第16話 初めての日曜日

 日曜日にこんな早起きしたのは久しぶりである。

 正確には起きたというより、起こされてしまったという方が本当のところで、今日の老犬はいつもと違う。

 まるで私と彼女との約束を分かっているかのようで、ソワソワして、落ち着きがない。

 仕方がないので、取り敢えず老犬の気を静めるために散歩に出た。


 外は霧雨である。

 やれやれと思いながら、傘を開き、静かな日曜日の朝の商店街に。

 音もなく降る霧雨。

 街の静けさが増す。

 

 やはり、老犬は何か予感でもしているのだろうか、普段は私の後をトボトボと歩いているが、今日はせっせと私の前を歩いてゆく。

 

 少しひんやりした風が吹いている。


 店に戻ると、すでに彼女が扉の前に立っていた。

 サックスの入ったケースを抱えて。

 彼女が、少し申し訳なさそうに、

「すみません、やっぱり少し早過ぎましたよね」

「時間の指定まではしていなかったからね」

 と、彼女に少し微笑んで見せた。

 彼女も少し安心したように微笑んでくれた。


 別に私はロリコンでは無い。

 しかし、彼女の笑顔は私の心のどこか深いところをキュッと掴み、幼い頃に感じていた不思議な想いを感じさせてくれる。


 ここ数年感じたことのなかった、私の固くなってしまっていた心の一部に、ほど良いミストを吹きかけてくれたような…


 私は彼女を店に入れると、コーヒーを入れることに。

 彼女は手前のテーブルで、早速、サックスを組み立てている。


 コーヒーが出来上がると、私は彼女をカウンターに呼び、サイフォンで落としたコーヒーを彼女の目の前のカップに注ぎ込む。

 コーヒーの柔らかな香りが立ち込めてくる。

 彼女は目を閉じて静かに、深く、その香りを吸い込む。

「いい香り…」

 

 そう言えば、朝の一杯目のコーヒーを他の人飲むのは久しぶりである。

 最後に朝の一杯目のコーヒーをシェアしたのは、私の友人とだった。

 私の友人はこのコーヒーを飲んだ日に、置手紙と、私が今使わせてもらっているサックスを残して、一人南米へと旅立って行った。

 もう、十年近く前の話である。


 と、彼女を見ると、もの凄く苦そうな顔をしていた。

「あッ、ごめん。砂糖とミルク」

「いえ、大丈夫です」

 と、全然大丈夫じゃなさそうにしている。

 ひとまず、“お冷”を出すとそれを一口。

 それでも彼女は、砂糖もミルクも入れずブラックのままコーヒーを飲もうとしている。


 ちょっぴりほろ苦いブラックコーヒーは、大人になりたがっている少女とまだ大人になり切れない少女のボーダードリンク。 

 

 外は相変わらず霧雨。


 コーヒーを飲み終わると早速サックスのレッスンに。


 彼女は手際よくセッティングを済ませる。

 感心して見ている私に

「ネットで…」

 と、少し照れくさそうに言う。

 なんだ、それじゃあ私と一緒だと思いつつ、私は知った風な口調で、

「じゃ、まずは吹いてみようか」

  と、言ってみる。

 颯爽とサックスを構える彼女であるが、中学1年生の彼女には、アルトサックスがテナーサックスの様に大きく見える。

 マウスパッドが無かったので私の余っていたのを付けてあげた。


 サックスはマウスピースに付けているリードを震わせることによって音を出す。

 なので、アンブシュア(リードをくわえた口の方)が重要になる。

 上顎の前歯は立てて、下唇は少し丸めてマウスピースを浅く噛むように銜える。

 私もこれには苦労している。


 まず初めに真ん中の(ド)から吹いてもらう。

 なかなか音が出ない。

 もう少ししっかりと下唇をかむように言うと音が出た。

 たどたどしいが音が出た。


 ほっとした様な彼女。

 続いて(シ)、(ラ)、(ソ)。

 なんとか出る。 


 サックスの運指は、ほぼリコーダと同じなのでそんなに難しくない。


 もう一度(ド)戻って、今度は出来るだけ長く吹いてもらう。

 ロングトーンの練習。

 メトロノーム、テンポ”80”で8回。

 

 割かしいい音が出る。

 細かい点は兎も角いい音だ。


 真ん中の(ド)から低く(ド)まで。

 マウスピースをあまり銜えこまない様に注意しながら吹いてもらう。

 しかし、低い音になるにつれて、肺活量が無いのか音が出なくなる。


 ここらで、小休止。

 今度はレモンティーを入れてあげた。


 再びレッスン開始。


 彼女の場合、高い音の方が少し楽に出せるようなので、今度は、真ん中の(ド)から高い(ド)を吹いてもらった。

 オクターブキーを押しながらの(レ)は、かなり初心者には難しいが、2,3回やると器用にこなした。

 なかなか呑み込みが早い。

「ひょっとして、リコーダーとか、得意だった?」

 と、聞くと、

「はい、音楽は好きでした」

 なるほど。

 まぁ、そうだよな。

 そうじゃなきゃ、サックスやろうなんて思わないだろうし…

 それにしても呑み込みの早いのには驚く。

 基本的な指の動きはリコーダと同じ、ただオクターブキーを押すか押さないかの違いである。


 何度か休憩をはさみながら、ロングトーンの練習を続けていたが、またまたアンブシュアが甘くなってきた。

 吹きたくても唇がついて来れない。

 ぷるぷる震えて音が漏れ始める。


 彼女は、まだまだ初心者。

 そんなにすぐにうまく吹けるはずもない。

 ここは、そんなに焦らず、取り敢えず今日はここまでという事に。


 最後に彼女が、

「ねえ、マスター何か吹いてください」

 と、突拍子もないリクエスト。

 仕方なく“イエスタデイワンスモア”を吹いてみせる。

 私なりには上手く吹けたつもりだが、彼女は少し納得がいってないようだった。


 再来週の日曜日にまた、レッスンする約束をして彼女は店を出た。

 ちょうど雨も上がり、今なら濡れずに帰れそうである。


 彼女を見送りながら、ふと、疑問に思ったことがある。


 どうして彼女は、私から教わることにこだわるのか?

 結局、彼女はまだその答えを私に教えてくれていない。


 それから、彼女は、私が凄いサックス奏者だと思い込んでいるのかもしれない。

別に今までそんなこと、こっちから言った覚えは無いのだが…


 まあ、それはともかく、ひとつの責任は果たした。

 私は、そんな気分だった。


 店の中に戻ると、うんッと、大きく背伸びをした。


 そして、まだサイホンの中に残っているコーヒーをカップに注ぎ、そのカップを持って窓際のテーブル席へ。

 

 店の中から見上げた空は、少し明るく、歩道の花壇に植えてあるアジサイは霧雨を浴びてキラキラ輝いていた。














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