ゴッドチャイルド

魔物狩りの少女 ２

「ならば、カイをひとりで行かせてはどうだ」

　ジークの発言はまさに青天の霹靂で、カイは口に含んだ水を吹き出してしまいそうだった。なんとかこらえて懸命に水を飲み込むと、口元を抑え、こみ上げてくる激しい咳を押さえ込む。

　動揺したのはカイだけではなく、ジークの正面に腰を下ろしているふたりの男もだった。カイのように取り乱しこそしなかったが、声も出ない様子で、しばらくの間、口を開いたまま動かなかった。

「い、いや、しかし、ジーク殿」

　ふたりの男は驚くとの反応こそ同じだったのだが、一方はジークの提案に賛成である事を、もう一方は反対である事を、表情でありありと示している。慌てて言葉を紡いだのは、「勘弁してくれ」とでも言いたげな顔をした、若い男の方だった。

　セウルと名乗った青年は、カイとジークが住むトルベッタの街から３日ほど歩いた所にある、アシェルの町の町長の息子だ。緊急事態に暗く沈む町を守るため、救いを求めて馬を駆けさせ、トルベッタに辿り着いたのか今朝の事だと言う。

「わが町はトルベッタほどに大きくはありませんが、それでも千を越える民がおります。彼らを守るには、その……」

「カイでは信用ならないと？」

「そうは言いません！　言いませんが、得体の知れない魔物に襲われ、我が町の民は恐れおののいています。我らには救いが必要なのです。魔物狩りの中でも特に名高い、ジーク殿のお力が！」

　口では否定しているが、セウルの目はジークの指摘が図星であった事を如実に語っていた。

　またか、と、自分にだけ聞こえるように呟いて、カイは肩を竦める。

　つい先日ようやく成人をむかえたばかりの年齢であるカイの実力を、過小評価する者は多い。魔物狩りの中でも特に優れた力を持つジークと常に行動を共にしていれば、尚更だ。

　もっとも、今回ばかりはセウルが悪いわけでもないだろう。彼は単純に「魔物狩り」の力を借りにきたわけではなく、トルベッタの街を守る神である「ジーク」の力を借りに来たのだ。ジークを基準で考えれば、カイでは明らかに役者不足である。

「どうする？」と訊ねる意味を込めてカイがジークを見つめると、ジークは静かにため息を吐き、視線をセウルからもうひとりの男に移した。トルベッタの町の衛視長、ディーンに。

　ディーンが静かに首を振る事で応えると、ジークは再びセウルに向き直った。

「俺はトルベッタの領主と契約を交わしている。トルベッタがわから許可が出なければ、この街を離れる事はできん」

「アシェルやその民の命よりも、契約が大事と申されるのですか？」

　必死に叫ぶセウルの声は悲痛であったが、他の３人の怒りを買いこそすれ、想いを揺さぶる事はできなかった。

「エイドルードの加護の中にある貴方に、この契約がどれほど大切かは理解できないでしょうな」

　一段低くなったディーンの声が、部屋の中に静かに響く。

　その響きに込められた感情に、セウルは失言した事をようやく自覚したようだった。

「この街にエイドルードの加護はない。ゆえに、いつ魔物が現れるか判らんのだ。俺はこの街を離れる事はできん」

「それは判ります、判りますが――では、今まさに魔物に窮している我が町は、どうなっても良いと申されますか？」

「トルベッタとアシェルを秤にかけねばならぬのなら、そうだ、と答えるしかない。エイドルードの加護などという不確かなものに頼り切っていた己を恥じるんだな」

「そんな……」

　視線にも声音にもためらいのないジークの返答に、セウルは力を失ってうなだれる。

　救いを求めて駆けてきた男に対するには、少々冷たすぎる態度ではないかと考えたカイだったが、中途半端に同情をかけないところは実にジークらしいと思ってしまったため、何も言わなかった。

　ジークは自分の街を自分たちで守るのは当然だと、トルベッタのように常時から危機に備えておけと、当たり前の事を言っているに過ぎない。日々警戒を怠らないトルベッタを見捨て、平和に溺れていたアシェルを助けろなどと、確かにむしのいい話だ。

「神は、アシェルをお見捨てになられたのか。我らに滅びよと」

　膝の上で組んだ両手に力を込め、吐き出すようにセウルは言う。

「この街ははじめからエイドルードに見捨てられている。それでもまだ生き続けている」

　セウルはわずかに顔を上げた。

「俺とてアシェルが憎いわけではない。だが、俺はトルベッタを離れる事はできん。そうしてしまえば、俺はエイドルードごときと同じになる」

　セウルは体を震えさせていた。射抜くようなジークの視線に怯えたか、唾棄するように放たれたジークの言葉に怯えたか。おそらくは後者であろうと推測したカイは、セウルから視線をはずした。

　外から来た者はみんなそうだ。無条件にエイドルードに心酔し、信頼し、崇めている。だからエイドルードを侮蔑しているトルベッタの民を、非常識とみなすのだ。

　カイはエイドルードを崇める事をしない。だが、加護の中に居る者たちがエイドルードを崇める心をまったく理解できないわけではなかった。もし自分が加護の中にあれば、エイドルードに祈っていただろうと思うのだ。

　だから彼らも少し考えれば、信仰を持たないトルベッタの民の事を判るだろうに――少数派というものはいつの世も冷たい目で見られるものらしい。

「アシェルで生まれ育った私には、貴方の言葉を受け入れる事はできません。我らにとって、エイドルードはやはり偉大なる神なのです」

「そうか、では」

「ですが今となっては、貴方の言葉を否定する事もできません」

　深々と頭を下げたセウルの表情を覗きながら、必死の形相とはまさにこの事なのだろうと、カイは知った。

「どうか、貴方のお力をお貸しください。エイドルードの加護の中にあったからこそ、アシェルの民は魔物の恐ろしさを知りません。人間相手の訓練のみを重ねた兵士たちでは、どう魔物に立ち向かえばいいのか判らないのです。どうか、どうか……！」

「だからカイを向かわせると言っている」

　ジークの声は乾いていたが、不思議と冷たくなく、むしろ労わりの気持ちが篭っているようだった。

「カイは俺の仕事を手伝ってくれているが、今はまだトルベッタと契約を交わしているわけではない。カイならば許可を取らずとも、今すぐにこの街を出てアシェルに行ける。もっとも、カイにアシェルを救う意思があれば、だがな」

　ジークと、セウルと、ディーンと。３人の視線が、同時にカイに集まった。

「別に俺は行ってもいいけどさ」

　カイは正直に本音を答えた。

　守りたいと思う場所はトルベッタだけだが、アシェルを見捨てたいと思うわけではないし、必死なセウルを見ているとつい可哀想だと思ってしまう。その同情心と、ジークに任せればトルベッタは大丈夫だろうとの信頼、ひとりで仕事をする事によって己が成長するかもしれないとの期待を合わせれば、断る理由は見つからなかった。

　物心ついた時にはトルベッタに住んでおり、別の町や村に行った事がないため、わずかな不安はある。だが、帰路に着くセウルと共に行けばひとり旅にはならず、道に迷う事もないのだから、それほど大きな問題ではないだろう。

「彼の腕は？」

「確かだ。並大抵の魔物ならば相手にならん。そこらの魔物狩りよりもよほど腕は立つ」

「その証明となるものはありますか？」

「俺の言葉が信じられないと思うならば、実際にカイと戦ってみればいい。お前の命の保証はしないがな」

　セウルはごくりと喉を鳴らした。

　返す言葉も見つからないのだろう、それきり動かないセウルに、ジークは肩を竦めながら言葉を続けた。

「俺の息子だ、とでも言えば、満足か？」

　淀んでいたセウルの瞳に、突如光が溢れた。

　ずいぶんと判りやすい男である。いずれは町長になるのだろうに、これほど素直でやっていけるのだろうかと、カイは考えた。自分が心配するような事ではないと判っていたが。

「じゃあ、すぐに出かける準備をするよ。セウルさん、道案内お願いします」

「了解しました」

　セウルは素早く立ち上がり、ジークやディーンに礼をすると、部屋を飛び出していく。

　残された３人は視線で心情を語り合うと、同時に深い息を吐き出した。

「それにしても妙な話ですね。アシェルに魔物が出るなどと」

「本当に魔物かどうかは怪しいがな」

「え、そうなのか？」

　ジークの言葉に反応し、カイは身を乗り出した。

「ああは言ってはみたが、エイドルードの加護の下にあるアシェルに魔物が出る事はありえない。巨大な動物か何かと勘違いしていると考える方が自然だ。だが、油断はするな」

　真摯な眼差しと共に贈られた忠告に、カイは肯いて応えるしかなかった。

　父と離れた初めての仕事なのだ。元より、油断する余裕などはない。