Under Ground:意訳――此処は地の果て、地獄の門





 地獄だ、地獄だ――此処は地獄だ。きっとそうに違いない。



「いやだ、いやだ――!」



 悲鳴を上げる喉を締め上げられる。黒い影に覆われた腕だった。五指にはびっしりと獣毛が生え、黒いそれは容赦なく自分の喉を締め上げる。


 もがいても息が出来ない――血が頭に通わない。


 極大の苦しさの中で息絶える。けれど、たかだか窒息死。内臓を破壊されたわけでもなく、頭を割られたわけでもない。意識は一瞬で戻って来る。そしてすぐさまこう聞かれる。


「狛乃――生きてる?」


 涙に濡れた目を開けば、目の前には猫がいる。黒い猫。異形の頭。人間の頭を黒い猫の化物とげ替えた、正真正銘の怪物がそこにいる。


 猫は自分の目を覗き込んで、そこに〝狛乃〟を見つけてこう言うのだ。


「まだ生きてる? そっか、じゃあもう一度」


 再び黒い腕が伸びてくる。ひっそりと喉を掴まれて、ゆっくりと締め上げられる間に悲鳴を上げる。助けを求める声を上げる。ずっと、ずっと、延々と。


「やだ、やだよっ……おかあさん! ガオーマ――ッ」


 冷たい五指が喉を締める。悲鳴は途切れ、再び死ぬ。恐怖と痛みにのたうちながら、怪物の声を聞く。


「狛乃――生きてる?」


 絶望の淵で涙する。死して、死を知る前に引き戻される。その度に目の前にある怪物を、もう見たくないと魂が悲鳴を上げている。地獄の門の瀬戸際で、何度でも、自分は怪物の前に引き戻される。


 目なんか見えなければいいんだ。見たくない、見たくないッ。


 そう思えば、目の前は真っ暗になった。何度も何度も自分の目を覗き込む怪物の顔はもう見えない。けれど、手は止まらない。


 おかあさん――と叫ぼうとして思い出す。お母さんは、もういないんだ。こいつがどこかに連れてったから。皆は魔女のせいだと言ったけれど、自分だけは知っている。こいつだ――こいつが、お母さんを連れてった。


「お、まえが――ッ! おかあさんを……!」


「狛乃――まだ生きてるの? じゃあもう一度」


「かふっ……」


 呆気なく――憎悪の声をへし折られる。喉を潰され、自分は死ぬ。飛んだ意識で、地獄の門を見た気がする。朱塗りの大門――その前で、自分はただ立ち尽くす。迷子のように左右を見回し、そしてすぐに舞い戻る。


「狛乃――生きてる?」


 声に――恐怖した。震える喉で助けを求める。


 おとうさん――と叫ぼうとして思い出す。お父さんも、もういないんだ。ついさっき、こいつがお父さんを殺したんだ。自分の隣で床に倒れ伏しているはずの父を探して、再び視力が舞い戻る。


「――……おとうさんっ」


 いた。父は倒れている。動かない。動いてくれない。怪物に心臓を潰されて、父は死んでいるのだ。

 でも、きっと助けてくれる。父は魔術師だった。ならば、きっと自分のためにそのまま壊死を選んだりはしない。そう信じて、自分はぎゅっと目をつぶる。


「しぶといね。じゃあもう一度」


 声と共に、再び喉を締め上げられる。締め上げられて――か細い声と共に死ぬ。たすけて、と。声にならないかすれ声を響かせて。


「おと……さ……」


 そうして自分は息絶える。意識は、朱塗りの門の前に。自分は地獄の門だと思った。けれど、此処には誰もいない。ならば――ならばこれから引き戻される、この世こそ地獄なのではなかろうか?


 意識は地獄に戻される。小さな予感が後ろ髪を引くように残っていた。きっと、あそこに残りたいと自分が思えば、願えば――もう地獄になんて帰らなくてもいいような、そんな気がして……。


 けれど、あそこにはいられない。きっと父が助けてくれるのだ。父が起き上がった時に、自分がいなければ悲しむだろう。


 ……ああ……怪物の声がする。


「狛乃――生きてるの?」


「ひゅ……ぁ、……っ」


 すでに、自分が知る限りの名前は言い尽していた。もはや、助けを求める名すら思い浮かばない。けれど、呼ばなければ。何かを叫ばなければ。何もかも耐えられなくなってしまう。


 縋るように見ても父は動かない。ガオーマンも来ない。トルカナ様も来ない。叔父さんも、誰も来ない。


 ――追い詰められて、小さく脳裏に浮かぶのは、柑子こうじ色の優しい目。優しくされた思い出に縋りつき、名前も知らない少年に助けを乞う。


「お、にぃちゃ……」


「しぶといね。じゃあもう一度」


 怪物は、腕を伸ばす。


「たすけてぇ……っ」


 悲鳴を上げて頭を丸め、両腕で喉をかばった。


 瞬間、視界の端で父が拳を床に叩きつけ、跳ねるように起き上がる。灰の目には決死の覚悟。血に濡れた唇が、重たく低い声を上げていた。



「――〈〉」



 父は、迷わなかった。



「〈我が身の全てを〉――ッ!」



 文字通り、父は魂さえも〈代償〉に。異形の怪物をどこかへやった。そのまま父は倒れ伏し、泣いて縋りつく自分に微笑みながら目を閉じた。


 母と同じようにさらさらと――何か、光になって消えて行く父に縋りつく自分を、気が付けば1人の女と男が見下ろしていた。


 泣き晴らした目で見上げれば、女は溜息と共に自分をそっと抱き上げる。柔らかく、柑橘かんきつのような香りと共に、淡い緑のカーディガンが揺れていた。金色の髪が、一房落ちる。


 何かを咎めるように、連れの男が「……ジンリー」と呟く。ジンリーと呼ばれた女は、吐息のような声でこう返した。


「……目の前で親を失くしたばかりの子に、手を振り上げるほど狭量きょうりょうではないつもりです。それとも、頬を打って、嘲笑えとでも?」


「そうじゃないですよ。ただね、意外だったんで……あーあ、また何がやらかしたんだかわかりませんよ。数千年かけて尻尾も掴めないんじゃ、諦めた方がいーんじゃないですかぁ?」


 軽薄な声に、ジンリーは濃い桃色とも、淡い紫ともつかない色の瞳を伏せた。男の台詞を黙殺し、ジンリーは柔らかく自分の背を叩いている。


「……とても嫌ですが、ソロモン王に連絡を」


「んん、いいんですか? そのガキに嫌がらせしないで。今ならいくらでも出来ると思うんですけどねぇ」


 男が言えば、ジンリーは冷たい眼差して男を見て、それから訳の分からないまましゃくり上げる自分を見た。溜息と共にそっと自分を抱えなおし、ジンリーは固く強張った声で言う。


「それは嫌がらせではなく、虐めです……泣き伏す者を、叩いてはいけません。失くした者を、あざけってはいけません。弱き者に――手を出してはいけません」


「へぇ、魔女様の考えることはむつかしーね。じゃ、俺はお先に」


 言って、男の姿がかき消えた。後にはぼろぼろと涙をこぼしながらしゃくり上げる自分と、自分を抱き上げたジンリーだけが残る。


 しゃくりあげ、泣き続ける自分は誰かも知らない相手に縋りつく。ジンリーという名前に聞き覚えは無く、けれど敵ではありませんようにと願いながら。



「なんで、こんな――ひど、ひどいこと――っ」



 どうして自分が、こんな酷いことをされるのかと。



 ――そしたら、女はこう言ったのだ。



「弱いからよ――」



 溜息まじりの声だった。疲れたような、虚しいような。あやすように自分を抱き、揺らしながらジンリーは言う。



「……あなたが弱いから、幸せは取り上げられたの」



 女は自身にも言い聞かせるようにそう言って、それから自分を抱き上げたまま、真正面から自分と目を合わせた。濃い桃色とも、淡い紫ともつかない瞳が自分を見つめ、ジンリーははっきりと自分に言い渡す。


「さて――虐めるつもりはありませんが、私はあなたが嫌いです。それに、あなたは弱き者ではない。あなたが立ち直った頃に効果があるように、呪いくらいはかけていきます。いいですか、それが道理というものです」


「……ひっく……どうり……?」


「私はあなたの味方では無いということです。悔しければ、強くなりなさい」


 ジンリーはそう言って、涙の止まらない自分に向かって囁いた。



「――この子から、誰もが遠ざかりますように」



 一言目は、無償の愛を唱える親のように。



「――この子にとって最悪の日に、この子の『――』が失われますように」



 二言目は、無垢な子供の願いのように。



「――この子の幸せが、何もかも、すべからく取り上げられてしまいますように」



 ついの言葉は、慈愛を持った聖者のように。



 言い終えて、満足そうにジンリーは頷いた。


「不幸であれ、とは言いません。けれどソロモンの血筋が幸せそうなのは腹が立つので、これくらいがちょうどいいでしょう」


「……おかあさんと、おとうさんにあいたい」


 涙声でそう言えば、ジンリーはムッとしたようだった。彼らは死者ですらない囚われ人ですから、いつ会えるかなんてわかりません、と。ぴしゃりと言われて、自分は派手に泣きわめいた。


 その後のことは、覚えていない。泣き疲れて眠ってしまったのか、気が付いたらそばにじいちゃんがいて、いて、そして――。



「何があった?」と、そう聞かれ――、


















 この世の地獄を思い出した。
























Under Ground:意訳――此処は地の果て、地獄の門


























 その日、〝塩の街、ダッカス〟には冷たい風が吹いていた。


 塩田に寄り添う街には、プレイヤーの影は多くも無いが、少なくも無い。此処、【Under Ground Online】にて移動は旅と同じこと。それゆえにプレイヤーは必ずどこかの街を拠点に活動し、移動する時は一日がかりできっちり計画を立てて移動するものだった。


 今日もまた、〝塩の街、ダッカス〟から出ていく者、訪れる者たちがいる。彼らはちょうど、ダッカスを訪れる者達だった。

 謳害によって灰に塗れた草原を歩き続けて、交代でログアウトをしながら彼らはダッカスまでやって来ていた。


 ゲーム内とは思えない足の重みと色濃い疲労を感じながら、彼らはようやくダッカスに到着したと喜んだ。一面、耐湿、耐塩のレンガ造りの家々が立ち並ぶ、海辺の街。

 美しい模様をつけられたレンガ敷きの大通りに踏み込んで、彼らは不意の違和感に立ち止る。


「……?」


 あれだけ明るく感じた月明かりが、突如遮られたような気がして顔を上げたのだ。自身の足元で、長く伸びていたはずの影が消えたから。


 そして彼らは次の瞬間、幾人かを残して呆気なく死に戻る。


 彼らが立っていたはずの場所には、巨大な前足が振り下ろされていた。漆黒の毛皮に包まれた、熊にも似た前足だ。生き残った数人が呆然と顔を上げれば、そこには巨大な獣の頭があった。


 四肢を突っ張り、体長を上回る長大な尾を振り上げて、獣は半ば地に伏せるような姿勢でそこにいた。全長は数十メートルはあるだろうか。竜にも勝る巨躯を引きずり、獣は緩慢な動作で巨大な牙を噛み鳴らした。


 突き出た立ち耳は伏せられていて、頭蓋の左右にそびえるのは螺旋の大角。艶のあるそれは幻月に照り光り、巨角きょかくの影には深紅に輝く瞳があった。


 喉から零れ落ちるのは轟音。それが唸り声だと気が付いたのは、踏み潰された仲間の隣で立ち尽くしていた生き残り達だけだった。


 赤い瞳には狂乱の色。正気とは思えない深紅の瞳がぎょろり、と生き残りの数人を見る。


 次の瞬間、生き残った彼らは咄嗟に武器を構えていた。中堅層のプレイヤーの中でも、多少は腕が立つグループだったことが災いした。


 この十数分という短い間で、何度も鋼が月光に光る様を見続けて、その度に死を刻まれた獣――セーフティスキルによって急成長した狛犬の神経を、彼らは最大限に逆撫でたのだ。


 狂気に染まる赤い瞳が、憎しみと恐怖に染まるのは一瞬だった。


「皆、一斉に――! ……ぇ?」


 号令をかけようとした男が、疑問の声と共によろめいた。見れば、武器がない。いいや、武器を握っていた右手がない。もっと言えば、右腕が存在しない――。


 稲妻のごとく動いた獣の牙が、一瞬で男の腕を噛み潰したのだと気が付いたのは、一拍遅れて勢い良く血が吹き出してからだった。


「う、ぅわあああああ! ――あぶっ」


 痛みはなくとも腕を失くし、男が悲鳴を上げる。だが叫びの途中で男の上半身は消し飛んだ。続けざまに、狛犬の牙は硬直しているプレイヤー達を一息に噛み殺す。


 牙というより、もはや断頭台めいた一撃。地に敷かれたレンガごと武器を構えたプレイヤーを噛み砕き、それをきっかけにして狛犬はダッカスの街並みの中を悠々と歩き出す。


 今や、狛犬の頭にある考えは1つだけ。榊を見つけ――噛み殺す。そのために、鼻を使うとか、耳を使うなんて発想は何処にもない。


 ただ、目につく生き物を全て殺していけば――動くものが何1ついなくなれば、榊も間違いなく死ぬはずだ――そう思い、そう考え、巨大な狼は天にも届けと言わんばかりに喉を反らして吼え上げる。


 全て壊そう、全て殺そう。ただ1つの考えに従って、狛犬の瞳が〝塩の街、ダッカス〟の全容を見渡した。


 しかし、そのときだ。狛犬の首筋に、ヒヤリとしたものが走り抜ける。何度も何度も、首を掴まれ、締め上げられて殺された名残かそれとも――幼い日の、地獄のような忌むべき記憶のせいか。


 冷たい五指に掴まれている感触を消し切れず、狛犬は手近な家屋に首筋を叩きつけた。見えない指をこすり落とそうとするかのように、何かを振り落そうとするように、巨大な狼は悲鳴を上げながらその身体を――首筋を、何度も手近な物に叩きつける。



 キュォォオオオオオオオオンン――ッッ!!



 見ているだけで哀れに思うほど悲痛な叫びを上げ、牙を鳴らし、毛皮からは炎を吹き出し、深紅の瞳を狂気的に見開いて――、




 ――獣は……狛犬は、絶叫と共に走り出す。




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