第18話 その日の午後 

 彼女が店を飛び出して数時間が経つ。

 

 戻って来るか来ないか分からないまま、取り敢えず店の扉の鍵は開けて、『本日定休日』の札をぶら下げていた。


 夏の陽がようやく西に傾きかけた頃…


 店の扉の方を見ると人影が。

 彼女かなと思ったが、違っていた。


 誰だろうと思って見ていると、一人の女性が、そっと扉を開けて、覗き込む様に中の様子を見ながら入って来た。


 なんだか、誰かの面影が…

 彼女の母親かなッと思ったが…


 いや、違う…そうだ! まさか… いや、でも… そうだ。 やっぱり、そうだ‼

 間違いない‼


 その女性は、私に軽く会釈をすると、私の目をしっかり見据えて、

「初めまして。姪がお世話になってます。私、あの子の叔母です」

(…と、いうことは…)

 戸惑っている私に、

「姉の結婚式で、お会いしたかったですね」

 と、少し、いたずらっぽく笑って見せた。

 その笑顔が、いきなりグサッと、私の心臓をえぐった。

 思わず後ろに倒れそうになった。


 『彼女の叔母』と言うことは、私の『片想いの女性の妹』ということ。


 まさか、この街に妹さんが住んでいたなんて…

 

 今更だけど、彼女が誰かに似ていると感じていた事は…

 …そういうことだったのか―

 彼女も妹さんも、確かに、私の片想いの女性の面影がある。


 なんとか、気を取り直して、私はカウンターに入り、

「どうぞ」

 と、彼女の叔母さんをカウンターに促した。


 不思議なもので、カウンターに入ると、少し気持ちが落ち着いた。

 

 沈黙の中―

 私が落とすコーヒーの香りと音だけが、張り詰めた空気の中、静かに広がっていく。


 彼女の叔母さんは、彼女が忘れていったサックスのケースを見つけて、

「今日は色々ご迷惑をお掛けしたようで」

「いえ、こちらこそ…」

「泣きながら帰って来て、初めは何事かと思ったけど、よくよく話を聞いたら、

もう、笑っちゃって」

「エッ? 」

 (笑って?)

「だって、まさか、貴方がこの街に居て、そして、あの子が貴方の事を父親と思い込んでたなんて」

 (笑うようなことかなと、思いつつ、)

「そうなんです。そこなんですよ。どうして、私を父親なんかに…」

「姉がいけないんですよ」

「エッ?」


 妹さんは、さっきのポラロイド写真を取り出すと、テーブルの上に置き、彼女から聞いた、事の顛末を話し始めた。

「あの子が小学3年生の頃に、姉のタンスの中にあったこの写真を見つけて、姉に、『この中に、私のお父さんいるの?』って、聞いて来たんだそうです。 その時、姉が『どの人だと思う?』って、聞き返したそうです。 そうしたら、あの子がサックスを持っている貴方を指差して、『この人でしょう!』と、言ったそうです。

 あの子は自分の父親がサックス奏者って事は知っていたから。 そしたら、姉がクスッと笑って、『そうだよ。よく分かったね』って、言ちゃったんだそうです」

「そ、そんな…」

「姉も冗談のつもりだったのかも…でも、あの子はそれを信じきっちゃって」

「そんなことって…」

 (私にとっては、迷惑なことである。)

 妹さんは、フフッと笑って、

「そもそも、マスターがいけないんですよ」

「エッ? なんで私が?」

「マスターなんでしょう? 姉たちの結婚式で、友人代表のスピーチ、すっぽかした人」

「…アッ」

「あれから大変だったんだから。新郎の友人代表が式をすっぽかして逃亡したって」

「と、逃亡‼」

 当たらずと言えども遠からずだが…

 (逃亡犯…)

「でも、もういいんですよ、そんなこと。全てはもう、終わったことだから」

 と、彼女の叔母である妹さんは、『その後』の事を私に話してくれた。

 私の友人との結婚が上手くいかなかったこと。

 2年弱で離婚してしまったこと。

 別れてから、妊娠が分かったこと。

 周囲の反対を押し切って、元・夫である友人には知らせず彼女を生んだこと。

 シングルマザーで、母娘2人、生きてきたこと。

 病気の発覚。

 闘病生活。

 そして、去年の秋、彼女を残して逝ってしまったこと。

「お姉さんは、本当に亡くなったんですか?」

「はい…」

「そうですか…」

 そして、妹さん夫婦で彼女を引き取るって決めて、この街に連れてきたこと。 


「とにかく、前の旦那さんは、もろ”少年”のままで、結婚生活より自分の夢って感じの人だったから、姉も結構苦労したみたい…」

「そうですか…」

「見た目は、お似合いのカップルだったけど…夢を追いかけ続ける少年の様な旦那さんに疲れちゃったみたい…」

 そうかも知れない。

 私の友人には、確かにそういう所があった。


「それで、結局、別れちゃって…あの子を産む、産まないでも、うちの両親とは揉めたしね…だから、ひとりで頑張っちゃって…無理しちゃって…病気になっちゃって…」

「…」

「私、姉には何もしてあげられなかったから…だから、せめて、あの子だけはって…引き取ることにしたんです。幸いウチには子供がいませんでしたから。夫も理解してくれて」

「そうでしたか…」

 私は静かに頷くことしか出来なかった。


 いつしか、夏の陽もすっかり西の空の雲の中へ、そして、辺りは黄昏色に。


 妹さんは、まだ、幾つか言い足りないようだったけれど、私に笑顔を作って、

「帰ります。勝手に色々話しちゃって、ごめんなさいね」

「いえ…」

 妹さんは、彼女のサックスのケースを指差して、

「これは、明日、学校の帰りに取りに来らせます。あの子の責任ですから」

「分かりました」

「それから…レッスンの事なんですけど…」

「あッ…(忘れてた…)」

「もう、来させないつもりです。こちらにご迷惑になりますから」

「別に、私なら構いませんよ」

「でも…」

「一度引き受けた責任があるし…もっとも、彼女がもう来たくないってことなら別ですけど」

「(クスッと笑う)」

「それに、もうすぐ彼女の方が、私よりも上手くなりそうだし」

「そんなこと…」

「いや、本当に。でも、一応音楽では先輩だから、技術は駄目でも、音の良し悪しぐらいならアドバイス出来るから」

「…」

「じゃ、今度来た時に彼女に聞いてみますよ」

「分かりました」


夏の夕焼けがこの街を染める頃、彼女の叔母さんである妹さんは、帰っていった。


私は、今日の夕焼けのこの輝きを忘れることは無いだろう。


ほんのさっきまで生きていると思っていた人が、実はもう死んでいて、この世に居ないと知らされた。

この事実をどう整理していいのか私には分からない。


今まで『居る』と思っていた存在が、もう『居ない』と分かった時の喪失感。


妹さんがいたので、平静を装っていたが、

店の扉を閉めた途端に、勝手に溢れ出て来る涙を止めることが出来なかった。


私はカウンターに座り、泣いた…

寂しいという思いが、涙と共に絶え間なく、絶え間なく溢れ出てきた…


やけに美しい夏の夕日が、黄昏てゆく街を茜色に染めていた。







 


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