第75話 春の河原の小さな巨匠
待ちわびた春の訪れである。
日曜日の昼下がり、風も無く陽も暖か、久しぶりに3人で(2人と1匹)サックスを持って河原へと来た。
黄色い菜の花が風に揺れて、遠くに蒼き山々が青い空と白い雲と共に新しい季節の中にある。
「アラッ?」
と、思わず声を上げる彼女。
いつもの私たちの特等席に先客が来ている。
河原のあの辺が一番座り心地が良いのであるが…
先客は5・6歳位の男の子で、クレヨンで画用紙に菜の花なんかを描いている。
老犬が”ワン”と吠える。
一瞬こちらを見上げる少年。
しかし、また、何事も無かった様に画用紙に春の色を塗っている…
手にそれぞれ握ったクレヨンの色を付け、小さな巨匠は一心不乱に春を描き続けている。
彼女は少年に近づき、
「上手だねえ」
と、話し掛ける
少年は手を休めず春の色で画用紙を埋めながら、
「今度、ママのお家に遊びに行くんだ。その時に見せてあげるの」
「ママのお家?」
「そう」
と、楽しそうに、強く頷く少年。
何かを察した彼女はそれ以上は聞かず、
「…そうか、ママ、喜んでくれるといいね」
「うん」
と、少年は力強く頷く。
私の隣に戻ってきた彼女は、私に、
「ママのお家に行った時に見せてあげるんだって」
「ママのお家?って、どういう事?」
「だから、ママのお家はママのお家で、あの子とのお家じゃない…ってことかな」
「…と、言うことは…」
「…今は…一緒に住んでいない…」
「…ふ~ん…そう言う事になるか…」
私たちは、少年から少し離れた所に座り、少年の邪魔にならないようにサックスを控えて、暖かい春の風を受けながら、揺れる草花たちを眺めていた…
暫くして、彼女がぽつりと、
「優しいママだろうな、きっと…」
と、老犬の頭を撫でながら言う。
そうだろうなあ…
あんなに、一心不乱に…
“ママ”に絵を渡す時のことを想像しながら…
その一瞬のためだけに描いているのかもしれない。
少年は黙々と描き続けている…
私は、ふと、彼女の母親を想った…
ちょうど、今の季節の…
春の空…
白い雲…
そんな感じの女性だった…
「あっ、つくしだ」
と、彼女。
よく見ると、辺り一面につくしがニョキニョキと。
彼女はつくしをひとつ採ると、老犬に、
「ほら、つくしだよ」
と、老犬の鼻先に採ったつくしを…
老犬はお付き合い程度にクンクン匂いを嗅ぐと、日向ぼっこを決め込んだのか、その場に、気持ち良さそうに寝そべる。
「もう。せっかくのつくしだぞ。卵とじにしたら美味しいだぞ」
と、言いながらつくし狩りを始める。
暫くすると、
「出来たッ」
と、少年の声。
少年の大満足な笑顔。
少年は描き上げた絵を大事そうに抱えると、私たちに軽く手を振りながら帰ろうとする。
彼女が、
「ちょっと待って!」
と、声を掛ける。
彼女は、自分が採ったつくしを小さなビニール袋に入れると、
「これもママに持って行ってあげたら? きっと、ママ喜ぶよ」
「わぁっ。こんなに?」
頷く彼女。
「お姉ちゃん、ありがとう」
少年はビニール袋を受け取ると、嬉しそう手を振りながら土手を駆け上がっていった。
少年が去った後、少年が座っていた所だけ、小さな小さな草の窪みが出来ていた…
かなり長い時間座っていたんだろう…
そんな感じの草の窪みだった。
ようやく、彼女はサックスを取り出し、吹き始めた。
今日彼女が奏でるサックスは心なしか優しく穏やかな音だった…
春の空と白い雲が、そんな彼女をいつまでも見守っていた…
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