砂漠の神殿へ 2

 凶暴にすら感じる風が、砂漠をかき乱す。赤い砂塵が視界を埋め尽くした。

 なるべく覆ってはいるものの、隙間から砂が目や口に入ってしまいそうで、無意識に風が流れ行く方へと顔を向けてしまう。真正面から風が吹く今は、背後に視線を送る形となり、自身の残した足跡が、直近の数歩を残してすでに消えているのだと知った。

 空に雲は無く、地には熱い砂以外見られない。強く照りつける太陽を遮るものは何ひとつなく、地上を歩むエアは容赦無く攻め立てられる。陽の光を遮断するため、ゆったりとした外套で全身を覆っているが、刺すような痛みを抑えられるだけで、熱せられた空気から逃れる術はなかった。

 エアは目を細めて太陽を見上げ、舌打ちをする。

 畑仕事に従事していた頃は必要不可欠な存在であったし、王都で生活していた頃も嫌いな存在ではなかったが、今は何よりも忌々しいと感じる。空にあって地上に恵みを与える事から、エイドルードの化身と呼ばれている事実を知ってからは、なおさらだ。

 風が少し治まると、エアは腰につるした水袋を手に取り、ひと口だけ口に含んだ。

 丹念に舌の上で転がしてから、喉を通した。ぬるいはずの水は灼熱の太陽に照らされた身には心地よい冷たさで、ゆっくりと体に浸透していく。無味無臭のはずだが、今は何よりも美味いものに感じられる。

 乾いた唇を舐めて湿らせると、地図を広げた。

 大丈夫だ。おそらくはまだ、方向を見失っていない。

 エアは自身にそう言い聞かせ、冷静さを保つ。

 砂漠の中心にほど近いオアシスで、そこまで道案内をしてくれた砂漠の民と別れたのは半日ほど前だ。それまでもエアは、ただ彼らに着いて行ったわけではない。砂漠での歩き方、方向感覚の保ち方、水の効果的な配分法なども学んだ。学んだものを実践し、彼らと別れてから砂漠の中心にあるオアシスまで、迷う事なくひとりで辿り着けた。オアシスから目的地まで、迷わず進める最低限の力はあるはずだ。

 砂嵐に負けないよう、エアは視線を巡らせる。自分が地図の示す場所に迷う事なく進めていたならば、そろそろ目的地に到着しているはずだった。

 もし到着できなければ、広大な砂漠で迷ってしまったという事だ。つまり、よほど運が良くない限り、水を失い命を落とす道しか残されておらず、求める物を探す視線の真剣さが増すのは自然のなりゆきだった。

 間近に迫る砂丘に怯んでいると、何かの輝きに目を突かれ、眩しさに目を細める。反射的に腕を翳して目元を覆い、焼き付いた残像を掃おうと硬く目を瞑り――慌てて両目を見開く。

 エアはたまらず走り出していた。今の輝きは太陽から降りそそいだものではなく、光が何かに反射したものであったからだ。砂が反射させるものよりも強烈で、水か、人が持ち歩く何かの道具か、エアが求めているものどれかが先にあるとしか考えられない。いずれにせよ、エアの命を繋いてくれる可能性は高かった。

 エアは緩やかに流れゆく砂を両足でしっかりと踏みしめた。

 眼下に鈍くきらめくは、金属板に刻まれた聖印。

 エアは無意識に笑みを浮かべていた。それこそが、エアが一番求めていたものだった。

 一番近いオアシスからも随分離れている。別の集落や都市に至る道の途中でも、獲物が取れるわけでもないため、砂漠の民すら滅多に近寄らない。そんな場所に、砂漠の神殿への入り口はあった。

 すぐに合言葉を紡ごうとして、乾いた喉では上手く声が出せなかったため、エアは再度水を口に含む。先程水を飲んでからあまり間を空けていない事が多少気がかりだったが、水はまだ充分残っていたので、躊躇いはしなかった。陽の光が完全に遮られる迷宮の中ならば、砂漠を歩いていた時よりも楽であろうし、砂漠の神殿には水が豊富にあると言うから、帰りの分はそこでたっぷりと補給すればいい。

『神の寝所はただひとつ天のみに』

 エアは咳払いをして喉の調子を整えてから、流麗な神聖語で紡いだ。

 風が止んでいだが、砂だけが小刻みに震えていた。振動はやがて体にも伝わり、エアは砂に足を取られないよう気を付けなければならなかった。

 盛り上がっていた砂が、低い場所を求めて勢いよく流れ落ちていく。砂に飲まれないよう少し距離をおいてから、舞い上がる砂煙に耐えるため、エアは顔を伏せる。

 やがて、砂が滑る音や地面から伝わる振動がやんだ。

 エアはゆっくり目を開く。目の前にあったはずの砂丘は消え失せ、代わりに背の高い重厚な扉がそこにあった。

 合言葉だけでなく扉そのものも、森の神殿への道とまったく同じだ。もしや、と考えたエアは、素早く中に入ってから明かりを点けると扉を閉め、アシュレイから貰った迷宮の地図を取り出した。

 人目に付く事を恐れ、完全に他者から切り離されるこの時まで一度も開く事のなかった地図を眺めると、言いようのない倦怠感に襲われ、エアは低い笑い声を上げていた。笑いでもしなければ、立っているのも億劫になった事だろう。

「手抜きか? エイドルード」

 無意識に呟き、また笑う。

 森の神殿への迷宮の地図はアシュレイ渡してしまったため、おぼろげな記憶だよりとなるが、エアが覚えている森の神殿への迷宮の道筋と、今エアが手にしている地図は、ほとんど一致していた。合言葉も同じなのだから、違うのはたったひとつ、最後の分岐のみである。

 最後の分岐だけでも違っていたのはありがたかった。もしまったく同じであったとしたら、人目を忍んで地図を交換した事は無駄になる。いや、エアが聖騎士となり、森の神殿へ派遣された事までもが、無駄になっていたかもしれない。

 エアは深いため息を吐いてから、道を進んだ。はじめて歩く、しかし懐かしさを覚える、長い道を。

 しばらくは分岐のない真っ直ぐな通路だ。自身の足音と油が燃える微かな音だけを耳に歩みを進めていると、前も後もない永遠の道を進んでいる錯覚に陥りそうになる。1年前にハリスたちと共に迷宮を進んだ時も、何かしら息苦しさや重苦しさを感じたものだが、今の重圧はそれ以上だった。

 理由は判っている。ひとりだからだ。ひとりきりで閉鎖された場所に居ると、忘れようとしている記憶が蘇るのだ。

 夕食の支度を終え、食卓に腰掛けて父の帰りを待っていた幼少時代。その父がもう二度と帰ってこなくなった少年時代。朝から畑仕事に精を出し、くたくたの体で家に帰りついた自分が、誰に語りかけるでもなく「ただいま」と呟く苦さ。思い出すだけで胸を貫く痛みだ。

 この道を抜ければその痛みを癒してくれる少女に会えるのだと思うと、自然に歩みは早くなった。

 いや、もう少女とは言えまい。彼女を失った日から、5年近い時が流れているのだ。エアが変わったように、彼女も変わっているに違いない。

 どんな顔をして、どんな眼差しで、どんな言葉で、迎えてくれるのだろう。強い不安と期待が入り混じり、1歩進む度に鼓動が早まった。

「次が、右から、2番目」

 己に確認するために声に出し、正しい道を読み上げる。正しい道を視界に捕らえ、地図と確認し、歩き出した。

 地図を見る際に目の端に映った剣の柄が、目に焼き付いて離れなかった。明かりが照らす先の闇を見つめながら、剣を振るう自身を想像してしまう。

 森の神殿の少女が語っていた事が正しく、両神殿が共通しているならば、リリアナはもう気付いているはずだ。砂漠の神殿に向かう何者かが迷宮を進んでいる事に。

 補給部隊は2ヶ月も前に砂漠の神殿を出ているはずであるし、事前に連絡の取りようもない。どう考えてもエアは不審人物であるから、すでに警戒態勢に入っているだろう。

 剣を振るう事にならなければ良い。そう、心から願う。

 善人ぶるつもりはない。リリアナを神殿から引きずり出すためならば、リリアナに仕える21人の女たちの命をすべて奪う事も厭わないと決めている。

 それでも、叶うならば、できるかぎり危害を加えずに事を済ませたい、と思ってしまうのだ。

 淡い期待は、迷いの表れかもしれなかった。そんな時にエアの脳裏にちらついたのは、今頃森の神殿に近付いているだろう、アシュレイだった。

 悔しいが、あの男には迷いは無かった。それはエアがリリアナに向ける愛情が、アシュレイがライラに向ける愛情に劣っている、という事ではない。これが神の意思なのだと言う、傍から見れば信じられないような言い訳が、あの男の中で強く生きているからだ。

 アシュレイのように受け止めれば自分も楽になれるだろう、と考える事もある。

 だがエアは、エイドルードに従うくらいならば、辛い方がましに思えた。この身のすべてが血に染まり、心が裂け泣き叫ぶ事になっても、神の使徒でなくただの人としてリリアナと対面したいのだ。

「次は――」

 ひとりの寂しさを忘れたいのか、無意識にひとりごとが増える。道を進み、三叉路を目前にしたエアは、何度目か判らない地図の確認をする。

 正しい道は真ん中。

 それを確認すると同時に、エアは遠くから響く音を聞いた。

 エアは右の道に歩み寄った。慎重に触れ、床や壁に罠が無いのを確かめ、ランタンを掲げて天井にも不審な点が無い事を確かめる。

 その間にも、響く音は徐々に近付いて来ていた。エアは右の道に身を隠すと、明かりを遮断し、暗闇で息を潜める。

 音が人間の足音だと判別がつくまで、そう時間は必要なかった。

 エアの足音よりも軽い。エアよりも小柄な人物、おそらくは女性が、3、4人程度と言ったところだろう。

 剣に手をかけた体勢で、エアは待った。彼女たちがエアに気付かずに通りすぎてくれる事を祈りながら。

「侵入者とは、本当でしょうか? 誰の案内もなく広大な砂漠の中から門を見つけだせる者が居るとは考えられません。それに、合言葉の件もあります。偶然言い当てる可能性など、万にひとつも無いと思います」

 不安に満ちた少女の声が、暗闇の奥から届く。

「私もよ。でも、例年ならば誰かが来るような時期では無いの」

「急使か何かではありませんか? 司教様が代替わりなさったとか……」

「内容はともかく、そうである事を私も願っているわ。ともかく、万が一にも悪漢で、リリアナ様に危害を加えられたら一大事。神殿に辿り着く前に、相手が何者かを見極めましょう」

「はい」

 暗闇の奥から光が近付いてくる。彼女たちが通路から出ては光が届いてしまうかも知れず、エアは音を立てないように後ずさった。

 やがて光と共に、4人の少女たちが姿を現した。ひとりが地図を、ひとりが明かりを持ち、それぞれが剣や槍と言った武器を手にしている。

 4人の内3人は、きょろきょろと視線をめぐらせてはいるものの、先――エアからすれば後だが――しか見ていなかった。だが、明かりを持った少女のみが、何か気にかかるのかじっくりと辺りを見回している。

 少女の足音が近付き、掲げられた明かりが、エアの潜む道に入り込んだ。エアに光が届くまであと少しだった。

 緊張にエアの鼓動が早まる。柄を強く握り締め、静かに息を吸う。

「それ以上奥は危険よ。罠に巻き込まれてしまうわ」

 一番年かさと思われる地図を持った女性が、ランプを持った少女の腕を引いた。

「そうですね」

「先を急ぎましょう」

「はい」

 道に差し込まれていたランプが、4人分の足音と共に離れていった。

 エアは剣の柄にかけていた手をはずし、安堵のため息を吐く。足音が完全に聞こえなくなってから、立ち上がった。

 エアが迷宮に足を踏み入れてから半分以上進んでいる。彼女たちはおそらく、入り口に行くまで引き返してこないであろうから、この迷宮を進むうちは完全に逃れたと考えて良いだろう。

 あと17人。楽観視はできないが、肉体的にも心理的にも負担が減ったのは間違いなかった。

 エアは正しい道に戻り進みはじめたが、彼女たちのような集団が他にも居ないとは限らず、ランタンの光をあまり外に出さないようにした。足元と数歩先をおぼろげに確認できるようにしておけば、何とか進む事ができる。

 分岐を2つ越えないうちに、再び足音が響いた。エアは先ほどと同じように、入り口付近に罠が無い事を確認してから誤った道に身を隠し、通りすぎるのを待つ事にした。

 次も集団だ。先ほどよりもひとり多く、5人。先にひとつの集団が進んでいるからか、僅かに油断が見られる。さすがに正しい道は念入りに見ているが、罠のある道を覗きこむような事はせず、身を隠すのはより簡単だった。

 あと12人。この迷宮ですれ違う事で、半分近くをやり過ごした事になる。いつ見つかるか緊張を強いられる事となるが、事を構えずにすむ分楽だ。いっそ、21人全てが迷宮内に入ってきてくれれば良いのに、と望んでしまう。

 足音が消えると、エアはまた正しい道に戻った。念のために通路を覗き、闇の向こうに小さな明かりを見つけると、息を飲んで身を強張らせた。

 足音はしない。明かりが近付いてくる様子はない。つまり、何者かがそこで構えていると言う事だろう。

 正しい道がひとつしかないこの迷宮では、動いていない者に近付かずに正しい道を進む事は不可能だ。

 できる限り静かに進む。床に使われている石の材質上、足音を完全に消す事は不可能だが、足音を軽めに細工する事はできる。せめて顔の判別がつく距離になるまで、仲間だと誤解してもらえればありがたい。

「どなたです?」

 明かりの持ち主は少女だった。今まで見た中で一番幼いかもしれない。

「侵入者は見つかりましたか?」

 エアの狙い通り、引き返してきた仲間だと勘違いしてくれたようだ。道の途中に立っていた少女は、手にしていた松明をエアの方に掲げる――と同時に、エアは手荷物をその場に投げ捨て、地面を蹴っていた。

 少女がひとりであった事は幸いだった。よほどのてだれでなければ何人居ても片付ける自身はあったが、複数居ればひとりを片付けている間に悲鳴を上げられる可能性が高い。女性の悲鳴は響くので、やり過ごしたばかりの集団が戻ってきてしまう可能性がある。

 左手で少女の口を押さえ、右手で素早く鳩尾を突いた。少女は呻き声を上げる事もできず、その場に崩れ落ちる。

 労わりに意味がない事を知りながら、エアは少女の体を抱きとめ、優しく横たわらせてやった。

 床に転がり落ちた松明の火を踏み潰し、自身の荷物を拾うと、少女には見向きもせずにその場を通り過ぎる。

 妙に喉が渇く。道を進みながら、水を喉に流し込んだ。

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