五章 砂漠の神殿へ

砂漠の神殿へ 1

 絶えず響き渡るく金属音を耳にしながら、ハリスは壁に背中を預ける。そうして息を整え、熱の上がった体をゆっくりと冷ましながら、目の前に広がる光景を眺めた。

 聖騎士団第18小隊に所属する者たちそれぞれが、鍛錬を重ねている。やっている事は、訓練用の剣で打ち合っていたり、ひとりで撃ちこみをしていたり、走りこんでいたりとさまざまだ。

 その中で目を引くのは、やはり隊長であるエアだった。2年連続で武術大会の優勝者となった――が、今年もまた騎士団長アシュレイに敗れていた――男の剣術はやはり、他の者たちとひと味もふた味も違う。

 ハリスは1年ほど前の記憶を蘇らせた。

 任務で森の神殿に赴いた時の事だ。ひとつの卓を囲みながら、森の女神ライラは言った聖騎士様たちの剣技は美しいと。その時ハリスは否定の言葉を口にしなかったが、本音では首を傾げたいところだった。すべての聖騎士の剣技が美しいとは言えないからだ。

 だが、ライラが武術大会で決勝まで勝ち進んだ者の剣技しか見ていない事を考えれば、その誤解は当然だろうと、今更ながらに納得がいった。

 エアは動きに無駄がなく、故に隙がない。洗練された動きは、美しいとハリスも思う。

 今、エアに稽古をつけてもらっているのはルスターだ。なんとかエアにひと太刀浴びせようと、がむしゃらに飛びかかっていく。しかしエアは素早く、最小の動きで彼の剣を避け、手首を打ち、彼の剣をはたき落とした。

 ルスターはあまり多くを望まず、まずエアに剣を使ってもらう事を目指すべきだろうな、と考えてから、ハリスは自嘲ぎみの笑みを浮かべる。

 ハリスとて、ルスターと大差ない結果しか出せていないのだ。入団した時よりも、去年よりも、ひと月前よりも、剣の腕が上がっているという自負はある。それでも、エアに敵う気はしなかった。天性の才能などという言葉はあまり好きではないが、そうとでも思わなければ納得できないほどの隔たりが、自分とエアとの間にはあると感じていた。

 直前まで稽古を付けてもらっていたのはハリスだ。エアに剣を使わせる事こそできたが、一太刀浴びせる事はできなかった。これ以上ないほど打ちのめされ、自慢の体力も底をつき、少し休めと言われ――自分をそこまで突き落とした人物は、平然と次の者と稽古をしているのだから、どうにも釈然としない。

「もう休め。次!」

 ハリスが貰ったものと同じ言葉を、ハリスよりも短い時間で受け取ったルスターは、愕然とした様子だった。自分とエアとの間にある目に見えない壁に、ハリスのように打ちのめされているのだろう。

 ああ、そうだ、打ちのめされている。だが、不思議とハリスは、その壁が憎らしいとは思っていない。悔しい事は否定しないがそれだけだった。エアに負ける事に、少々の心地良さすら感じていたのだ。

「本当に、お強い……ですね。エア、隊長は」

 ルスターは息を切らせながら、それでも言わずにいられないのだろう、同じく休憩を取っているハリスを話し相手に選び、近付いてきた。

 自分の事でもないのに嬉しくなり、ハリスは満面の笑みで応える。

「ああ。凄い人だな、あの人は」

 本当に、凄い。ハリスは心の底からそう思っていた。

 5年前の彼は、どこにでもあるような田舎の農村で、畑を耕して生きていた。

 ここに居る他の誰もが、5年以上前から聖騎士となる事を心に決めていただろう。エアよりも長い時間修行し、学び、そうしてようやくここまで来たのだろう。

 だというのにエアは、軽々とハリスたちの上を行っている。天性の才能、それも確かにあるかもしれない。だがその才能を短期間で開花させたのは、紛れもなく、彼の意思の力だった。

 その意思を支えたのがひとりの女性だという事実を、ハリスは知っている。それは1年前から抱え、誰にも言えない秘密だった。エア本人とさえ、はじめて聞かされた日以来、この件については語り合った事はない。

 エアは大切な女性のために旅立つだろう。彼を慕う者たちを置いて、いつの間にか姿を消してしまうだろう。それはある種の裏切りかもしれないが、他の者より少しだけエアを知っているハリスは、責める気にはならなかった。

 エアは危うい人物だ。それが強いとか弱いとか、良いとか悪いとかを語るつもりはない。ただ危ういとの事実を、ハリスは知っていた。

 想う女性が居てこその、エアという存在。彼女だけが、エアを支えている。

 支える事もできない人間が、エアという存在を望む事は許されないのだろうとハリスは思う。だからこそ自分は、エアを支える人間になりたいと望んでいたのかもしれなかった。彼に消えて欲しくないと、望んでいたから。

「今日はここまでにしよう」

 更に短い時間で相手を屈服させ、稽古を終わらせたエアは、部下たち全員を見回して言った。

 気付けば、橙色の陽の光が斜めに差し込み、夜の訪れを予言している。もうそんな時間になっていたのかと隊員全員が自覚すると、エアは部下たちを整列させ、挨拶し、その日の訓練を終えた。

「エア隊長、明日もよろしくお願いします」

「ああ。今日の最後の突き、悪くなかったぞ」

「ありがとうございます!」

「隊長、明日こそ一太刀!」

「本当か? 期待してるぞ。明日が楽しみだ」

 圧倒的な力を持つエアに対し、大抵の者は大なり小なり嫉妬心を抱いているだろうが、それより敬愛が勝っていた。部下たちは皆、何かと面倒見のいいエアを慕い、届かない者として尊敬している。

 そうして気軽に口にされる明日の約束に、エアは笑顔で答える。

 それはあまりに恐ろしい行為で、ハリスは今まで一度として行った事はなかった。明日を約束していたというのに、いざ次の日になってみたらエアの姿が見えなかった、ではあまりに悲しく、打ちのめされすぎて立ち上がれない気がしたのだ。

 だが今日は、皆と同じようにしなければならないとの予感があった。

 隊員たちがエアに一礼し、宿舎へと戻っていく。その背中を見送るエアに、ハリスは近付いた。

「稽古つけてくださって、ありがとうございます」

「どうした改まって。珍しいな」

「何となくです。今日の稽古、厳しかった気がしたので」

「気のせいだろう? いつも通りだ」

 ハリスは微笑んだ。だが、上手く笑いかけられた自信はなかった。

「隊長はいつもならもう少し手加減してくれますから、あんなに追い詰められたのは初めてですよ。でも、だからこそ、成長できる気がしました」

「そうか」

 エアも微笑む。その笑みは、腹が立つほど自然だ。

「明日も、よろしくお願いします」

 そう伝えるのは、今日までの人生で1番と言って良いほどの、勇気が必要だった。偽りの笑みがいっそう作りにくくなり、沈黙を挟んだ後、僅かに震えた声で伝える事が精一杯だった。

 見過ごしてしまいそうになるほどの、ほんの一瞬、エアは息を強張らせる。けれど、それがなかったかのように自然に、ハリスに振り返る。

「お前は、本当に……」

 苦そうに細めた眼差しでハリスを見下ろしながら、エアは言葉尻を濁した。

「本当に、なんです?」

「いや」

 エアは目を伏せ、軽く首を振り、

「その才能、大切にしろよ」

 それだけを言い残すと、ハリスを置き去りに歩き出した。

 エアが何を言わんとしているのか、ハリスは理解できなかった。エアがハリスのどの辺りに才能を感じたのか、けして口にしてはくれなかったからだ。

 だが今は、理解できない気持ち悪さよりも上回るものがある。

 秋の終わりを告げる冷たい風の中、ハリスはひとり微笑む。無責任な明日の約束を貰えなかった喜びで、胸をいっぱいにしながら。

 今度は、心から笑えていた。


 翌日の朝、聖騎士団第18小隊隊長エア・リーンは、聖騎士団内に大いなる混乱をもたらした。一切の痕跡を残さず、その姿を消してしまったからだ。

 神殿内の空気は騒然となる。民の憧れであり、正当な理由さえあれば退団を拒む事のない聖騎士団から脱走する者など、過去にほとんど存在しなかったからだ。品行方正かつ優秀であった――装っていた、が正しいのだが――エアのような騎士に限定すれば、過去にまったく存在していなかったかもしれない。

 部下である18番隊をはじめとする者たちにとりあえずの捜索命令が下されたが、ハリスは従うふりをして、神殿内に舞い戻ってきていた。

 ハリスはエアの行き先を知っている。だが、捕まえる気など毛頭ない。彼がなぜ旅立ったのかを知っているから。知ってしまっているから。

「どれくらい前からかは知りませんけど、事前に今日だって決まっていたんでしょうに。それなのに、さも同じような明日が続くふりをして完璧に姿を眩ませるのだから、酷い人ですよ、隊長は」

 部屋の中心にひとり立ち尽くし、ハリスは呟いた。

 静かで、冷たい空気。備え付けられていた寝台や机といった最低限のもの以外、なにもない。寝台に敷かれたシーツには皺ひとつなく、床には塵ひとつ落ちておらず、昨日まで人が住んでいたとは到底思えない。

「まるではじめから居なかったみたいですね」

 そこにエアが居ない事は知っていたが、彼に語りかけるように言う。

「でも、隊長は間違いなく、ここに居た」

 誰が知らなくても、自分が知っている。皆が彼に失望し、忘れるように勤めても、自分は忘れない。いつか真実を知り、彼を罪人と責める者が居ても、自分が彼の行動を否定する事はないだろう。

 1年前の約束と、昨日の交わされなかった約束を胸に、ハリスは己に誓った。伝わる事のない決別の言葉を、口にしながら。

「さようなら、隊長」

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