第百二十九話・半:両極と陰陽、少年の不運

 



第百二十九話・半:両極と陰陽、少年の不運




 むかしむかし、神様たちがいました。


 創造神が自然の中から選び出し、人の姿を与えた神様たちです。


 善き神だと思われた時は、男神様、女神様と呼ばれ。悪しき神だと思われた時は、現人神荒人神、魔女と呼ばれました。


 一番有名なのは、現人神ハブでしょう。


 男神、ハブ。現人神ハブ。彼は【生と死】の神権を持ち、生殺の男神、黒猫もしくは黒いジャガーの現人神として君臨しました。


 彼の趣味は、大量殺戮と慈善活動。両極の行為に悦びを感じる彼は、初めのうちは殺戮の衝動を抑え、慈善活動に尽力しました。彼は本当に、人や動物たちを助けることにも悦びを感じていたからです。


 けれど、彼は【生と死】の神。片方だけに偏れば、棚上げされた衝動はたまっていくばかりです。

 だからある日、人を助けるために1頭の魔獣を殺した時。彼はその悦びの衝動に抗えなくなってしまいました。


 1つ殺したら楽しくて。2つ殺したらたのしくて。3つ殺したらもう理性なんて吹っ飛んでしまったのです。


 それから、現人神ハブと呼ばれるようになり、彼が殺戮に狂った時間は、ハブ・エント紀――現人神ハブの狂乱の年月としと呼ばれるようになりました。


 けれど、いくら【生と死】の神様とはいえ、慈善活動に費やした分以上に彼は殺戮に時間を費やしすぎました。


 そう、彼は救う以上に殺してしまったのです。


 ならばせめて、殺してしまった分だけ救わなければいけなかったのに、彼はとうとう超えてはいけない一線を越えてしまいます。


 現人神ハブはある日、オルティバルクの森に住む動物と人間、その混血達に無慈悲にも言いました。



 〝「生贄として、その子供を差し出せ」〟



 名指しされた子供の母親は、シャルルという名の女性でした。かつて、善き神であったハブによって森の深い霧から産まれた彼女は、ある意味で血の繋がらない父たる神からの言葉に言葉を失い、青褪めました。


 子供の父親は、元はただの豹でした。名前はアルト。彼もまた、人の姿を貰った相手は違えども、現人神ハブに恩恵を受けた者でしたが、彼はハブの命令に激昂しました。


 けれど、彼がどれだけ魔法を使えようとも、彼女がどれだけ賢くとも。どちらも同じ神によって恩恵を受けた者。歯向かえば世界からその罰が下る故に、彼等は指一本動かせずに、目の前で子供を奪われてしまいました。


 彼等の子供は連れ去られ、その日の夜に現人神ハブの生贄になる最初の子供となる運命だったのです。


 けれど、彼等は諦めませんでした。彼等はその森に住む人間の中で、ただゆいいつ現人神ハブの恩恵を受けていない者に助けを求めました。


 どの男神からも、女神からも祝福を受けずに育てられた子供。縋る神を持たず、崇める神を持たず――だからこそ、誰もが扱う権利を持つ、神の名前を呼ぶ魔法を扱えなかった子供。


 獣達の友。変わり者の魔法使い。扱う魔法の種類が皆と違ったが故に、最後には人の群れからは追い出されてしまった孤独な青年ノラに、子供の両親は叫びます。



 〝「これがどれだけの罪かは知った上で、それでも私達は言わねばならない。友よ……どうか我が子を助けてくれ」〟



 賢者ノラ――または、誤読によりノア。後世でそう呼ばれる青年は、本当はとても臆病な青年でした。


 彼は本当なら、神殺しにおもむくような人間ではなかったのです。風が吹いただけで怯え、雷一つで悲鳴をあげるような人間でした。口癖は、〝ああ、きっと私に明日は無いんだ!〟です。


 現人神ハブの乱心にも彼は酷く怯え、結界を張って見咎められることも恐ろしく、逃げ出す後ろ姿を見られることも恐ろしく、家にいないことがバレることも恐ろしいと言って、ただ震えながら鍵さえもない家に閉じこもっているような人間でした。


 だから、オルティバルクに住む動物達、人間達、その混血達の誰もが、その願いを無駄だと言いました。特に、アルトの盟友であるギリードールという男などは、〝あんな臆病者に何を頼む!〟と森中に轟くほどの大声で叫んだほどでした。


 けれど、そんな皆の予想を裏切って、青年ノラは震える声で言いました。



 〝「そうか、そうか――ならば私が、あの子を無事に連れて帰ろう。たとえそれで、神を殺すことになろうとも」〟



 誰もが驚き、誰もが最初は信じませんでした。



 けれど、青年ノラは言ったのです。〝きっと必ず、連れて帰る〟と。その顔は蒼白で、声は震えていましたが、涙する両親の手を握った彼の手は、震えの一つもありませんでした。


 かくして、青年ノラは友であるアルトのために神殺しに赴き、創造神の助力もあって現人神ハブの魂を呑み干しました。

 神の魂は不滅。ならば、その魂が持つ神権ごと取り込んでしまうしかなかったからです。


 不滅とはいえ、青年ノラは神権ごと神の魂を呑み込んだ。


 それは神殺しというに相応しく、彼はその咎を背負いながらも、手に入れた力で世界を統治し、荒れ果てた全てを再興しました。


 けれど、その統治にも陰りが訪れます。ノラの内に取り込まざるをえなかったハブの魂は決して眠らず、ノラに破壊と慈善の両極の感情を何百年にもわたって囁き続けました。


 その不吉な声に、ノラは次第にヒステリックに振る舞うようになっていきます。ノラはある時、これ以上ハブの魂と共に生きることは不可能だと創造神に訴え、そしてその訴えは認められました。


 悪霊を御するシンボルである〝ソロモン王〟の名を名乗り、そのくらいに神権の一部を紐づけることで、賢者ノラは自身の内側で破壊を叫ぶハブの魂を追い出します。


 すでにノラの魂の一部と融合してしまった部分さえも嫌がり、ノラはそれを自身の子供達として分離させました。一部の悪魔などがそうするように、性別の関係なく、2つの魂の下にその子供達は生まれました。


 ソロモン王であるノラと、現人神ハブの間の子供達。彼等はノラの魂からハブを排斥するために、神の遺伝子を持って生まれてきてしまったのです。


 幸いなことに、それだけでは彼等は神にも亜神にもなりえません。けれど、彼等は最初の魔術師であるノラの遺伝によって未来永劫、子々孫々まで取り換え児――魔術師として産まれることが定まってしまいました。


 その上、彼等は神の遺伝子も持っていました。それらは2つの鍵付き遺伝子で出来ていて、その2つが合わさらなければ何の意味も無いものでしたが、強い継続遺伝性を持つ遺伝子は、いつの日か偶然に、神権無き神――〝亜神〟を生み出すかもしれないと危惧されました。


 〝亜神〟と言えども神は神。世界のどこにも前例のないその存在が、どんな生物いきものになるか、どんな事をしでかすかもわからない。わからないものを生み出してしまうことは、あまりにも危険だと誰もが思いました。


 そんな事態を防ぐために、ノラは1つだけ子供達に禁忌を定めます。


 〝「――ソロモンの魔術師同士の婚姻は禁忌とする。これは未来永劫、守られるべき唯一の法と思え」〟


 近親婚を防ぐためではなく、亜神の誕生を防ぐために。ノラは子供達にそう言い含め、そしてそれは守られてきました。


 近年まで、幾年月いくとしつき。未だ、ハブの鎖錠さじょう遺伝子の鍵が開かれたことはなく、この世に亜神は存在していません。






 そこまで書いて、少年の手がふと止まった。


 栗色の短髪に、赤い瞳。アイロンがかけられた青いシャツを着た身綺麗な少年――ブランは、自宅で家庭教師の指導の下、「現人神ハブと初代ソロモン王、その子供達について」というテーマで歴学文を書かされていた。


 ブランは聡明そうな赤い瞳をくるりと動かし、家庭教師をじっと見上げる。家庭教師は黒く塗りつぶされた眼鏡越しにブランを見下ろし、なんだい? と穏やかな声で言った。


「レジナルド先生、この、追い出されたハブの魂はどうなったんですか? 神の魂は不滅だというのなら、その魂はどこへ行ったんですか? 今もどこかにあるんですか?」


 あと、亜神はいないって本当ですか? どうやってわかるんですか? ソロモンの子供達は正確には何人いたんですか? と思い付く限りの質問を投げつけるだけ投げつけて、ようやくブランは口を閉じた。


 全部の問いに答えを求め、ブランはじっとレジナルドの瞳を眼鏡越しに見つめている。レジナルドは少しだけ黙り込んだが、ゆっくりと答えられる質問だけを取り上げた。


「……ハブの魂はその後、創造神の手で冥界に叩き込まれたが、ジギタリスの魔女――もしくは、善悪の女神ジンリーの手によって、冥界の女神……狼の魔女ルビルスから奪われてしまう。その後、まあなんやかんやあってブチ切れたルビルスによってジンリーの手からハブの魂は回収され、冥界に再び放り込まれたと言われているけれど、真相は闇の中だ」


「……」


「他の質問には、私は知らない、としか言えないよ」


 知っている者は存在するかもしれないが、少なくとも私は知らない、とレジナルドは言いながら、流れるような仕草でブランが書いた歴学文れきがくぶんの綴りの間違いを指さした。


「……そもそも、亜神って何なんですか? 神と何が違うんですか?」


 きまり悪そうに間違いを直しながら、ブランはレジナルドに食い下がる。ブランから両親に頼みこみ、両親がしぶしぶ――特に父親がしぶしぶ許可を出した家庭教師は、小首を傾げて考え込んだ。


「そうだねぇ……それは多分、この世の誰も知らないことだね」


 便宜上、学問として学ぶために〝亜神〟と呼ばれているだけで、今までそんな存在が生まれたことはないのだから、定義づける基準も無い。


 だから、亜神といってもどんな存在が亜神なのか。亜神が生まれたらどんなことが起こるのかなんて、実は誰も知らないんだよ、とレジナルドは言う。


「もしかしたら、私達が全く知らない所で存在しているのかもしれないね」


「ふーん……」


 鉛筆を投げ出して、ブランは唇を尖らせる。でもでも、と少年は言い募ろうとするが、レジナルドはブランの額をそっと押さえ、その言葉を封じ込めた。


「もしも――」


「……」


 赤い瞳がレジナルドをじっと見上げ、レジナルドはそれをひたりと見下ろしてこう続ける。


「もしもだ――亜神が産まれたとしたら、現人神ハブの人の姿を知る者はそれだとわかるだろう。鎖錠さじょう遺伝子とはすなわち――創造神が黒猫、または黒いジャガーに与えた人の姿になるための遺伝子であるとも言われているから」


 けれど、とレジナルドは静かに言う。


「けれども、現人神ハブ……そのりし日の姿を知る者は、今や多くが姿を隠した。ソロモンにおいても、魔法世界においても彼は存在そのものがタブーだ。知る者は誰もが口を閉ざす」


「……亜神は現人神ハブそっくりに生まれてくるってことですか?」


 ブランの問いに、その通りだ、とレジナルドは頷いた。彼はにこりと微笑んで、もしかしたら君の家系は何か先祖から肖像でも受け継いでいるかもしれないよ、と言う。


「本当ですか!」


「しーっ……ほら、大人しく座ってブラン。もしかしたらだよ。君の家は、かつての善良なる男神ハブに特に産まれを助けられた血筋だから、可能性があるというだけの話だ。でもこの話は、友達にも、誰にもしない方がいい」


 たとえ元は善良なる者であったとしても、殺戮に狂った歴史は消えはしない。彼をあがめる血筋もいれば、彼を憎む血筋もいるからと。


「長く生きる我等は、それゆえに過去を長く忘れられない。善いことも、悪いことも同じように。割り切ることが出来ないわけではないが、わざわざ傷口に触れる必要はない」


 でも長く健やかに生きたいのならば、義理や救いは長く覚え、裏切り者の名は忘れずとも、不義や対立の歴史自体は早く忘れてしまうことだ、と言い、レジナルドはブランの書いた歴学文の束を手に取った。


 さっと消しゴムのカスを払い、唇に手を当てて彼はじっとそれを読み始めるが、そわそわと落ち着かない様子のブランをちらりと横目に見て、仕方なさそうに微笑んでから、休憩に行っても良いよ、と言う。


「すぐに戻りますね!」


「はいはい、期待はしていないよ」


 いってらっしゃい、と手を振るレジナルドに慌ただしく一礼し、ブランは活発な少年らしい動きで自身の屋敷に作られた学習室から駆け出していく。


 毛足の長い赤い絨毯を蹴って、目指すは父親の書斎。長い廊下を人外の速度で走り、ブランはノックもしないで父親の書斎に転がり込む。


「ッ――何があった!? どこを怪我した!」


 ソロモンでも危険度で言えばある意味でぶっちぎりな家庭教師にはらはらしっぱなしの父親は、レジナルドなら大丈夫よ、あたしは友達の家に出かけてくるわ、と言って家を留守にしている母親とは反対に、書斎で落ち着かなげに火のついていないパイプをくわえていたらしい。


 悲鳴のようなその叫びは屋敷中に響き渡り、遠くの学習室でレジナルドが人知れず深い溜息と共に、私は別にそんなイカレ野郎じゃないんだけどな、と呟くが、勿論そんな嘆きは父親にもブランにも聞こえていない。


 息を弾ませながら書斎に飛び込んだブランは、父親の様子にきょとんとしてから、すぐさま半眼になって肩をすくませる。


「父様は人を見る目が無さすぎます。だから母様に未だに〝入り婿殿〟なんて呼び方をされるんですよ。表向きだけでも当主なんですから、しっかりしてください」


 ほら、僕には怪我1つありませんし、それどころかまた1つ賢くなったぐらいです、と息子に諭され、ロンダルシア家の入り婿は呆然としながら詰めていた息を吐く。


「そ、そうか……いや、しかし噂では……」


「噂など何の役にも立ちませんよ父上。噂とは、その人物の一側面。もしくは、何の関係もない評価が独り歩きしたものです。大事なのは、自身の目で見た人物像です」


 まだ年若い少年とは思えないほど、はきはきとブランは父に述べた。自身の赤い瞳を指さす息子を見下ろして、父は眉を下げながら、そうだな、と囁くように言う。


「……では、まだ授業の時間だが、どうした?」


「指示された歴学文を1つ書き上げたので、休憩を貰ったんです。そこで父上、勉強のため、後学のため、質問があります! 我が家には男神ハブの肖像は伝わっているのですか?」


「――――」


 ブランに問われ、父親が息を止めた。男神ハブ、と口の中で呟いて、それから彼はぎこちない動きでかすかに頷く。


「ああ……ああ、それなら、様の肖像なら……その、地下の方に……」


「見せてもらってもいいですか?」


 地下と聞いて大体の見当がついたブランは、今にも駆けだしていきたい気持ちをぐっとおさえて父親にお伺いを立ててみせる。上目づかいの息子に一瞬つまったが、父親もぐっと持ち直して、逆にブランに問い正した。


「あー、その……どうして必要なのかな?」


「必要なんです」


 賢いブランは理由を説明すればするほど、ダメだと言われることを察したらしい。しれっと、しかしきっぱりと言い切って、ブランはきりっとした目つきで胸をはる。


 すると、父親もダメとは言いづらい。あー、うー、しばらく唸っていたが、5分ほどブランが辛抱強く待ち続けると、一番奥にある一番大きい掛けの下に肖像があると、掠れた声で呟いた。


「ありがとうございます、お父様!」


 聞いたとたんにブランは一礼し、父親の書斎から駆け出してゆく。その足は風のように動き、勝手知ったる我が家の地下へとあっという間に辿り着いた。


 ひんやりとした空気を頬に受けながら、ブランは地下への階段を慌ただしく駆け下りる。最後の3段は一息に跳び越えて、整然と、しかし大量の物で埋め尽くされた地下倉庫に降り立った。


 石造りのそこは清潔で、壁には特殊な陣が刻まれて仄かな明かりが明滅している。わずかな明かりしかなくとも、ブランとて吸血鬼の子。その赤い瞳は暗闇を透かし、日の下で見るようにはっきりと世界を映し出した。


 ここまで走ってきたのが嘘のように、ブランはとたんに静かに、ゆっくりと歩き出す。探るように、おそれるように、期待するようにその歩みは繰り返され、様々な物の隙間を縫って奥へ奥へと進んで行く。


 巨大な檻、巻物の束、積まれた羊皮紙に呪物に使う乾燥植物。何かよくわからない液体で満たされた丸底フラスコに、丸太の山。


 それらを踏み越えた先に、一際大きな長方形の物体が置かれている。縦に置かれたそれには、ベージュ色の掛け布。そこだけがこの空間から隔離されているかのように埃が積もり、他のよく掃除された物との差がよくわかった。


「……」


 ブランは熱い息を吐き、震える手をそっと伸ばす。分厚い掛け布を引っ張れば、それは想像よりも簡単に、実にあっけなく姿を現した。



「――これが、在りし日の……男神ハブ」



 狂気に呑まれる前の。衝動に負ける前の、ハブ。


 その名をもって生と死の神と呼ばれた存在が、一枚の巨大なキャンパスの中で微笑んでいた。


 黒髪に、緑とも青ともつかぬ色の瞳。その表情は穏やかな微笑みを浮かべていて、いかにも優し気だ。


 その身にはゆったりとした純白の神衣をまとい、悪戯好きそうな瞳がじっと見るものを見おろしている。額縁には小さな文字が書かれており、ブランは静かにそれを読み上げた。



「〝邪悪ではあるが、奸佞かんねいではない〟――」



 ――邪悪ではあるが、奸佞ではない。


 ――残忍ではあるが、酷ではない。



 刻まれた意味を反芻し、ブランはじっと考え込む。



 心がねじ曲がってはいるが、悪賢いわけではない。無慈悲ではあるが、むごいわけではない。



 ブランからすれば、その違いはよくわからない。けれど、男神ハブとはそういう存在だったのかと頷いて、最後にじっとその顔を目に焼き付けてからブランは地下を後にする。


 思ったほど怖い顔ではなかったな、と思いながらレジナルドのもとへ戻り、ブランはただいま戻りました、と行儀よく一礼してから席に着いた。


「おかえり――ああ、あったかどうかは言わなくていいよ。厄介なことになるからね。……それでは、勉強の続きだ。ちょうどいいから次は冥界の女神、狼の魔女ルビルスについて調べて書いてみなさい」


 参考文献は持ってきているから、ちょっと待っていなさい、と言いながら立ち上がるレジナルド。その上着のポケットから、はらりと一枚の写真が零れ落ちる。


 座ったことで持ち上がっていた写真が、その軽さからするりとポケットを抜け出て、まるで示し合わせたかのようにブランの足元にひらひらと落ちた。


「あ、僕拾います!」


 ブランがもし、礼儀正しい子供では無かったのなら。誰かの落とし物を拾い上げることを面倒に思うような子供だったなら、彼は一生それを知ることなく過ごすことが出来ただろう。


「――」


 けれど、ブランはかがんでそれを拾い、そしてそこに写るものをはっきりと見てしまった。



 その写真に写る者を。



「――あ、の」



 男神ハブと瓜二つの、頬に三角形の火傷の痕が残る、性別不祥の人物を。



「――――どうぞ」



 急に息が苦しくなりながら、ブランは気丈にもそれをレジナルドに手渡した。この時、レジナルドが写真に写る存在のことに思いをはせていて、ブランの様子がおかしいことに気が付かなかったのは、善かったのか悪かったのか。


 ブランにはわからない。


 けれど、とんでもない事実に気が付いてしまったと青褪めるブランは、レジナルドに勘づかれる前にお手洗いに行ってきます! とその場から走り去った。


 一目散に地下へと走り込み、ブランは肩で息をしながら肖像画の前に舞い戻る。



「ッ――ああ、神様――ッ!」



 忙しなく息を吸ったり吐いたりし、汗ばむ掌を何度もズボンで拭いながら、少年はどの神に祈るかもわからないままそう口走る。


 心臓は激しく脈打ち、ブランは必死になって考える。自身のように、かつての男神ハブの顔を知る者があれを見たら、いったいあの写真に写る人に何が起きるのだろうと。


 亜神が何者かは、誰も知らない。魔術師以上に得体のしれない存在がどうなるのかは、ソロモンに出入りするようになったブラン自身がよくわかっている。


 わからないものは、封じてしまう。そこに権利などはなく、ただ危ないかもしれないからと、その魂ごと封じられてしまうだろう。


 いや、もしかしたらもっと悪いかもしれない。神の魂は不滅。亜神のそれも同じだと言うのなら、ハブの魂と同じように、冥界に放り込まれる可能性だってある。


 もっと悪くすれば――、いや、悪くしなくとも、ソロモン王と表向きの協定を結ぶが故にソロモンの幹部として総会の席を持ち、暗躍を続ける魔女ジンリーに見つかり、現人神ハブ復活のための依り代にされる可能性は十分高い。


「……どうしよう」


 現人神ハブの復活もよくないと本能が叫ぶが、それよりもブランという少年にとっては、身近な人の悲しみの方が重要だ。


 そんなことになったらレジナルドはどう思うだろう。あの、最近になって、ようやくブランにも自然な微笑みを見せてくれるようになった、優しい人は――、


「……なんとかしなくちゃ」


 うわ言のように、ブランは呟く。ブランは、レジナルドのことを慕っていた。恐らく、レジナルド本人や、周囲の人が思うよりもずっと親愛の感情を抱いていた。


 まるで歳の離れた兄のように思っていたのだ。だから、ブランはそれがどんなに無謀で、無茶かわかっていてもそう呟いた。


 どうせ、誰にも言えはしない。沈黙するしかないのならば、せめて、知ってしまった者の義務として。



「僕が……なんとかしなくちゃ」



 何もせずに幸運を祈り、眺めていることだけは不可能だと。



 少年は呟いて、焦りのままに走り出した。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る