剥がそうと伸ばされたもう一方の手も取ると、互いの両手が塞がり、膠着した。

「放して」

 カイは視線をずらす。短い言葉で望みを告げる少女の唇から、掴んだ腕の先にある白い指へと。

 精一杯力を込めているのだろう、強く震えている。だがカイは、純粋な力比べで負けるつもりはなかった。

 ゆっくりと目を伏せる。強く抵抗する小さな手を、自身の頬へと引き寄せる。

「やめて、カイ」

 震える声が、低く響き渡った。

「やめて!」

 少女の望みが、叫びとなってはじけた。

 カイは両手を解放しながら目を開く。目の前には、胸元に自身の手を引き寄せ、震える少女の姿があった。

 小さな唇は硬く引き締められ、何も言葉を紡ごうとしない。代わりに、大きな瞳に宿る光が、カイに訴えかけてくるようだった。

 悲しみと、恐怖。今にも泣きそうで、叶うならば抱き締めてやりたいと思うほどの悲痛な色が、そこにある。

 望みもしないのに他人を傷付けずにはいられない力への、絶望。

「同じ気持ちだよ、俺だって」

 カイは囁くように静かに言った。

「俺だって、できる事なら傷付けたくなんかないんだ。なるべく気をつけるつもりだけど、不意に傷付けるような事を言ってしまうかもしれない。傷付けるような事をしてしまうかもしれない。でも、もしそうなったら、きちんと謝りたいと思うし……それは、自分が許されたいからじゃなくて……えっと、ごめん、上手い言葉が見つからない」

「判ったから、もう、馬鹿な事はするな!」

 自分を取り戻したリタは、カイに向けて怒鳴りつけると、はずしたばかりの手袋を身に付けなおし、それからカイの頬を叩いた。

 力の加減などするつもりもなかったのだろう。一瞬にして色を変えた頬に走るじわりとした痛みが、消える事無く後を引いていく。

「あんたの言う通り、壁に頭ぶつけて死んでたかもしれないんだよ。そんな事になっても、絶対、嘘の報告なんてしてやらないからね!」

 乱暴な足取りで遠ざかる背中を見つめながらカイは、まだ痛みの残る頬にそっと手を添える。

「いって……」

 我慢できず、けれど彼女に聞こえないようにとの配慮は忘れず呟きながら、カイは無意識に微笑んでいた。

 きっと――いや、間違いない。

 この痛みは、リタがようやく剥きだしにした、本音と優しさなのだろう。

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