第58話 ムーンライト セレナーデ

 昼間はまだ少し暖かいが、夜になると街はもうすっかり秋の気配。


 夜9時を回り店を閉めようとしていた時、”カラカラン”と店の扉が開く。

 ミス・モーニングが覗き込む様にこっちを見ている。


 私に、顔の表情で、“もう終わり?”と聞いている。

 私は首を横に振り、ミス・モーニングを招き入れる。

「マスター一人? みんな帰っちゃたんだ」

 ミス・モーニングが少し大き目の紙袋をカウンターに置き、

「これ、覚えてますか?」

 と、聞いてくる。

 正直私にはピンと来ていない。

 見覚えがあるような、無いような…

         

 その時、カウンターの奥にいた老犬がスーッと顔を上げる。

 老犬のその姿を見て、ミス・モーニングが、

「やっぱりキミは覚えてくれていたか!」

 私はまだ何にもピンと来ていない。

 ミス・モーニングが袋を開けると、フワッと甘い香りが広がった。

「ワン!」

 老犬はひと声吠えると、ちぎれんばかりにシッポを振っている。 

 「アッ、あれか‼」

 私もようやくピンと来た。

 これは、ミス・モーニングが初めてこの店に来た日、その晩持って来てくれたあのクッキーであった。


「本当はもう少し早く帰って来て、最後にみんなで食べようかなと思ったんだけど、遅くなっちゃって」

 と、残念そうに言う。

 “最後に?”

 私はその言葉がすごく気になった…

 気になりつつ、カウンターに座るミス・モーニングに“お冷”のグラスを…

 ミス・モーニングは、幾つか小分けにしたクッキーをカウンター越しに老犬に、

「大好物だったもんねえ、沢山食べてね」

 と、上げていた。

 大喜びでクッキーを食べている老犬。

 その様子を見ながら、幸せそうに微笑んでいるミス・モーニングであったが、やがて…カウンターに座り直し…グラスの水滴を手で拭いながら、私に、

「マスター、私、明日、この街を…」

「…そう…明日」

 頷くミス・モーニング。


 来るべき時がやって来てしまった。


 本当はこんな時、何か気の利いた言葉が出てくればいいのだが、いざとなると何も浮かんでこない。

 なんとも情けない話である。


 それから二人は暫く黙ってしまい…

 二人、サイホンが創るコーヒーを見つめていた…

 静かにフラスコに流れ落ちるコーヒーを…


 コーヒーカップに注がれるコーヒーから立ち上る湯気と香り…


 ミス・モーニングは、差し出されたコーヒーカップを両手で包み込む様に持ちながら、ひと口飲むと、

「マスター、色々ありがとうございました。私、これからどうなるか分かんないけど、兎に角私なりにやってみるね」

 私はなんとか作った強張った笑顔で、

「ウン。女は度胸だよ」

 と、言うのがやっとだった。

 ミス・モーニングは、コクリと小さく頷いてコーヒーを飲んだ。


 すると、老犬が不意に立ち上がった。

 老犬はク~ンと鳴くと、カウンターをくぐり、ミス・モーニングの方へ。

「まだ足りなかった?」

 と、老犬にクッキーをあげようとするが、老犬はクッキーには目もくれず、ミス・モーニングにすり寄ってゆく。

 そして、何度もク~ン、ク~ンと鳴くのである。

 老犬も老犬なりに、ミス・モーニングとの別れの察したようである。

 頭をミス・モーニングの足に幾度も押し付けてくる。

 ミス・モーニングも堪らずカウンターの椅子から降りて老犬を抱きしめる。

 老犬は甘えてた声を出しながらミス・モーニングの頬に落ちる涙を舐めてあげている…

 ミス・モーニングは更に強く老犬を抱きしめる…

 何だか分からないけど、私ももらい泣きしてしまっている…


 暫くして…


 ミス・モーニングを見送るために店の外に出てみると、月が出ていた。

 秋の夜の雲一つない空に月がぽっかり浮かんでいた…


「綺麗ねえ…」

「本当だね…」

「私、この月、一生懸命忘れないと思う…」

「…」

「マスター、美味しコーヒー、いつもありがとうございました!」

 そう言って、ミス・モーニングは明るく手を振りながら帰って行った。


 別れなんてこんなものなんだろう…


 明日は朝から引越センターが来て、バタバタで、とても店には顔を出せないということで…

 これがミス・モーニングとの別れの夜になってしまった…

 

 ミス・モーニングを見送った後、もう一度月を仰ぎ見た。 

 確かに綺麗な月である。


 秋の夜を照らすその月は満月や三日月ではなく、何となく覚えにくそうな形をしている…

 おそらく、上弦の月から満月になりかけなのであろう…

 と、思う…


 そう、上弦から満月へ。

 私はこの月が、ミス・モーニングがやがて幸せに満ち溢れてゆく様に…

 この月もこれから満ちて満月になってゆく…

 そんな月であって欲しいと思った…

 そんな月であって欲しいと勝手に思った…

 

 そんな私を月の光が優しく照らしている…


 ”ムーンライト セレナーデ”…


 セレナーデは少し大げさだけど、私はミス・モーニングの幸福を願わずにはいられなかった…

 

 店に入ると、老犬がミス・モーニングの残していったクッキーをバクバク食っていた。

 気持ちの切り替えは老犬の方が早いようだ…


 店の外で鳴く秋の虫たちの音が、私にはこの夜を惜しむかのように切なく聞こえていた…




 



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