第13話 無理な注文

 梅雨真っ最中。

 ここ2・3日はずっと雨。

 しばらくお日様も顔を出さない。

 色を失ったモノクロの世界の中で、店先のアジサイだけが色鮮やかに咲いている。


 数日前とは打って変わって少し肌寒くもある。

 店の中にもコーヒーの香りに温かさを求めてくる客もちらほら。

 店の扉が開く前に、カウンターの奥で寝そべっている老犬がむくッと顔を上げる。

 それに気付き、私が扉の方に目をやると、彼女が入って来た。

 彼女はカウンターに腰掛けると、カウンターの奥の老犬に

「お久しぶり」

 と、声を掛ける。

 老犬は彼女を見つめ、幸せそうに尻尾を振って応える。

「レモンティーください」

 と、言う彼女。

 私は少し戸惑い、そして、苦笑した。

 そんな私に気付いた彼女は、

「可笑しいですか?」

 と、少しむくれた様な顔をした。

「…いいえ。今日はメニューの中にあるものを注文してくれたんで…」

 私がそう言うと、彼女はいつもの笑顔に戻り、何故か凄く“ホッとした”表情をした。

 レモンの甘酸っぱい香りが、スライスした途端にポアッと広がる。


 彼女は、彼女の前に出されたレモンティーをしばらくジッと見つめていた。

 スライスされたレモンを、静かに注いだレモンティーの上に乗せて、ゆっくりとスプーンでかき混ぜる。


 私は帰ろうとするお客に対応して、レジに立ち、去ったお客のテーブルを片付けて、カウンターに戻ってくる。

 彼女まだ、ゆっくりとスプーンを動かして、ゆっくり回るレモンを見つめている。

 何かをレモンに問いかけているかのように…

 そして、意を決したかのように私を見つめて、

「あのッ! サックス、教えてくれませんか? 私、吹けるようになりたいんですッ!」

 グラスを拭く手を止め、彼女を見つける私。

 彼女は立ち上がり、

「お願いしますッ!」

 と、カウンターから身を乗り出してくる。

 危うくグラスを落としそうになる私。

 またしても、彼女からの無理な注文である。

 メニューにも無ければ、全く想定外の彼女の注文である。


 戸惑っている私をしり目に、老犬は面白そうに尻尾を振っている。


 店の外は、まだ雨が降り続いている。

 雨が打ち付ける曇りガラスの中に、彼女の真剣な想いに戸惑っている私の姿が映っている。


 店先のアジサイの花が雨に打たれながらキラキラ輝いていた。





 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る