5-28 新しい生命

 二月二十八日。

 芳香が出産した。

 優喜と芳香の間に赤ちゃんが産まれたのだ。

 皇帝夫妻にご子息が誕生なされたのだ!


 大事なことだから三度繰り返しました。



 朝から陣痛を訴え、皇后の部屋は急に慌しくなっていた。

 最年長の側仕えは、何人もの子供を取り上げたとかで、産婆としての経験もあるらしく、他の側仕えたちにあれやこれやと指示を出して出産の準備を整える。


「剣を……」

「何か仰いましたか?」

「剣を取ってちょうだい。」

 陣痛に苦しむ妊婦の要求することじゃあない。

「何をなさるんですか……?」

 モゾエユテミは芳香の意図を理解できないようで、訝しげに訊く。


「握っていたいの。一番落ち着くから。」

 どんだけ剣が好きなのか。

 幼い頃から剣を極めんと邁進してきたとは言え、程があるだろう。

 妊娠が判明しても、悪阻中でも、臨月になっても、毎日剣を振り続けるのは並大抵の根性ではない。

 優喜や側仕えたちがいくら言っても聞かなかったのだ。

 特別な用事が無い限り、剣の訓練は欠かさず毎日の日課としている。


 諦めた表情でモゾエユテミは芳香の愛剣を持ってきた。

 芳香は剣の柄を握り締めると、大きく息をする。

 剣を握っていると、本当に落ち着くようで、乱れた呼吸も静かに整ってくる。


 九時を過ぎた頃、陣痛の間隔が短くなり、本格的にお産が始まる。

 やたら早い?

 側仕えに言ったのは朝だが、それ以前から、夜半から陣痛は始まっているというだけのことだ。

「あいたたた。何か変なモノ食べたっけ? って、ああ、これが陣痛だ。」

 夜中に呟き、また寝るというデタラメなことをしていただけだ。


 芳香は、いや、優喜もだが、矢鱈と痛みへの耐性が高い。と言うか、体の痛みを平然と無視できる。

 これは、人として、生物として獲得してはいけない能力だ。


 そして、芳香の様子が気になって仕事が手に付かない優喜が、部屋に顔を出した。

「どうですか? 芳香。」

「うん、もうちょっとで産まれそう。」

「頑張ってくださいよ。」

 優喜は、芳香の大きなお腹を軽く撫でながら言う。


「あったかい。」

 優喜の魔力に包まれて、芳香は嬉しそうに言う。

 そして。

「ぐああああああ!」

 優喜の悲鳴が響き渡った。

 急に強くなった陣痛に、思わす芳香が優喜の手を握り潰したのだ。

 芳香の握力は女子としては驚異的で、五十キロを超えている。

 不意打ちでフルパワーを食らった優喜の指は折れ、ありえない方向を向いていた。


「ひ、ひ、酷いです、芳香さん……」

 優喜は珍しく涙目で訴える。

 だが、すでに芳香は出産に意識を集中している。

 優喜はレベル五の治療魔法を詠唱し、へし折れた指の治療を始める。


 優喜の怪我とは裏腹に、お産は驚くほどスムーズで、指の治療が終わる前に赤ん坊が取り上げられていた。

 珠のように輝く男児である。


 いや、輝くというより、光っている。何だこの怪現象は。

 だが、産婆をはじめ、側仕えたちはそれほど驚いている様子はない。

 清潔な布で赤ん坊の体を拭いていくと、光は徐々に薄れていく。

 着物を着せられ、さらにタオルで包まれる頃には、光はすっかり消えていた。


 ふぎゃあ、ふぎゃあと泣く赤ん坊。

 よよよと泣く優喜。


「何で泣いてんのよ。」

 半ば呆れるように芳香が言う。

「こんな手では赤ちゃんを抱けないじゃないですか!」

「手? どしたの?」

 芳香は自分がしたことに気づいていないようだ。


「芳香が握り潰したんじゃないですか!」

「ええ? 私? そんなことしないよ?」

 悪意がないどころか、完全に無意識下でのことのようで、芳香は何のことか分からず首を傾げる。

 そして、そんな芳香を責めることもできず、優喜はいじけているのだった。


「ともあれ、出産ご苦労様でした。」

「うん。疲れたよ。って言うか、お腹すいた!」

 芳香が伸びをしながら言う。

「あ、そう言えば今日、朝御飯食べてないんだ。今日のお昼ご飯は何だろうな~。」

 出産直後だというのに、芳香はやたら元気である。


「もうお昼時ですからね。千鶴にも言ってきましょう。出産祝いを作ると張り切っていましたからね。」

「あはは。豪華にお願いしまーっす。あ、私、パスタ食べたい。ベーコンたっぷりのカルボナーラ。」

 芳香はリクエストを頼み、お昼までの眠りに就いた。



 優喜も芳香も赤ちゃんにデレデレである。

 優喜なんて、母乳を飲んでいる赤ちゃんに「べろべろばあ、べろべろばあ」と延々とやっている。

 芳香に「邪魔!」と睨まれ、すごすごと引き下がったと思ったら、またジリジリと寄ってきて赤ちゃんに声をかけ始める。

 ででも、べろべろばあって、赤ちゃんが喜ぶのは三ヶ月くらいになっててからだぞ。


「優喜ィィィィ! 仕事しろォォォッッ!!」

 優喜が赤ん坊と戯れていると、めぐみが怒鳴り込んで来た。

 首根っこを掴まれて引き摺られるように執務室へと連行される。


「めぐみは鬼です。人の心の無い悪魔です。」

「それ、優喜様だけには言われたくないんだけど。」

 めぐみは不愉快そうだ。

「グダグダ言っていないで、さっさと進めてほしいんですけど。」

 楓もなかなかに辛辣である。


「仕方が無いですねえ。では、ペースを上げていきますよ。」

 優喜は、急に仕事モードに切り替わる。

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