第17話 再びのレッスンで

 日曜日の朝。

 けたたましいセミの声で目が覚めた。

 梅雨明けである。

 ついに本格的な夏がやって来た。


 そして彼女もやって来た。

 サックスのケース片手にやって来た。


 まずは、朝の一杯目のコーヒーから。

 彼女も少しはブラックコーヒーに慣れてきたような…

 でも、やっぱりちょっぴり苦い顔。


 少し大人の雰囲気を味わってからレッスン開始。

 ドレミファソラシドの運指の練習からロングトーンの練習。

 正直なところ、彼女の上達は速い。


 毎日練習が出来る中学一年生と、仕事に追われ?週に2・3回しか練習しない中年のオジサンとでは上達の度合いが違う。


 ロングトーンの練習などを一通り済ますと、彼女の方から、

「覚えたい曲があるんです」


 彼女がカバンから取り出したのは、ジブリ映画の音楽集であった。

「これ、この曲」

 と、ある譜面を出してきた。

 それは、映画【風立ちぬ】の「ひこうき雲」の譜面。

「この曲、吹けるようになりたいんです」

「ああ、これ…ユーミン、松任谷由実の」

「いえ、荒井由実です」

「ああ、そう(そこ…こだわりますか)」

 私が譜面を手に取って見ていると、

「吹いてみてください」

「エッ!!」

「お願いします!」

 なんという、むちゃぶり。

 が、譜面を見ると、そう難しそうになかった。

 これならいけるかなと思ったので、初見で吹いてみることに。


 わりと繰り返しが多いので、これならいけるかなと思ったら、サビのパートで思わぬ落とし穴が。

 高い(レ)と高い(ファ)の音が入っている。

 高い(レ)からはサイドキーを使うので、まだ私は練習していない。

 当然、音は出ない。

 なんとなく気まずい空気が二人の間に…


 私は正直に、

「ここは、なかなか難しいね」

 と、言うと、

 彼女は、納得がいかないのか、少し怒ったような口調で、

「どうして?…どうして、わざと吹けないフリするんですか?」

「わざと?」

「この間だって…どうして、そんな意地悪…」

 この間というのは、恐らく、私が吹いた“イエスタデイワンスモア”の事を言っているのだろうが…


「意地悪じゃないよ。これが私の実力なのだ」

 と、ちょっとふざけてみせた。

 が、この行為は彼女の真剣さには、全く受け入れなれなかった。

 私も真顔になり、

「だから、私も最近始めたばかりで。そんなに上手くは吹けないよ」


「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき!!」

 私は、他人からこんなに嘘つきを連呼されたのは、生涯で初めてだった。

 しばらく、彼女との睨み合いが続いた。

 彼女の目に涙が溢れてくるのが分かった。

 でも、彼女は泣かない。

 目に涙を一杯溜めて、私を睨んでいた。

 その目は、怒りというより何かを欲している様な、それとも何かに絶望した様な…


「私、初めてこの街に来た時、駅でマスターを見かけたんです。その時、私、運命かなって」

「運命?」

 彼女は、持ってきていたバックから、なにやら古い写真を取り出し、私に見せた。

 それは、昔懐かしのポラロイド・カメラで撮られた一枚の写真。

 初め、何の写真か分からなかったけれども…

「…アッ!」

 私は、自分の目を疑った。


 それは、私と私の友人と、そして、後に友人と結婚することになる私の片想いの女性とのスリーショットのスナップ写真であった。

 私の頭の中で、まるでポラロイド写真の現像が浮かび上がってくる様に過去の記憶が蘇ってきた。


それは、学生の頃、文化祭の時に部室で、文化祭の実行委員会の人が撮ってくれたものだった。


「どうして、こんなものを?」

 彼女は、その問いには答えず、

「これ、マスターですよね」

 と、写真の中の私を指差した。


 紛れもなくそれは、私だった。


 そこには、友人のサックスを持って吹く真似をしている若き日の私がいた。

 彼女は、か細い声で、

「…やっぱり…」


 しかしなぜ、彼女がこんな写真を?


 今の私の頭の中はごちゃごちゃ。

 もう、なにがなんだか分からない状態の中、彼女だけが、話を進めてゆく。

「私、この人の娘です」 

  と、今度は、私の片想いの女性を指差した。

  益々、訳が分からない。

  彼女は、写真の中の女性と私を指さしながら、

「この人が私のお母さんで、この人が私のお父さんなんです‼」

「エッ!! そんなバカなッ!」

「母から聞きました。母は貴方と離婚してから私を生んだんだって」

「離婚してから?」

「そうです。そして、この人が私のお父さんなんだって」

 と、再び、写真の中の私を指差した。

 そんなアホな!

 そんな筈は無い。

 それは、私が一番知っている。

「間違えじゃない。 母さん言ってたモン。この人が私の父さんだって、教えてくれたんだモンッ」

「それは絶対に間違いだ。お母さんにもう一度よく聞いてみなさい」

「…もう聞けません」

 彼女のトーンが、下がった。

「聞けませんって、どうして? 今日でも、帰ったらもう一度」

「…もう帰って来ないモン」

「来ないって、どう言うこと?」

 と、私もつい、ムキになってしまった。

 彼女は、私の目を見据え、呟く様に、

「…あのね、…母さん死んじゃっただよ…」

「えッ?」

 彼女の目から涙が溢れてくる。

 必死に止めようとしているが、次から次へと涙が溢れ出てくる。


 彼女は店を飛び出した。

 私も彼女を止めようと追いかけようとしたが、全速力で駆け出す中学一年生の子に追いつくはずもない。

 ただ、見送るしかなかった。

 扉を開けたまま、店先にたたずむ私。

 けたたましく鳴くセミの声。


 店の中には―

 置き去りになった彼女の譜面とサックス。

 …コーヒーの残り香が戸惑うように揺れていた。






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