第40話 春風の誘い
春が少し戸惑いがちにこの街に近づいて来ている。
朝はまだ少し寒さを残しているが、昼間はもう、春の風。
街を行く人の表情も穏やかである。
店の中には中学一年生の女の子が二人。
彼女と彼女のクラスの子のようだ。
大人にとってはどってこと無いこの季節だが、彼女たち学生にとっては、大きな節目の時なのだろう。
彼女の友達は喫茶店に入るなんて殆ど無いようで、ましてやこんな昭和感一杯のレトロな店には全く入ったことはないのだろう。
キョロキョロして、落ち着かないようである。
「よく来るの?」
「たまにね」
ちょっと先輩ぶっている彼女。
「なんだか、博物館みたい」
21世紀に生まれた世代にとっては、タイムマシンか時の停まったお化け屋敷にでも見えているのだろか。
私が差し出したメニューを見て、またびっくり。
先代からの分厚い見開き風のメニュー。
手書きのメニューに色褪せたポラロイド写真が貼ってある。
ファミレスの様な、ラミネート加工されたペラペラしたものではないのである。
彼女がメニューをテーブルに置き、
「何にする?」
迷っている同級生。
メニューを見てもあまりピンと来ていない様子。
彼女が気を利かせて、
「コーヒー好き?」
同級生は、苦そうな顔をして首を振る。
「コーヒー、苦いもんね。コーラとかオレンジジュースとかもあるけで、温かいのがいいよね…」
頷く友達。
「じゃ、ミルクココアにしようか」
「うん、それにする」
「それじゃ、ミルクココアふたつ、お願いします」
と、少し照れくさそうな、恥ずかしそうな顔をして私にメニューを返す彼女。
彼女が友達をこの店に連れて来るのは初めてではないだろうか?
私が注文のミルクココアふたつを持っていくと、
「ねえ、そうしなよ」
と、彼女の友達。
彼女は困ったような、迷っているような様子で、お冷の入ったグラスの水滴を指で落としている。
「春休み中に入っちゃって、先輩っぽくしてればいいだよ。新入生達にはさあ、分かんないんだから」
そこまでしか聞けなかった。
気にはなるが、お客様のプライバシーに首を突っ込む訳にはいかず、ミルクココアふたつをテーブルに置き戻った。
あの様子では、何やら部活に誘われいるような…
何部なのかは分からないが…
”いったい、何部なんだろうか?”
そんな私の心配をよそに…彼女達は、時には笑いながら雑談をし、時には真剣な表情で語り合いながら、春休みのほんのひと時を博物館の様なこの店で過ごしてくれた。
帰り際、彼女は私の目を見て、
「自分で決めなきゃね…」
「…何のこと?…」
それには、答えず、
「やっぱり、自分の事だもんね。自分で決めなきゃね」
と、私の不安を煽る様な発言だけを残して帰って行った。
彼女たちが帰った後、店も少し暇になって来たので、常連客にちょいと店を任せて老犬の散歩に。
昨日までの雨も上がり、澄み切った弥生の空に、ぽっかりと白い雲がひとつ浮かんでいる。
河原の近くまで来ると、老犬が私をグイグイ引っ張り、河原の土手を物凄い勢いで駆け下りていく。
すると、微かではあるが春風に乗ってサックスの音が…
彼女である。
彼女は、私たちを見て少し気まずそう顔をする。
出来れば、会いたくなかった様な…
「どうして? 店で吹けばいいのに」
「ちょっとね…」
本当に会いたくない心境だったのかもしれない。
彼女は、私に構わず、サックスを吹き始めた。
サックスの音の向こうで菜の花やつくしが優しい風に揺れている。
風に乗っている雲も、サックスの音を空の上から楽しんでいる様にゆっくりゆっくり流れている。
青い空と白い雲と黄色の菜の花…全てが彼女のサックスの音の中に溶け込んでいくような…
老犬は彼女の横で心地よさそうに目を閉じている。
ここ最近、不思議と、彼女のサックスに何か懐かしさを感じるのは何故だろうか?
そんなことをぼんやり考えている時であった。
彼女は途中で演奏を止め、
「ヨシ! 決めた!!」
と、言うと、サックスとケースにしまい、私に、すっごくいい笑顔で、
「誘ってくれた気持ち、大事にしなきゃね」
“いや、だから、それ、何のこと?”
と、聞く間もなく、彼女は河原の土手を駆け上がって行った。
呆気にとられ、取り残された私と老犬。
何が何だかよく分からないが、彼女が何か重大な決意をしたことだけは確かなようだ。
弥生の空にぽっかり浮かんだ雲ひとつ。
今が盛りと咲いている菜の花の脇で、つくしがひとつ、春の風に誘われて青空目指して伸びていた…
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