56.法度



 山南の怪我は命には別条のないものだった。最初こそ出血から少しぼうっとしている様子だったが、やがて食事も会話も今まで通りできるようになった。

 大坂は引き続き警戒が必要だということで、交代要員として新八と左之助を呼び寄せ、さくらと歳三は山南を連れて壬生の屯所へと戻った。岩木升屋での一件から七日後のことであった。


「山南さん!」

 知らせを聞いていた勇や総司、平助らが血相を変えて山南の部屋に集まってきた。

「具合はどうなんですか」

「近藤先生、面目ない……」山南は気落ちした様子だった。首から手ぬぐいで吊られている左腕が痛々しい。

「医者に言われた通り向こうで安静に過ごして、ようやく京に戻るのを許されたのだ」さくらが補足説明した。

「腕、治るんですよね?安静にしていれば」平助が心配そうに言った。

「ああ。近藤先生、申し訳ありませんが、二、三日の間隊務を休ませてはもらえませんか」

「二、三日なんてとんでもない。今無理をして、のちのちに響けばそれこそ新選組にとっても大きな痛手。幸い、今は隊士も増えてきていますし、しっかり休んでください」

 勇が語気を強めて言うので、山南は「ありがとうございます」と微笑んだ。



 その後。将軍後見職の一橋慶喜が大坂に入るということで、新選組は勇も含めかなりの人数を割いて下坂することになっていた。当初は山南も行く予定だったが、この腕では役に立たないからと言って、京都に残った。

 さくらは、もともと京都に残る予定だったのもあって、かいがいしく山南の看病をしていた。

 罪悪感が、あった。あの時、自分の動き次第では山南をこんな目に合わせなくても済んだのではないか。そんな気持ちが、拭いきれない。

「山南さん、腕の手ぬぐい、替えますよ」

 山南は源三郎と同室だったが、源三郎が大坂にいる今、一人部屋のようになっている。

「ありがとうございます。一人でいるには広すぎますから、誰か来てくれるのはありがたいですね」

「私でよければ、いつでも来ますよ」

 言ってから、さくらは「今のは大胆発言なのではないか」「いや、そんなに大したことは言っていない」という自問自答を脳内で数回繰り返した。

 それはともかく手ぬぐいだ、とさくらは左腕を吊っている手ぬぐいを外し、新しいものに入れ替えると、山南の首の後ろで結んだ。

「ありがとうございます」

「まだ、痛みますか?」

「動かさなければ、そこまででは。ただ、まだ剣の稽古をできるような状態ではなさそうです。申し訳ない」

「そんな、謝らないでください。むしろ、謝るのは私の方で……!」

「なぜです?」

「あの時、私がもっとうまく立ち回れていたら……」

 山南は目尻を下げて笑みを見せた。

「何を言ってるんですか。さくらさんがいなければ、私は死んでいたかもしれません。むしろ私は、感謝しているんですよ」

 そう言われてしまうと、それ以上何も言えなかった。感謝など、される筋合いはないのに。さくらには、山南の優しさが痛かった。


***


 ここで、一人の男の最期について触れなければならない。

 さくら達の人生が一変した文久三年が暮れようとしている折、彼は腹を切り、この世を去った。

 芹沢派の最後の一人・野口健司である。

 野口は、芹沢たちが亡くなった後も、その若さゆえか近藤派の面々とも柔軟にうまくやっていた。特に、歳の近い平助、総司や、同じ流派を収めた新八とは馬が合ったようで、共に飲みに出かけたりすることもあった程だ。

 その野口が、芹沢暗殺の真相を探り始めている、ということが判明した。

 どうしてわかったかといえば、さくらが「監察」の任務で新入隊士を尾けていたことに端を発する。

 この監察という仕事、諸士調役としての任務が軌道に乗り始めた頃合いに、追ってさくら達に課せられた任務だった。

 字面から読み取れる通り、監視すなわち隊の内部の人間に素行不良がないかどうか、間者が紛れていないか、などを調べる役目である。

 年明けにはまた将軍家茂が上洛するとあって、新選組は一層大きく、強く変わっていく必要に迫られていた。何よりまず、頭数を増やすことが至上命題。現に、隊士の数も今や六十人を越えようとしている。その顔ぶれは「個性豊か」と言えば聞こえはいいが、素性の不確かな者もちらほら入ってきているのも事実だ。

 そうした隊士らの素性を調べるのが「監察」の仕事だ。特に、新入りの隊士は本当に純粋な尽忠報国の志から入隊したのかどうか、確かめる必要があった。

 そんな中、新入りの隊士を連れては飲みにでかけていたのが、野口であった。

 さくらとしては、野口の動向など眼中にはなかったのだが、彼が酔った勢いでぺらぺらと話した内容が聞き捨てならないものであった。

「芹沢さんっていう局長がいたんだ。つい二か月か三か月くらい前まではな。長州のやつらに暗殺されたって話だが、俺はあの斬られ方は天然理心流じゃないかと思うんだよ。もちろん、確証はないがな。だが、天然理心流といえば、近藤局長はじめ、土方、沖田、島崎っていう主要幹部の十八番なわけだ。なんだかなあ、俺ぁ腑に落ちないんだよ」

 新入隊士の素行調査などどうでもよくなってしまう程の破壊力だ。ちなみにさくらは枝豆の行商人になりきって店の脇にある小窓から中の様子を伺っていたわけだが、あやうく枝豆をぶちまけてしまうところだった。

 このことを勇や歳三に報告すると、歳三が開口一番こう言った。

「野口を、嵌めるぞ」

 これ以上言説を垂れ流されては大変だ。「まだ若いのだから、見逃してやったらどうだ」などと言っている場合ではなかった。


 野口もまた、酒をしこたま飲ませれば御しやすい男であった。懐にまとまった額の金子を入れ、後にそれが盗まれた金だと濡れ衣を着せた。 そうして、あっと言う間に切腹の運びとなった。

「近藤さん、俺はあの世で芹沢さんに会ったら、話したいことがたくさんあるんですよ」

 意味深な言葉を残して、野口は腹を切った。だが、とにかくも、これで本当に「芹沢派」が一掃された。

 そして、この「勝手に金策をすると切腹に追い込まれる」という前例は、のちに生まれる鉄の掟の土壌となったのである。


***

 

 さて、年が明けた。のんびり正月気分を味わう暇もなく、新選組は隊士総出で再び上洛した将軍家茂の警護の任務に出動した。

 山南も隊務に復帰し、隊列の中にその姿はあった。

 しかし――

「井上さん、申し訳ない」隊列の後ろの方で、山南はこそっと源三郎に声をかけた。

「何。気にしないでください。新八と斎藤にも含めてあります。あの二人は口も堅い」

「かたじけない……」

 副長の片割れとして殿しんがりを務めるから、と山南は自ら隊列の後方につくことを申し出ていた。数十人の隊士を挟み、最前列には勇、歳三、総司……と主要な幹部が配列されている。

 山南は、表向き隊務に復帰していたが、その実は昨年の怪我が原因で左腕が使い物にならなくなっていた。

 もともと剣術稽古の指導役は歳三や総司が主にやっていたから、素振りを一緒にやる程度でごまかすことができていた。素振りも、実際はほとんど右手で木刀を振り、左腕は見かけ上添えるだけ、というようなやり方だった。

 このことを知っていたのは、同室の源三郎と、新八と斎藤だけであった。特に、さくらに知られるわけにはいかないというのは四人の共通認識であった。知れば、さくらはきっと自分を責めてしまう。そして、勇と歳三にも。これも、余計な心配をかけたくないという思いからであった。新選組は今、大きくなろうとしている。その足枷になるわけにはいかない、と。

 だから今、こうして源三郎が山南にぴったり張り付いている。何かあった時は、代わりに戦えるように――


 結局、この出動の時には戦闘が発生することはなく、山南の腕のことは勇たちには悟られずに任務を終えることができた。

 山南はひとまず胸を撫でおろしたわけだが、いつまでもこうして誤魔化せるわけではなかった。


 最初に感づいたのは、もちろんこの男である。

「勝っちゃん、最近、なんかサンナンさん、変じゃねえか?」

 歳三が、ぽつりと勇にこんな一言を漏らした。部屋には二人きりしかいないというのに、内緒話でもするような調子の声だ。

「変、か。うーん、確かに言われてみれば。元気がないというか。風邪が長引いてるみたいだし」

「あの岩木升屋の一件以来だぜ。もしかして、腕がどうかしたんじゃねえのか」

「まさか。素振りの稽古には前と変わらず出ている……が……」

 勇は自分で言いながら、ハッと気づいた。

「素振りの稽古しか、出ていない……普段さくらや総司が試合稽古をつけてるからあまり気にしていなかったが……」

「だからよ、勝っちゃん、やっぱり俺はこれをやるべきだと思う」

 歳三は二人の間に置かれた紙を指さした。紙には、こう書かれていた。

一、士道に背くまじきこと

一、局を脱するを許さず

一、勝手に金策致すべからず

一、私の闘争を許さず

――右条々に相背き候者は切腹申し付くべく候也

 壬生浪士組を結成した比較的早い段階から、隊内にはこれらの規則はあったが、あくまで努力義務だった。

 歳三が提案しているのは、この四つの条項を破った者に対し「切腹を申し付ける」という罰則を付け加えようというものである。

 だが、あまりに厳しすぎると勇は一度この話を保留にしていた。紙に視線を落とすと、勇はふう、と息をついた。

「確かにな?芹沢さん亡き後、隊士も増えて、新選組は大きくなった。とは言えその実は出自も身分も様々。統一された規則のもとに、というのはわかる。わかるが……それが山南さんの怪我のことと何の関係があるんだ?」

「関係大ありだ。あの大坂の事件でわかったろ。あの人ですら、ああなる。新選組の隊務は命がけなんだ。そのことを、日々隊士の奴らにも意識させる」

「へぇ」

 勇が感心したように気の抜けた相槌を打つので、歳三は「なんだよ」と睨んだ。

「お前がそんなに山南さんのこと買ってたとはなぁ」

「別に、そんなんじゃねえよ……ただ、あの手のやつは他にいないだろ」

「あの手のやつ……?」

「幕府や会津のお偉いさんと論で渡り合えるやつってことだよ。近藤さん、あんただって、去年の会合はサンナンさんにいろいろ吹き込まれて臨んだんだろ」

 ”去年の会合”とは勇が新選組の代表として会津侯容保に呼ばれて、在京諸藩が集まる宴会に参加した時のことである。この時勇は、山南に相談しながら自分の話す内容をまとめて会合に参加したという経緯がある。新選組の頭脳として、山南の存在は不可欠であった。

「そういうことか。そうなんだよな。新選組は腕っぷし自慢ばっかりになりがちだ。だからほら、武田さんや谷さんたちを入隊させたところもあるし」

「あんな胡散臭そうな連中、信用できるかよ。あの谷ってやつなんか、弟二人引き連れて入ってきやがって、寺子屋じゃねえんだぞ」

「トシ、それは聞き捨てならないぞ。みんな腕は確かだったじゃないか。そうやって、仲間を『胡散臭い』だなんて言うのはどうなんだ」

「局長はそれでいい。皆のことを信用しろ。それでこそ、皆が局長を信頼し、ついて行く。だが、俺は違う。新選組の規律を乱すやつに目を光らせるのは俺の役目だ」

「トシ……お前……」

 歳三は、「法度」の書かれた紙に視線を落とした。

 歳三の中では、これは決まっていることだった。勇にこれ以上何か言われぬうちにと、歳三はダメ押しとばかりに訴えた。

「言っただろ。新選組は烏合の衆。鉄の掟が必要だ。先だって野口が腹を切ったことで、『規則を破れば詰め腹を切らされるんじゃねえか』っていう噂が流れている。その噂を本当にしてやるのさ」

 まだ若干納得していないような表情を浮かべる勇に、歳三は「それに、万が一にもだ」と続けた。

「サンナンさんに腕の怪我のことで『新選組をやめる』なんて言われたら、事だ」

 勇は、これを聞いてぷっと噴き出した。

「それが本音か。なぁんだ、そんな心配してたのか。大丈夫だろう。……それに本音といえば、これ」

 勇は可笑しそうな笑みを浮かべたまま四つ目の「私の闘争を許さず」を指した。

「要は、『さくらに手を出したらぶっ殺す』ってわけだ」勇がニヤリとして歳三を見た。

「そんなことどこにも書いてねえだろ」歳三は否定した。

「なんだかんだ言って、お前は仲間思いのいいやつだなあ」

「この流れでなんでそうなるんだよ。とにかく、だ」歳三はコホンと咳払いをした。

「”切腹”を脅し文句に、新選組をより強固な集団にする。どうだ、局長」

「うん。お前の主義主張はよくわかった。山南さんとさくらのためにもなるし。……可、だ」

 勇の笑顔に、歳三も満足気に微笑んだ。脳裏には、芹沢を葬ったあの夜の光景が浮かんでいた。


『壬生浪士組を、大きくする。日の本一の組にする。芹沢さんの死を、無駄にはさせぬ』


 あの時のさくらの言葉は、歳三の悲願でもあった。

 仲間のために、新選組のために。

 そうして産み出された『法度』は新選組を強く、大きくする。と同時に、それが「諸刃の剣」に変貌してしまうことを、この時はまだ誰も知る由がなかった。


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